12日目、GALERIJA 11/07/95へ行く

前回の続き

次の日の朝、ポーランド人の二人はライダースの上下を身につけ旅立っていった。ベッドで寝転んでいる僕に対して、別れ際に挨拶をしていった。僕は10時頃にベッドから起きると、トリップアドバイザーで確認してたGALERIJA 11/07/95へ向かおうと思った。ここではボスニア紛争時の写真が展示されている。僕がこのボスニア・ヘルツェゴビナに来たのも、第二次大戦以降のヨーロッパで最大の被害があったと言われるユーゴスラビア紛争、その中でも特別ひどかったボスニア・ヘルツェゴビナの土地に足を踏み入れてみたかったからだった。3年ほど前からずっとボスニアへ行きたいと思っていた。このブログにも各所でそのことを漏らしていた。

スポンサードリンク  

GALERIJA 11/07/95

内戦時の写真展があるということは、こちらに来てから初めて知った。そういうものは普通旅行者にあまり好まれないんだけど、何故かこのGALERIJA 11/07/95についてはトリップアドバイザーのサラエボ観光地ランキングで一位だったため、俄然行きたくなった。場所を確認するとこのホステルからもすぐ近くだった。むしろ昨日前を通っていた。僕はシャワーを浴び(シャワーの使い方が特殊すぎて手間取った)、服を着た後に荷物をまとめてホステルを出た。

f:id:kkzy9:20150625004344j:plain

GALERIJA 11/07/95は少しわかりにくい場所にあった。教会の横の細い道にあるビルの3階か4階でやっていた。ビルの前に看板が立っているから、それを見つけられたらわかると思う。エレベーターで上がり、受付でチケットを購入して中に入った。チケットは12KM(858円)とこちらの物価からすればやや高めだが、中で30分程度のドキュメンタリー映画を2本上映しており、また一度チケットを購入すれば何度でも入場できた。中で写真を撮ってはいけないと言われたが、客のおっさんは思いっきり撮影していた。このギャラリーは小さく、写真もそれほどは多くない。見たことある写真もあり、下に写真家の名前が掲載されいていた。僕はその悲壮感漂う写真を一枚一枚、丁寧に見ていた。

https://instagram.com/p/3v02ChBvJd/

僕の前に来ていた老人二人がスクリーンの前に腰掛けていた。丁度ドキュメンタリーが始まるところだったため、僕も近くのイスに腰掛けた。映画は当時サラエボを取材したものと、虐殺のあとスレブレニツァを取材したものの二本立てだった。音声はボスニア語で英語の字幕がついている。その内容は、僕が今まで予習として見てきたボスニア紛争に関するドキュメンタリー、BBCのものやアメリカで制作されたどれよりも体の内側に響くものだった。紛争中にインタビューを受けるサラエボの子供たち、彼女たちは片言の英語でインタビューに応えている。今も生きていれば30代ぐらいだろうか。


Watch 1995 - Miss Sarajevo (LIam Neeson intro version) [ Electronic Press Kit ].mpeg in 音楽 | View More Free Videos Online at Veoh.com

「ただ道路を横切るだけでスナイパーに撃たれるから、ここはダッシュしないといけないの」

砲撃によって壊れた車で遊ぶ子供たち。

「ああ、牢獄へ戻ってきた」

子供たちはインタビューに対してあえて明るく振舞っている。そうでもしないと生きていけない、頭がおかしくなると現地の男性は言う。子供時代をここで過ごすということがどれだけ

遺体となった赤子を抱き、涙を流しながら何度もキスをする父親。そして彼はその赤子を埋葬する。

あまりにもつらい現実。人々の絶望を映像で如実に現している。たかだか20年前に起こった紛争の映像を目の当たりにして、僕は自然と涙を流していた。このボスニアの地で生きてきた人なら、20歳以上なら誰もがこの紛争を経験している。この映像にあるような現実を生きてきた人たちが、今もこの地で生活している。そして死んでいった人たち。そのおびただしい数の墓を僕はこの後何度も目にした。ボスニアに限らず、戦争について僕はこれまでに何度も考えていた。過去の日記にもあるので興味があれば参照してください。

ホステルの従業員との会話

GALERIJA 11/07/95をあとにして、僕は再び旧市街を歩いていた。天気が悪くなりそうで、一度ホステルへ戻ろうと思ったら少しずつ雨が降ってきた。ホステルに着く頃には土砂降りになっており部屋の鍵を取りに行こうとバーへ向かうと、昨日のバーテンの兄ちゃんが外でタバコを吸っていた。僕は英語がわかる彼に、聞きたいことがあった。

「やあ、雨すごいね」

「大変だよ。この雨だと客も来ないしさ」

「なあ、一つ聞いてもいいかな。真面目な質問なんだけど」

「なんだい?」

「君はサラエボ出身なの?」

「そうだよ」

「君は、君たちの一般的な意見でもいいんだけど、ユーゴスラヴィアについてはどう思っているの?」

「そうだね、ユーゴスラヴィアの時はみんな平等だったんだ。当時を悪く言う奴なんて誰もいないと思うぜ。金持ちも貧乏人もいなかったんだ。ほら、社会主義だっただろ、でもソ連や中国の社会主義とは違う。みんなミドルだったんだ。今のように宗教でいがみ合うこともなかった。俺はボスニア人だけどムスリムじゃない。神は信じていないんだ。先週末このサラエボにヨハネ・パウロ二世が来ていたんだ。知ってるか?バチカンの。このあたりも人でごった返してさ、俺はあーいうの信じないんだよ。ユーゴスラヴィアだっけ、その質問は誰にしても同じ答えが返ってくると思うよ。あの時を悪く思っている人なんていない。ユーゴスラヴィアやティトーを悪くいう奴らなんて、戦争で儲けた奴らぐらいじゃないかな。ティトーは偉大なリーダーだったんだ。コミンテルンを脱退し、ソ連や中国とは一線を画して独自の社会主義を展開した。いろんな国の大統領や首相からも歓迎され、尊敬されていた。俺にはセルビアにもクロアチアにもいとこがいるんだ。旧ユーゴスラヴィアのどこにだって親戚がいる。みんな仲良かったんだ。あんな時代はもう二度と来ないよ。不可能だ。去年の2月にもこのサラエボでデモがあったんだ。政府に対する抗議運動でね、この国は貧しいんだよ。知ってるか?この国で走っているバス、あの黄色いバスは日本から援助されているものなんだぜ?俺たちだって、できるものなら日本になにか恩返しがしたい。でも何もできないんだよ。」

その言葉一つ一つを慎重に聞いていた。僕は英語がそれほどわからないから、確認しながら、彼は冷静に、丁寧に、わかりやすく自分の言葉を説明してくれた。バーとホステルのオーナーに「いつまで喋ってるんだ」みたいなことを言われ彼はバーへと戻っていったが、彼は去り際に「興味深い話ができて良かったよ」と言っていた。それは僕が言わなければならない言葉だった。

ボスニア内戦 [国際社会と現代史] (国際社会と現代史)

ボスニア内戦 [国際社会と現代史] (国際社会と現代史)

 

次回、13日目サラエボで出会った人たち

今週のお題「海外旅行」