村上春樹の文章はなぜこんなに読みやすいのか

今、新潮文庫の村上春樹「雑文集」を読んでいる。つねづね思ってきたことだけど、村上春樹の文章は読みやすい。非常に読みやすい。なぜこんなにも読みやすいのだろう?村上春樹の文章は、食べ物で例えるとうどんだろうか。味が濃すぎるわけでも飲み込みづらいわけでもない。体調が悪いときだってツルッと完食できる。ダシがきいていて体に優しい。いつなんどき食べても喉を通る。村上春樹のエッセイは、小説よりもさらにその傾向が強い。精神的に余裕がないとき、難しい本とか映画とか摂取する気力がないときでも、村上春樹のエッセイなら気軽に手を出せる。咀嚼して、抵抗なく飲み込むことができる。これが他の本だとなかなかそうはいかない。ドストエフスキーなんて1ページももたず投げ出してしまう。ヘヘッ!!(フョードル・カラマーゾフ風)

その違いはなんだろうか。ドストエフスキーは翻訳だから、元の言語から変換されている分不自然な言葉遣いになっているということはあるだろう。時代背景も違う。文化的差異もある。そいうのを差し引いても、村上春樹の文章は読みやすい。同じ年代の日本語作家と比べたって読みやすいはずだ。おそらく。言葉遣いなのだろうか?村上春樹はときどき全然知らない言葉を使うから、簡単な言葉ばかり使っているということでもない。文章量だろうか?村上春樹は決して文章が短く簡潔というわけではない。長編に至っては上下巻あることも珍しくない。しかし、それでも物語がするすると前に進んでいく。長さを感じさせない。1Q84はさすがに長かったが。村上春樹の文章は軽快である。軽いのだ。粘着性がない。重みを感じない。大変なことを語っていても、下手すれば素通りする。しかしその軽さが、さくさく読み進めることができる理由だろう。

村上春樹は難しい言葉を使うこともあるけれど、文章そのものは平坦で引っかかりが少ない。飲み込みやすいとは、引っかかりが少なくすんなり飲み込んで消化できることを意味する。それが栄養分として吸収できるかどうかはともかく。村上春樹の文章に引っかかりが少ないのは、悪い言い方をすればまわりくどいからだろうか。いい言い方をすれば丁寧なのかもしれない。あたりを広く見渡して、情景をしっかりと描写する。それが回りくどいと感じる人だっているんじゃないか。しかしそんなものはサラッと読み進めることができ、わかりやすい情景だけが頭に残る。だから文章量が多くとも長くは感じない。読むことに体力を使わないのだ。

今読んでいる村上春樹の「雑文集」は、死んだ作家であれば書簡集になるような、人の本のあとがきだったりそういうものを集めた本だ。こんな本をわざわざ買うのは村上春樹ファンぐらいだろうか。そうでもない。どんなときだってお腹に優しい文章としてすんなり飲み込める村上春樹の本は、さながら病院食、おかゆのようである。旅行が好きでなくても旅物エッセイを読めばおもしろいだろう。「雨天炎天」とか。小説は好き嫌いがあると思う。「ノルウェイの森」とか。ファンだったらやっぱり「村上さんのところ」あたりも押さえているのか。僕が感想を書いている小説以外の村上春樹は、対談集は「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」ぐらい。

本題の、「村上春樹の文章はなぜこんなに読みやすいのか」答えがある人は教えてください。

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)