あれこれ理由はなくても何かを好きと言えることはいいんじゃないか

昨今のオタク憧れって、ここに尽きるのかな。何かに夢中になっている姿が羨ましいとかかっこいいとか。それはオタクみたいにめちゃくちゃ時間を費やしていたり金を落としていたり詳しかったりする必要はなくて、ただ「あれが好き」「これが好き」と言えることそのものが、なんというか人生を有意義に過ごしていることになるんじゃないか。

知識マウントとか誰かとの比較とか、あまり意味がないと思う。目的を見失っている。別に、好きだったらそれでいいんじゃないか。方向や歩み方は多様で、ある種みんな仲間だろう。

オタク趣味なんて、かつては好きと表明できるかどうかの葛藤があった。例えばマンガ・アニメ・ゲームを好きと公言すると、白い目で見られる時代があった。それが今や、打ち込んでいたり詳しい対象があること、専門分野みたいなのがあること自体が憧れの眼差しを受けている。オタク憧れが嵩じて、オタクのふりをする人まで現れる始末。

自分の友達で「三島由紀夫が好き」と言ってる人がいるんだけど、彼女は三島由紀夫を読んだことがない。「仮面の告白」も「金閣寺」も「豊饒の海」も知らない。「憂国」も「英霊の聲」も。だから彼女の「三島由紀夫が好き」は、さすがに嘘だと思った。何も知識マウントを取りたいわけではなく、作品を読まずしてどうやって好きと言えるのか。本質を欠いている。

彼らの憧れは、表面的だ。楽しそうにしていたり、詳しかったり、仲間がいたり、目が輝いていたり、そういった結果に対して憧れを抱いている。でも何かが好きな人は、対象が全てだ。楽しいのも詳しいのも仲間がいるのも目が輝いているのも、対象を好きである結果に過ぎない。周りからどう見えるかはどうでもよく、ただ目の前の好きが第一義的にある。対象を好きでなければ全てが嘘になる。

結局は、オタクのフリでもして人生楽しんでいる演出をしたいだけなのだろうか。なんのために?見栄を張るため?人から幸せに見られたいから?そんなことをしている暇があったら、何か一つでも好きなものを見つけた方がいい。