「何者かになりたい」ってどういう意味?

「何者かになりたい」って、要するに世間から認められたいとかちやほやされたいとか一旗揚げたいとかって意味なのかな?一昔前で言うところの「一人前になりたい」とか「一流になりたい」っていうより、世間的評価だったりフォロワーを気にする感じなのかな。

「有名になりたい」が一番近い言葉なのだろうか。世間一般で有名になれたら一番で、少なくともどこかの界隈では有名になりたい、ぐらいが「何者かになりたい」という言葉に当てはまるのかもしれない。そういうの、僕はなかなかピンとこなくて、みんな説明がいらないぐらい当たり前に理解してるもんなのか。

例えば、とりあえず何かの職業に就いて、右も左もわからないところからバタバタと仕事を始め、失敗したり苦労したり、何が楽しいのかわからいままガムシャラに向き合っているときに、自分よりも頑張っている人、難しい案件に立ち向かい、その努力と研鑽でクリアしていく人を見て、「この人みたいになりたい」と思ったり、憧れたり目標ができたりして、「一人前になりたい」だとか「一流になりたい」と思うならわからんでもない。

そこには自分の延長線上としての、具体的なロールモデルがある。姿勢や方向性、その先に得られるものだったり、目標が明確だ。自分がわからないのは、漠然と「何者かになりたい」と思うこと。ここで言うところの「一人前になりたい」と、「有名になりたい」寄りの「何者かになりたい」は意味合いが全然違う。「何者かになりたい」って何?なぜ有名になりたいの?

例えばイラレ君の場合

この人はぼんやりと「何者かになりたい」というよりは、はっきりと「漫画家」「イラレ(イラストレーター)」という目標がある。成功するかどうかは、努力以外にも運であったり才能であったりといった要素が大きい。しかし、ほそぼそと活動するだけではダメだったのだろうか。

「いつか大成したい」という夢を持ちながら活動するのも悪くないだろう。それはいつか、「何者か」にならないとやっぱりダメなのか?好きでやってるから、やってるだけで楽しい、とはならないのだろうか。それともこの人の文章を読む限り、本当はマンガやイラストが好きなわけでなく、ただ何者かになりたかっただけなのだろうか?ただ成功することが目的だっただけで、実はイラストやマンガに対してもそんなに向き合っていなかったとか?

もう一人、もっとライトな人

この人は成功も望んでおらず、ただカッコつけるための道具として、ありとあらゆる趣味に手を出していた。ここにブレイクダンスとかサーフィンとかスケートとかがないところが増田っぽい。めちゃくちゃ軽いノリで始めて、めちゃくちゃすんなりフェードアウトしていく。「何者かになりたい」と言っているが、そこまでの願望さえない。

趣味程度だったらもっと「楽しそう」とかが行動の起点になるもんだと思っていたけれど、まあ「カッコいい」も捨てきれないか。モノがかっこいいとか、やっぱりあるもんな。バイクとか。でもそういうのは手に入れたり触れたりしているだけで満足してしまって、「人からよく見られたい」のとは少し違う。この人の評価基準はあくまで他人だった、というところが「何者かになりたい人」と共通しているところか。

しろくまさんの新刊はまだ読んでいないんだけど

そもそも「何者かになりたい」一連の流れは新刊の宣伝記事から端を発している。ここで最初に語られている「何者問題」とオンラインサロンの地獄は、身の回りでハマっている人を見てきた。洗脳して金を貪る、ねずみ講まがい、新興宗教に近い、やばい世界だ。

僕の実際の知り合いだけでも、3人がこういうのにどっぷりハマっていた。端から見ると明らかにやばいんだけど、本人は気づいていないのか?主戦場はfacebookやInstagram(去年からzoomウェビナーも加わる)。僕の知り合いでハマっている人は全員女性だったが、奥さんの知り合いには男性もいた。なんていうか、まあ完全にマルチ商法です。信者たちからの、中身のないインスタントな肯定や承認に耽溺して、同時に大金を稼ぐという夢に、これまで自らの血肉を削って稼いだ財産を貢いでいる。見てらんねーんでミュートです。

記事ではオンラインサロンに絡めて、ホリエモンの話も出てくる。彼はロールモデルになったと言われているが、上で僕が挙げたロールモデルとは違い、具体的に何をやった人なのかわからない。まず「東大に入って、」というところから、実際にはロールモデルになりにくい人だと言える。幻想的ロールモデル。

あとはソシャゲの重課金の話が出てくる。ソシャゲの重課金は、「現実で何者にもなれない自分」を紛らわすための行為だと、ここでは言っている。え、そうなの?じゃあ彼らはゲームが楽しくて課金してるわけじゃないのね。他人からよく見られたりちやほやされるために大金注ぎ込んでるのね。

他人と自分を比べる地獄にハマっている

しろくまさんの記事でも「アイデンティティの空白に耐えられない」と書かれていたが、アイデンティティって自らの内側で獲得するものじゃないのか?世の中には、他者との間にアイデンティティを獲得するケースもあるらしい。それは全然、社会性があっていいことだと思う。けれど、このアイデンティティが「他者からの優位性」によってのみ担保されるのであれば、なかなかしんどい。競争に勝つことでしか生きがいを見いだせないと言っているようなもんだ。

資本主義経済はそういった競争によって膨れ上がっているから、格好の餌食ではあるんだけど、そういうのから降りたいとは思わないのだろうか?疲れないんだろうか?それよりも未承認からくる不安の方が大きかったり、ちやほやされる優越が大きかったりするのか?わからん。僕が地獄だと思うだけで、「何者かになりたい」人たちはきっと、そういう他人と自分を比べて競争しまくる生き方が天国なのだろうか?

そうじゃなければ、降りられない理由はなんなの?他人の評価中毒は、僕だと体壊してしまう。

何者にもなれなかった自分

自分は何者にもなっていないけれど、何事も趣味の範囲で、それなりに好きにやってきた。ブログだったり旅行だったり写真だったり、特に世に向けて大々的に宣伝するような活動を行うことはなく、ビジネスとして成立させようと頑張ることもなく、その場限りでただ気ままに遊んできた。

今はコーヒーやレコードを嗜んだりするようになったが、これまでの物と同じ態度で向き合っている。ブログは以前より見られなくなり、更新も減ったが今でも続けている。旅行スタイルは変わったが、コロナが終息すれば、かつてほどじゃないにしてもまた旅行するだろう。写真も移動することが減った分、撮る量が減ったけれど撮らなくなったわけではない。今でも写真集を買ったり、写真にまつわる本を読む。かつて好きだったものは、今も変わらない。

僕は何事も必死で取り組むと楽しくなくなるから、遊び半分を貫くようにしている。何者にもならなくたって、ええやん?