悪く言ってしまいがち

自責の念に駆られている。物事を悪く言うのは善くない。人のことも悪く言ってはいけない。聞いているほうは不快であり、言っている人の印象も悪い。言及したり批判することが大切なときもあるが、否定的な意見を言うだけでは誰も得しない。改善案を提示したりポジティヴな側面に注目したり、おもしろおかしい話をしたほうが建設的だ。つい昨日も言ってしまったばかりで、ずっと悔やんでいる。取り繕いたいと考えていたが、そういう行動も含め全てが見苦しいだけ。粛々と心の中で悔やんでいる。いや、今これ書いているんだけど。これは弁解とかではなく反省と改善を目論んでのこと。

自己否定を言い訳にしない

ではなぜ物事を悪く言ってしまうのだろう。その心理を考えてみる。まず、僕自身が自分のことを悪く言ってしまいがちだ。なぜかというと、答えになっていないかもしれないがネガティヴな人間だから。自分に対して否定的である。ネガティヴ思考が根付いてしまっており、そこから出てくる言葉は全てネガティヴな要素に満ちている。自分がネガティヴなのは、おそらく生まれつきだろう。もしくは否定され続けて育ったためそうなったのかもしれない。いずれにせよ、この点に関してはいまさら変わったりしない。変わりたいとも思わない。しかし、態度や行動は改めたい。もしかすると態度や行動の改善が、内なるネガティヴの改善にも繋がるかもしれない。こんなことは考えても不毛だな。

感情的にならない

今僕が悔やんでいるのは、人のことを悪く言ってしまったことだ。ある人に対して、別の人の否定的な印象を垂れ流した。これは善くない。なんでそんな事を言ってしまったのだろう?一つは冷静さを欠いていたため。冷静であれば、一呼吸おいて飲み込めたはずだ。感情的になり、オマケに酒が入っていたのがよくない。また酒のせいにしている。行動するときは常に冷静でありたい。節度を保てるように、悪い感情をぶちまけないように日々心がけたい。酒を飲むときは一人で飲み、酔いつぶれてすぐに寝るべし。

余計なお世話

もう一つは、たまにこういう心理が現れる。ある人の、別の人に対する人物像に緩衝材を置きたかった。ここでは仮にAさんBさんとする。AさんがBさんに対して抱いている印象がある。しかし、僕はBさんの別の一面を知っている。それをAさんにあらかじめ伝えることで、AさんがBさんの別の一面を知ったときのショックがやわらぐのではないかと思った。期待と失望、その間に緩衝材を置いて少しでも傷を浅くしたかった。余計なお世話だ。そんなことをするぐらいなら、ポジティヴなイメージを付け加えたほうが何倍もマシだ。

幼稚な発想を捨てる

最後にバカみたいな理由があった。僕が悪く言う人は、大抵が仲のいい人だ。いや、仲がいいかどうかはわからないが、一方的にでも親しみを感じている相手のことを悪く言いがちである。なぜか。それは気心知れている(と思っている)人だから悪く言いやすいということもある。しかしそれだけでなく、本当は自分の立場を守りたいのだ。自分と仲良くしてほしいから、他の人には悪く言ってしまう。これはネガティヴならではの最低の心理だ。親しみを感じている人が他の人と親しくなると、自分の立場を失ってしまう。自分の立場を守ろうと人を悪く言う。下劣な根性だ。

さて、この状況における正解はなんだろうか。人を遮って自分の立場を守ろうとするのではなく、自らの立場を築いたり、強固にすること。つまり、相手から自分へ親しみを感じてもらえるよう、自己改善の努力をすること。そして誰かが誰かと親しくなろうとするのを咎めたりせず、積極的にサポートするのが善い行動にあたる(冷静に考えた上で、親しくなろうとするのが間違いな相手だったら助言したほうがいい状況もある)。

外国人あるある

僕の知っている外国人たちは、コミュニケーションにおいて決してネガティヴな態度を取らなかった。他人を否定したりしなかった。もしそういうことがあっても、一般論としてではなく飽くまで自分の意見であることを強調し、否定している自分の態度そのものを否定的に扱っていた。これはおそらく、彼らの間で常識として存在する会話のマナーであり、相手に不快な思いを与えず有意義な歓談にするための作法なのだろう。僕もそういう態度を見習いたい。贖罪の気持ちでいっぱいです。