「わたしは、ダニエル・ブレイク」感想・評価

どうでもいいけど、ダニエル・ブレイクという名前はどこから取ったのだろう。007好きではないが、「ドラゴン・タトゥーの女」が好きな僕にとって一瞬ダニエル・クレイグがよぎってしまう。そんなどうでもいい話は置いといて。

"I, Daniel Blake"

「わたしは、ダニエル・ブレイク」の原題は"I, Daniel Blake"。「わたしは、ダニエル・ブレイク」だったら"I am Daniel Blake"じゃないの?と言われ、確かにそうだなと思った。多分わかりやすくするために「わたしは、ダニエル・ブレイク」という邦題にしたのだろう。

先日見たアイ,トーニャは原題もI, Tonyaで、しかしこちらは「わたしは、トーニャ」なんていうタイトルには、とてもじゃないがならない。そういう映画じゃない。だから原題のままアイトーニャにしたのだろう。ダニエル・ブレイクもアイトーニャも、原題っぽく邦題をつけるとしたら、「私、ダニエル・ブレイクは、」「私、トーニャは、」みたいになる。

ダニエル・ブレイクに関しては、映画内にこのタイトルに即したシーンがある。「私、ダニエル・ブレイクは、」と主張するシーンだ。アイトーニャに関しては、映画全体が「私、トーニャ・ハーディングは、」という作品になっており、やっぱり「わたしは、トーニャ」という感じではない。ダニエル・ブレイクも、アイトーニャも、自己紹介をする映画ではなく、自己主張をする映画であり、「I,名前」になっている。

映画的じゃない映画

かといって、「わたしは、ダニエル・ブレイク」はダニエル・ブレイクが延々と自己主張をする映画ではない。自己主張するのはワンシーンだけであり、それ以外は日常生活のシーンが続く。そこでは主張というよりもただ不満を漏らしながら、打ちのめされるダニエル・ブレイクが描かれる。これはフィクション映画なんだけど、いわゆる映画的ではなかった。

この映画はダニエル・ブレイクというイギリスの片田舎に住む初老の男性が、心臓病で働けないのにもかかわらず、生活保護を受けられなくて困り果てるというストーリーだ。ダニエルは淡々と役所を回り、長時間待たされ、コールセンターに電話をかけ続け、挙句の果てにWEB申請を求められるがパソコンの使い方がわからない。

まるでドキュメンタリー番組を見ているようだった。NHKでやってそうな、困っている老人を取材する社会派ドキュメンタリー。カメラワークも音楽も、映画らしい過剰な演出がまるでない。映画的だと感じたのは、すごくいい人たちに囲まれているということ。人間関係に救いがあるというところはちょっとフィクションめいている。あとは物語の展開とか。

情報弱者、ここに極まれり

ただこの映画において重要なのは、そういう隣人愛や物語的展開ではなく、あくまでドキュメンタリー調に描かれる現実的な側面だ。職業安定所における、手続きが苦手な人を対象から弾くためにあるかのような、無駄でややこしいだけの手順に満ちた申請手続き。明らかに人手が足らず、お役所仕事に専念するしかない疲弊した職員。あれを見ていると日本の行政はまだマシだなーと思えてくる。

それに加えて、この映画を象徴しているとでも言うべきIT問題。初老のダニエルはパソコンが使えない。マウスの使い方もわからない。カーソルという言葉を初めて聞いたぐらい。しかし今はどこも、何をするにもWEB申請だ。ダニエルは何度も躓く。助けてくれようとする役所の職員を叱る上司。全員にやってあげる余裕はないから、本来の業務に戻りなさいと。ダニエルはこの、ことごとく付きまとうWEB申請に何度もトライするが、ついに打ち砕かれる。

僕らの世代からすれば、WEB申請はすごく助かる。どこでもできるし、コピペできるし、手書きより簡単で楽で手間も少なく字が汚くても読んでもらえる。しかし僕の親は、一人では全くこういうことができない。付き添ってやるとその場ではわかるが、何度やっても覚えられない。マニュアルがあっても操作の仕方がわからない。デジタル・ディバイドって言葉が昔流行ったけど、ITに詳しければ得をする時代は終わった。今はもうどうしようもなぐらいITが浸透してしまい、IT機器が使えなければ生活に困る。スマートフォンはその典型だろう。

日本にはまだ、書面での手続きを行ってくれる窓口がたくさんあるけれど、コストカットや業務の効率化により、少しずつなくなっていくだろう。問題はIT化ではなく、取り残されてしまった人を拾い上げる仕組みがないこと。テレビで見た話だが、スウェーデンの銀行は窓口を全て廃止し、アプリやATMで全ての窓口業務をまかなうようになった。銀行職員は何をするかというと、店頭に来たITに疎いお客さんに、ひたすらアプリの使い方を教えることが仕事になっている。

こういうITに疎い人をフォローする仕組みがあれば、現代社会に取り残されたとしても、拾い上げられる。銀行は利益を得るために、企業努力としてフォローを行うが、支援する側の行政はどうだろうか。ただでさえお金を出し渋る行政にとっては、蔑ろにするためのいい口実かもしれない。

