人を知ること、その先に

人をよく知ることの先には何が待っているだろうか。相互理解だろうか。良好な関係性だろうか。もしくは争いだったり、弱点ともなれば奪い合いだろうか。それとも共闘によるシナジー効果だろうか(前の職場に口癖のようにシナジー効果と言う人がいた)。

ここから先は僕の事例。僕が人のことだったり、何か物事を知ろうとするとき、その先に求めるのは世の中を見据える新たな視野だった。学問を身につければ、世の中の一部を専門的な視点から深く掘り下げることができる。どこまでも深く、際限ない。横を見渡しても広い。分野に限りはない。隣りにいる人は、また自分とは違った視点から世の中を見つめている。海の向こうでは全く違う視点で世界が語られている。そのような別の視点を知りたい。あらゆる視点を。それらを統合して、まんべんなくこの世の中を眺めてみたい。一体どういう仕組みでこの世の中は成り立っているのだろうか。

人のことを知りたいときは、その人がどういう視点を持っているのか知りたい。あわよくばそれを自分の中に噛み砕いて理解したい。そうやって新たな視点を身につけたい。他人に備わっている視点は、感覚的にはわからない。その仕組みを知る必要がある。その視点はどういった経路をたどり、どのようにして構成されているのか。ありとあらゆるパターンの解析が必要になってくる。それらを全て知って初めてインプットすることができる。こういうとき、この人だったらこう考える。一つの人格が自分の中に出来上がる。それらは知識であり、学問である。

人に興味がわかないときは、その多くが既にそのパターンを知っているとき。でなければ自分に必要のないパターンだったりするとき。物事をこんなふうに捉えられたらおもしろいなーと思ったときに、人に興味がわき、その人のことを知りたいと思う。彼は彼女は、何をどう考え、どう感じ、どういった答えをだすのかが知りたい。