親との関係に問題を抱える人

多いんだなー。最近聞いた話が、みんな親との関係に問題を抱えている人ばかりで、20歳を過ぎてもずっと引きずっている。Twitterで見た話では、親子関係の不和って40を越えても50を越えてもずっと引きずるもんだとか言ってた。どうやらそういうもんらしい。

これまで他人の家庭について何も知らなかったが、周りにいる人たちの話を聞いたことで、自分の家であったり、親戚関係、親子関係がいかに順調なのか気付かされた。誰の話を聞いても、親戚どこか一軒は必ず揉めていたり疎遠になったりしている。絶縁していたり。自分は両親、祖父母、叔父叔母が全員京都で、近いため交流があるから親戚同士が仲いいのだと思っていた。そうでもないらしい。みんな親兄弟や親族でそんなケンカするもんなんだな。他人の家庭に口を出すもんじゃないが、正直大人気ない。でもそんな人たちが掃いて捨てるほどいる。人間なんてあまり大したことないみたいだ。

それも僕が問題を抱えていないから言えた話で、親族間、特に親との確執に頭を抱えている人は周りにたくさんいる。中でも幼少期における親からの愛情不足が、大人になっても自らを呪いのように縛り付けているケースが多い。それは本人に自覚があるとか、原因に心当たりがあるとかないとか関係なしに、背後霊のようにつきまとう問題のようだ。女性から聞くことが多いが、男性はそんな話を人にしたがらないからだろう。男性で言えば、ハラスメント型の人が典型じゃないかなあ。家族関係とは限らないが、わかりやすく何かしらの問題を抱えている。

親子関係がうまくいっていなかった人の呪いとは、どういう形で現れるのか。人間関係に現れることが多い。一例では恋愛やパートナー、家族関係に現れている。具体的に言うと、実親から得られなかった無償の愛を、パートナーや子供に求めてしまって相手に負担を強いたり、結果的に関係がこじれるパターンである。至極単純だ。相手に過剰な期待を寄せては、得られないと激怒したり悲しんだりする。相手は疲弊して離れていくか、引き込まれて病んでしまう。

彼ら彼女らは実親から十分な愛が与えられず、愛されるための努力をしたのだろう。しかし結果が得られなかった。もしくは愛されていたかもしれないけれど、うまく噛み合わなくて実感できなかった。そして恋愛対象やパートナーに対して同じことを求める。恋愛対象やパートナーに限らないかもしれない。近しい人、愛情が得られそうな人であれば誰からでも求めてしまうのだろうか。愛情飢餓って言葉があったから、そういう状態もあるのだろう。なぜか期待して当然、与えられて当然だと思っている。

このへんって学術的なまとめあるのかな。対策とかも。あまりにも似通った事例が多すぎて、一般化できそうな勢いだ。カウンセリングとかでそういう事例にぶち当たることも多いのだろう。アダルトチルドレンという言葉が昔流行ったが、あれに当てはまるのかな。機能不全の家庭で育った子供に見られる傾向ということで近いような気はするが、その昔何でもかんでもアダルトチルドレンで片付けられていたような気がするから、本当にそうなんだろうかという疑問も残る。

ただ身近な人に限って言えば、日常生活に支障をきたす程度ではない。健康な日々を営み、仕事もある程度うまくこなしている。親密な人間関係を築きにくい、同じ失敗を繰り返すという傾向があるだけ。これはアダルトチルドレン的な傾向があったとしても、カウンセリングや治癒が必要とまで言えないだろう。解決したほうがいい問題ではあるが、解決しないまま結婚なり家庭を築いている人も珍しくはなく、そのまま二次被害を引き起こしたり起こさなかったりしている。プライベートだけでなく仕事上でもあり、よくいるめんどくさい奴、困った人ぐらいにしか認識されていない。

いずれにせよこの手の悩みを抱えている人は多い。問題視も解決もされないまま事が運んでいくことも多いのが現状なのだと思う。この手の人たちは他人への期待が捨てきれなくて、無条件に褒めてほしかったり察してほしかったり認めてほしかったりする。パートナーはあなたの母親じゃないんですよ。そして、そういう人たちがこぞって言うのが、「認めてくれないんだったら、褒めてくれないんだったらパートナーなんていらない」という言葉。じゃあもう一生一人でいろよと思うが、そういう割り切りができれば万事解決。そうではなく、結局は都合のいい相手を強く求め続けている。

一般的に言う解決策は、自信を回復するとかインナーチャイルドを育てて大人にするとか。それをどうやるか具体的には一人ひとりに合わせた手段になるだろうから、一概には言えない。僕の場合は少し違った。僕、というのは、アダルトチルドレンだった自覚はないが、幼い頃に親に過剰な期待をしたこともあった。「なんでわかってくれないんだろう」とか。僕が人への愛情飢餓、過剰な期待から脱却した手段というのは、「あきらめる」ということだった。人をあきらめる。理解をあきらめる。期待を捨てる。

こういう話をするとよく、「あきらめたらもう絶望して生きていけない」と言われる。そこで死んでしまう人も本当にいるかもしれないから、安易には勧めないが、人をあきらめるということは、一人を自覚するということだ。自分が一人であるということ。それは紛れもない事実として眼前にある。しかし、彼ら彼女らはその事実が受け入れられず、存在しないものを期待して、あきらめきれずにいる。それを唯一の希望として生きている。それが感じられないと「寂しい」と言う。しかし現実は寂しいものだ。本人たちは現実の寂しさを実感しておきながらも、受け入れられない。現実逃避に走り、存在しない無償の愛かなんかを追い求め、人に期待して、要求して、関係を壊す。まるで中毒患者のように。

僕は他人(親兄弟を含む自分以外の人間)をあきらめてから、関係性にとらわれない一人の人間としての人生が始まった。だから僕が個人的に示す解決策は、自信を持つとかインナーチャイルドを育てるとかではなく、他人をあきらめる。自分とそれ以外の存在を、切り離して考えるところからスタートする。相手は私ではない。人間は孤独である。人生は一人で過ごすものだ。他人との関係は、たとえ相手が親であってもゼロから築き上げるもので、始めから期待したり、自ら期待に応えて、あたかも存在したかのように取り繕うものではない。寂しさ、絶望のその先にある現実を見据えよう。無償の愛という妄想に浸っていないで早く乗り越えてください。

※この文章が目に届く人のことは何も書いていないので、「私のこと書かれているかも!?」とは思わないでください。