My First なんちゃらかんちゃら

僕らの若い頃には、まだ「ヤラハタ」という言葉があった。意味は、やらずの20歳。つまり、20歳で成人をむかえてもまだ童貞である人間のことを指して、ヤラハタと呼んでいた。僕らの若い頃、つまり20年ぐらい前は、童貞であることがかっこ悪いこととされていた。しかもハタチを過ぎてまだ貫いているのは、なにか人間的欠陥があるとか、そういうふうに思われていた。今はどうなんだろ、知らない。

でも多分ヤラハタなんて言葉はもう使われていないだろう。そういう風潮もなくなっていると思う。僕がヤラハタという言葉を知ったのは、マンガGTOからだった。グレートティーチャー鬼塚。今読むと、90年代末期の時代性をよく現していると思う。池袋ウエストゲートパーク(ドラマ)とかも、当時の空気感をよく現している。

グラップラー刃牙の少年編では、自衛隊のガイアが「童貞を捨てた」と言っており、注釈で※初めて人を殺したことと書かれていた。え、そんな言い方するー??と思っていた。僕らは本当に、性欲に振り回される人生だった。「僕らは」と言うのは、多分僕だけではないという確信がある。女性が毎月生理に苦しむのが呪いだとしたら、男性の呪いは性欲に振り回されることだと思う。僕の性欲が、少なくとも女性平均並であったとしたら、もっとマシなことに人生の時間を費やせていたんじゃないか。僕の人生の時間の約半分は、オナネタを探すことに費やされていた。半分は言いすぎかもしれない。睡眠とかもあるから。起きている時間の大半は、ということにしよう。

いや、それは言い訳に過ぎない。僕の性欲が人並みだったとしても、きっと僕は勉強しなかっただろうし、スポーツもやらなかった。打ち込む趣味もなかった。ただ何をすることもなく、寝て過ごしていたと思う。今と同様に。性欲がもっと乏しければどうだっただろう。本当に性欲を失ってしまった今になって思うのは、もっとまともに人と関われたかもしれないということ。人、というより女性と、性を意識せずに関われるようになったのは30代も後半になって枯れてから。

もちろん小学生の頃からずっと、意識しない対象はいた。多くいた。たくさんいた。そうではなく、今だったら対象の人であっても、意識せずに面と向かって関わり合うことができる。若い頃はそれが難しかった。女慣れとはつまり、そういうことだろう。興味の対象であっても、女性として意識せずに接することができること。性を意識しない異性の友達ができる中高生は、さぞ人生を満喫しているのではないか。

呪術廻戦でイタドリ君は、一度人を殺してしまうと境界がなくなってしまう、簡単に殺す対象と大事な人が曖昧になってしまうと言っていた。僕は同じことをセックスで思っていた。行為のための関係なのか、関係のための行為なのか、そのどちらでもないのか。これまでセックスした相手のことをどれだけ覚えているだろう?僕の場合、ちゃんと付き合った人のことは覚えているけれど、それ以外は曖昧。何人とかはわからない。名前は全くわからない。顔も曖昧。どんな状況だったかということがかろうじて思い出せるぐらい。それさえも忘れている人はいる。それがいいとか悪いとかではなく、それらが同じ行為だと思うとよくわからなくなってくる。大事なことなのか、そうでないのか。

Phaさんの「夜のこと」は読んでいないけれど、そういうことがもっとしっかり書いてあるんじゃないかなと勝手に想像している。性欲がなくなってから、本当の人生が始まる。本当の私、デビューワンデイアキュビュー

若くて性欲が溢れていた頃の自分を思うと、本当に不憫だ。15歳かそこらで性欲の使いみちがあった人は、人生踏み外しているか安定しているかのどちらかだろう。若い頃の自分には、なにもアドバイスできない。おそらく何もできなかっただろうし、大人が何言っても何も解決できないだろうから。ただ耐え忍ぶのみ。時が過ぎるのを待つばかり。