「愛のかたち」は恐ろしい本だった

いったいこれはどういうことだろうか。自殺した直後の妻を撮ることに、どのような意味があるのだろうか。そもそもこんな状況を撮ることが許されるのだろうか。自殺した妻を写真に撮ることは当然ながら、犯罪ではない。しかし精神が病んだ妻の姿を執拗に撮り続け、死の直後までカメラを向けること、さらにそれを作品として発表することは、並大抵の精神ではできない。はたして、古屋という男は何者なのだろうか。 P21-22

気になって、二日で読み終えてしまった。好奇心に駆られたと言っていい。自殺した直後の妻の写真を掲載した写真展を行い、その後も死んだ妻の写真集を、同じ「メモワール」というタイトルで何度も出版し続ける写真家、古屋誠一。著者は古屋が「なぜそんな写真を撮ったのか」そして「なぜそれを作品として発表したのか」ということが気になり、取材を申し込む。

著者は古屋に手紙を送り、取材の約束を取り付け、古屋の住むオーストリア第二の都市グラーツを訪ねる。この古屋という写真家は大変難しい人物らしく、ぶしつけな質問はできない。聞いたところでまともな答えは返ってこないだろう。慎重に、12年にも渡る取材を行っていく。その間も古屋は「メモワール」シリーズを出版し続ける。

「この家は…間借りしているという感じ。 たえず、人の家って感じ。だけど、作品があって、それに満足したら、作品が家になる。特に写真集だよね、自分としては。自分の写真に取り囲まれているような状況にしたい。孤独だからね」 P58

古屋という人物を訪ねるたびに、新たな情報がもたらされ、今までになかった印象を受ける。妻クリスティーネとの生活、息子との関係、クリスティーネの母親、古屋の生い立ち、両親、弟の存在。古屋という人物が今の行動に行き着くきっかけ、要素を全て線で結びつけ、古屋という人物を体系化しようとする中で、著者はどんどん古屋にのめり込んでいってしまう。

「アパートでは、一枚も写真を撮りませんでしたね」
「写真を撮る気にならないというか、別にここで撮ってどうするっていう感じだった」
「では、どうして十六年前、飛び降りた直後の写真を撮ったのでしょうか?」
唐突な私の質問に、古屋は少し驚いたようだった。
「なんだか知らないけど、撮った」
短い答えだった。 P136

この話のオチそのものは、実にあっけない話だった。古屋にのめり込みすぎてまとまらなくなった著者は、古屋と親しい荒木経惟に意見を求める(アラーキーをヨーロッパに紹介し、世界に広めたのは古屋その人だった)。アラーキーは簡単にその答えを言う。言われてみれば、初めからわかりきっていたような答えだった。ただそれは、棺に眠る死んだ妻の顔を写真集に収めたアラーキーだからこそ、言っていい言葉、言える答えだったようにも思える。言葉の重み、実感を得る。

この本では、取材していた時期に9.11テロ、東日本大震災が重なる。著者はテロの現場、被災地において撮るべき写真、撮っていい写真について考える。凄惨な現場の写真を撮るとはどういうことか。それは、精神の病に苦しむクリスティーネを撮る古屋、自殺したクリスティーネの死体を撮る古屋に共通する部分があるのか。興味、好奇心、美しいもの、惹かれるもの。それら見られる者と、見る者という関係が、

クリスティーネ(被写体)←古屋誠一(撮影者)←小林紀晴(著者)←読者 と続いて我々も当事者になる。

芸術とは、表現とはなんなのか。どこまでが許されるのか。どこまで突き詰めるべきなのか。倫理観とは?美しさとは?受け取り手は、どう見ればいいのか。それぞれによって違う。では、あなたはどう考えるか?あなた古屋をどう見るか?そう問われているような本だった。とても苦しい。