無意識にハラスメントやってるけど、「生きづらい」はちょっと違うような

これを読んでいた。ハラスメントの問題が社会で持ち上がるようになってから、自らの男性的な暴力性に気づいて落ち込んでいる人たちの話。「加害者性に苦しむ男性たち」という副題がついている。

1980年代生まれの自分は、ジェンダー意識の移り変わり、それにまつわる社会常識の変容について、ここ10年は特に大きかったように感じる。常識が変わり、意識が変わり、自らの過去の行動や、過去の社会常識に囚われた現在の考え方など、反省することも多い。男性として、女性を一方的に傷つけたり、尊厳を蔑ろにしていたこともあるだろう。

職場ではないが「それセクハラですよ」みたいに言われることもあった。如何にゲスな言動で相手を引かせるかがおもしろい、という昭和後期から平成にかけての文化圏で育ってしまったため、現代の価値観へ切り替えるのがなかなか難しい。「あの頃はめちゃくちゃやりましたよ」というような武勇伝を語ることがかっこいいと思われていた時代もあった。

80年代に生まれてから植え付けられた根強い意識、古い常識はそう簡単にアップデートできない。気づかないうちに「今やるとアウト」なこと言ったりしでかしている。意識はしている。努力しているつもり。だけどそんなにうまくいってない。

ただ、記事にあるような「男性の加害者性による生きづらさ」なんて表現は大げさだと思った。なんだよ生きづらさって。被害者のほうがよほど生きづらいだろ。ここで言われていることは、例えば生まれつきの殺人狂が、殺人衝動を抱えたまま市井にまぎれて、誰も傷つけずに暮らす自信がなくて生きづらい、と言ってるようなもんだ。そんなもんはお前だけの問題で、一人で勝手に悩んでろという話。

というか、大いに悩んだほうがいい。自分の中に加害性があるなら、それにどう対処するか。しっかり悩み抜いて、失敗しないように気をつけたほうがいい。だからそれを「生きづらさ」なんて呼ぶのは間違っているというか、甘えているというか。本人がどういうつもりなのかは知らないが、「生きづらさ」などと言われてしまうと、それはまるで解消されて然るべき社会的抑圧のようにとらえてしまう。そうじゃないだろう。加害性に悩むことは、自分自身の問題だ。

例えば戦国時代に武勇で名を馳せた武将が、現代にタイムスリップしてきて「現代では人を殺して名を上げることができないから生きづらい」などと言われたら知るかボケと思うだろう。なんとか時代に適応してください、としか言えない。それも自分一人で勝手に頑張れと。「生きづらい」じゃねーだろ。今の世の中とどう関わっていくか、自分自身や世の中と向き合って、よく考えたほうがいい。

人の意見を参考にするのはいいと思う。加害性を抱える自分が、現代社会にどう適応すればいいのか。学ぶことで見えてくることもあると思う。それは自分の「生きづらさ」なんてものを解消するために行うことではなく、現代社会の一員として、被害者を出さないことを目的として行ってもらいたいものです。

こんな人いるの?こっちは論外だなー。

余談:ジェンダー意識の改善に伴い、「男性にリードしてほしい」といった男性に積極性を求める風習も同時に滅びてほしい。リスクがでかすぎる。