「生まれてこなければよかったのか」という問いについて

反出生主義についてWikipediaを読んだり軽く記事を読んだ程度で、本は読んでいない段階。

まず、「生まれてこないほうが良かったのか?」という問いがあるらしい。自分はどうか。傷つきやすかった頃なら「生まれてこないほうが良かった」と答えた。もしくは、逃げ場がなかったり逃げる手段がなかったら「生まれてこないほうが良かった」と答えただろう。

今の自分の答えは、「どちらでもいい」になる。「生まれてこようがこまいが、大差ない」「どちらも大して変わりない」というのが、今の自分の答え。それなりに嫌なことはあったが、死ぬほどではなかった。今の今までなんとかのらりくらりと生きてこれた。かといって、「生まれてきてよかった」などとは思ったことがない。生きてきて一度もいいことがないわけではないけれど、それが「生まれてきてよかった」などと思えるほどのことではなかった。出生が、ないならないでいい。どちらでもいい。

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「生まれたせいで人に迷惑かけた」とか「生まれたおかげで人と出会えた」とか、人のことは僕は割とどうでもいい。自分が人に影響を与えようと与えまいと、それは本人の問題だ。人がどうなろうが、僕は知ったこっちゃない。同時に、誰かと知り合えた程度で、自分の出生を肯定できたりはしない。自分の人生は自分だけのものだ。人との出会いで左右されることはあっても、他人に人生を明け渡したりしない。

だから反出生主義における「地球に害をなすから」とか割とどうでもいい。害であるかどうかは地球が勝手に判断すればいい。俺には関係ない。「だから子供を産まないべき」と思う人は、そうすればいい。自分はどうでもいいと思ってしまう。「生むことが暴力」だと思うんだったらやめたらいいだろう。その人の自由だ。僕自身はやはり、それは子供本人が決めることだと思う。子供が「暴力の被害を受けた」と訴えるなら「エゴでお前を作ってスマンかった」と言うぐらいのことはできるんじゃないか。それぐらいの責任は親にはあるだろう。

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出生の肯定はどうすればできるか。自分の場合「〜があるから生まれてきて良かった」などとは言えないが、生まれてきてよかったことが一つもないわけではない。経験できてよかったこともある。それも出生の肯定と言える。ただし、同時に生まれてきたせいで負った苦痛もある。それが反出生主義における出生否定の要素になるのだろうけど、僕の場合はそこまでではない。「生まれてこなければよかった」という程の苦しみ方はしていない。そもそも出生を肯定する必要なんてあるのだろうか?

「死にたい」と思うことと「生まれてこなければよかった」と思うことはまた別物らしい。「死にたい」と考えるのではなく「そもそも生まれてきたのが間違いだった」「子は残さないべき」と考えるのが反出生主義だそうだ。結果を求めるのではなく、原因を求める思想か。

僕はやっぱり、「生まれてこなければよかったのか」という問いに対して、「どっちでもよくね?」と答えてしまうなー。人に迷惑かけるとか本当にどうでもいい。

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