「少女マンガのブサイク女子考」を読んで

まず第一に思ったのは、自分は容姿の美醜についてそんなに深刻に考えたことなかったなーということ。だからここで語られているように、容姿が人生を左右するかのような扱いは驚きだった。そして、それが女性にとってはあたかも常識であるかのように語られていることも。なんとなくは知っていたが、ここまでとは思わなかった。

というのも、ここで紹介されるマンガ内で、ブサイク女子は存在否定に近い虐げを受けている。ひどいものだと、親兄弟周りから生きる価値がないと罵られる。ただブサイクだというだけで。ブサイクというのはそこまで絶対的な指標なのだろうか。基準はコロコロ変わるもんだと思うんだけど。マンガによっては、特に近年描かれたものだとそこまでひどくはない。ただ一貫して、恋愛の対象外、論外、土俵に上がれない立場として描かれている。

とにかくまあ、ブサイク女子の生き様を中心に描かれた少女マンガばかり集めて解説しているのが、この「少女マンガのブサイク女子考」という本。ブサイクを侮辱したり虐げたりするのは、女性同士のほうが多く描かれている。男性はまあ、実際のところブサイク女子なんて眼中にないことが多いだろう。存在を意識しない。無視しているところがある。女性同士はなぜか、そうもいかないようだ。あとは親。ブサイク女子マンガには、よく親問題が出てくる。親はブサイク女子を人間と認めていない。そんなことって現実にあるのだろうか。

自分はどうだっただろう。思春期の頃は多少顔の造形も気にしていた。周りにはかっこいい人もそうでない人もいた。高校生ぐらいの頃は、だいたい同じレベルの人たちが固まっていたように思う。かっこいい人はかっこいい人同士、醜い人は醜い人同士。自分はどうだったか。真ん中だったんじゃないかな。

現代だとまだ、男性的な容姿の捉え方と女性的な容姿の捉え方には差があるかもしれない。それは社会的な扱いに根ざしたものなのかもしれない。女性の方が社会的権力、財力、立場が上だったら、それでも美容を頑張っていただろうか。男性が選ばれ、養われる立場だったら、男性が美容を頑張っていたこともあるかもしれない。昆虫のように。

男性だって、もちろん選ばれている。基準は容姿、財力、性格といったところか。この基準だと、明らかに財力は女性の基準と異なる。女性が選ばれる場合にあたって、財力はむしろマイナスに作用することもある。男性にそれはないだろう。金持ちだから、という理由で嫌がる女性の話を聞いたことがない。容姿については、男性の方が女性の容姿を重視すると聞いたことがある。それはまあ、女性の財力がマイナスに働くことなどと相絡まって、複雑に作用している。

マンガにおけるブサイク女子は、ブサイク女子のままかっこいい男性に好かれる。現実においても可能性はなくはないだろう。そんなに多くはない。その場合容姿がどうとかっていうことを帳消しにする魅力が求められる。ありのままの自分のままで受け入れてもらえるのは、相性が良かったときだけ。このあたりは男性も同じだと思う。

少女マンガだから、ブサイク女子でも決まってめちゃくちゃかっこいい男性にアプローチする。美人よりむしろ、ブサイク女子のほうが男性の容姿に厳しいんじゃないだろうか。どうなんだろ、現実では違うのかな?容姿にコンプレックスを抱く人間が、結局容姿の良し悪しで相手を選んでいるのは本当に皮肉なことだ。ブサイクな女子でもかっこいい男性を射止めるという夢を描きたいだけなのだろうか。現実では顔で選ばないことも多々あるのに。

自分が読みたいと思ったのは、「終電車」「宇宙を駆けるよだか」「薔薇のために」あたり。

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