この映画をパソコンが使えない親に見せたら、きっと悲鳴をあげる。さいわい両親には僕らといった子がいて、行政がITを強いてきても子に頼めば手続きは済む。ダニエルに子はいなかったが、最終的には親切な隣人が助けてくれた。しかし、そういう補助からあぶれる老人が山ほどいることも簡単に想像できる。彼らにとって、ITで効率化された現代は悪夢にしか映らないだろう。

誰が悪いのか

この映画のテーマは、ないがしろにされている人間の、行き場のない怒りである。さて、じゃあ一体誰が悪いのだろう?職業安定所の職員だろうか。彼らはおそらく、自分たちなりに精一杯職務を全うしている。WEB申請の仕組みを提案した役人だろうか。この時代において業務のIT化は欠かせないから、むしろいい仕事をしている。ただそういう制度のほころびであったり、穴が埋められていない。ないがしろにされる人々が出てくる。穴を埋めるには人が足りない、お金が足りない。だから新たに税金を徴収する。国民はさらに貧しくなり、制度には新たなほころびが出てくる。堂々巡り。

しまいには国に十分な税金が納められない原因となっているタックスヘイブンや、利潤を追求するグローバル企業、その根幹にある資本主義であったりネット社会が引き起こしたグローバリズムそのものが諸悪の根源なのではないか、などという話にまで行き着いてしまう。

90年代までは、その反動として共産主義革命などももてはやされた。今はもう廃れており、ITやグローバリズムが席巻する現代の仕組みとも合わなくなっている。少し前に「21世紀の資本」という本が流行ったが、今の時代に沿った反資本主義的な思想はあるのだろうか。

いずれにせよ、誰が悪いという問題ではない。今起こっているの諸所の問題は、まさに時代転換の歪(ひずみ)なのではないか。世の中の移り変わりの速さに対して、制度が追いついていないことから生じる問題。制度は常に後から作られる。設計するにも時間がかかり、現実に追いつくことは不可能だ。うさぎとかめ、のうさぎが休まないレース。

この映画の監督であるケン・ローチは、「お前は国の敵だ」と批判されたりしている。でもケン・ローチがやりたいことは、革命とか政府転覆とかではない。声を上げ続けることなのだろう。社会の末端で見過ごされていたり、無視されていたり、一瞬取り上げられてもすぐに忘れ去られるような、国家の利益にならない国民たち。彼らの声をとらえ、主張し続けることが目的なのだろう。忘れるなよ、ダニエル・ブレイクのような人間がここにいる、と。

尊厳という言葉が使われていた。人間にとって最も大切な尊厳が、ないがしろにされているぞ、と。見逃すな、取りこぼすな、というメッセージを送り続けるしかない、というのがケン・ローチの判断なのではないかと思う。実は今劇場公開されている「家族を想うとき」を見に行くにあたって、前作である「わたしは、ダニエル・ブレイク」を見たんだけど、他のケン・ローチ映画も見てみたくなった。

貧しい国の人に響くか?

貧しい国において、ダニエルやケイティよりもっと悲惨な状況というのは確かにあるかもしれない。途上国の人がこの映画を見たら、恵まれていると思うだろうか。家があり、水道や電気といった生活インフラが整っている。子供は学校に通える。フードバンクがあり、ただで食料がもらえて、生活には困っても死にはしない。ダニエルの年齢と病気なら、途上国ではもっと早く死んでいたかもしれない。

でもおそらく、貧しい国の人がこの映画を見ても、「この国の制度は破綻している」という感想になるんじゃないだろうか。貧しい途上国という前提があれば、同じような状況でも我慢できるかもしれない。なぜなら、一部の富豪を除けば社会全体がみんなそうだから。しかしこの映画の舞台はイギリスである。技術も文化も制度も充実したイギリスという先進国で、高い税品を払って、本来恩恵を受けるべきはずの人々が困窮しているという状況は、途上国の人が見ても決して恵まれていると感じないだろう。むしろ発展することに対する希望を失うのではないだろうか。

自分ごと

この映画を見ていて思い出す。カナダにいたとき、言葉がおぼつかなく、学位も特殊技能もない僕は仕事にあぶれていた。外国人だから社会保障を受けることもできない。オーストラリアでも同じだった。図書館で履歴書を印刷して街を歩き回ったが、自分にできるような仕事はなく、雇ってもらえなかった。肉体労働をするためのホワイトカードを取ったが、現場に行っても事務所に電話しもメールを送っても音沙汰はなかった。

日本でも短い間友人の家に居候していたとき、お金がなくて治験のアルバイトに参加しようと思っていたが、アレルギーがあって受からなかった。日雇い派遣などのエージェントに登録するも、交通費などを引くと1日働いて5,000円程度だった。

人とのコネがなく、学位がなく、特殊技能もない。そのうえ世の中を器用に渡り歩くこともできない。その結果、そういう生活をしていた。自分のせいだと言われたらそれまでなんだが、それも含めて世知辛い世の中じゃないか。僕はギリギリの困窮者ではなかったが、この映画を他人事だと思えない。

わたしは、ダニエル・ブレイク - Netflix