6月5日に買って、10日ほどで読み終えた。なお6月5日は発売から5日後で、まさにその日に重版かかったそうな。著者の大滝さんは10年ぐらい前にはてなブログ経由かなにかで知り、ツイキャスとかで喋ったことがあり、一回会ったことがある。当時キレやすく煽りやすい理系のジャックナイフ的な印象を抱いていた。当時のブログでは村上春樹や新海誠を茶化す記事を書かれていたが、今は削除されている。そしてそういう要素を、今回の著作では大いに発揮している。
これ普段の大滝さんじゃ…
はてなブログが大滝ビンタの黒歴史なのかどうかは定かではないが、ネット上における活動の場をTwitterおよびnoteに移され、僕の大滝瓶太ウォッチの場は主にTwitter上となった。そこでは自身に限らずちまたの作家としての姿勢の話や、創作論めいたことをツイートしていたり、大喜利していたり、M-1のレビューをしていた。
「その謎を解いてはいけない」を読んで最初に思ったことが、「これ普段の大滝さんじゃ…」だった。それは今までの著作を読んだときに感じなかったことだった。これまでSFだったり硬い世界観の作品が多い中、今回の本は出だしからかなりふざけている。ミステリというジャンルのエンタメ性を意識してのことだろうか、ここまで素の、もしくはネット上の大滝瓶太性が発揮されている作品は他に読んだことがなかった。
煽りキャラとしての大滝瓶太は、主人公の田中友治が担っている。ツッコミ、スルーキャラとして小鳥あそび唯が、そして作家大滝瓶太の要素は作中の小説家いちにっさんだけでなく、各登場人物に散りばめられている。数学オタのキャラまでいる。僕は謎のボケをかます全身ホワイトの白日院正午が一番好きだった。職場もホワイト、飲み物もホワイト、「大いなる正午の訪れだ…」という決めゼリフがいい。
あらすじ、物語の紹介
物語についてもう少し紹介しておこう。片目が緑で珍しい名字の女子高生、小鳥遊唯は、生まれ持って自らに宿る中二要素に辟易している。そんな彼女をアシスタントとして雇う中二病の探偵、田中友治、自称暗黒院真実。彼らは身の回りで次から次へと起こる殺人事件に遭遇し、暗黒院はTwitterのアカウントハックを駆使して真実という名の黒歴史を暴く。なんのことだかわからない。
内容は最初から終わりまでミステリ小説として一貫している。僕は個人的に、ミステリ小説はあまり得意ではない。事件に興味がなさすぎて、話がどうでもよくなってくる。だから「罪と罰」とか「ロング・グッドバイ」みたいな、事件以外の部分を書き込んでいる小説でないと読めない。そういう点において、「その謎を解いてはいけない」は事件以外の要素が多すぎて、本筋である事件をあまり意識せずに読むことができた。僕は正直言って、真相はどうでもいいのだ。だからミステリが苦手な人も楽しんで読めると思う。ミステリが好きな人がどう思うかはわからない。
文学性がどうとかこうとか
「ロング・グッドバイ」の著者レイモンド・チャンドラーは、売れる本を書くためにしかたなく探偵推理小説を書いていたと、Wikipediaかどっかに書いてあった。文学は売れないが、ミステリ小説は読み捨てられるエンタメ、大衆の消費財として売れる。しかしチャンドラーは文学が書きたくて、そこに自身の文学性を潜ませていた。作品はエンタメの象徴として映画化されたりしているが、同時に文学としても評価されている。
こういった文学の大衆化偽装のために、ミステリー小説に潜ませるというのは極端な例だけど、それ以外にも文学的評価うんぬん以前に読まれる作品として世に出すため、あらゆる工夫が凝らされている事例はいくらでもある。それに近い話が今作第五話の、一二三と綾野綾の対話でも触れられている。今回大滝さんは、プロの作家としてかなり読者に寄ったとっつきやすい書き方をしたように思う。そうでなくても読む人はいたが、100%のアートはよほどの大作家でも商業的になかなか回らない。わかりにくいとされる村上春樹も、かなり読者を意識して寄っている。
僕はこの小説が、大滝瓶太風の「大衆娯楽小説の体を借りた純文学作品」に思えた。ここで敢えて大滝さんの嫌いな(というか意味がないと考えていそうな)大衆娯楽作品と文学の違い、みたいな話を展開する。僕が個人的に思うのは、物語性を重視するなら、それは別に文学じゃなくていい。例えば「その謎を解いてはいけない」で言うところのそれは、事件やキャラ要素にあたる。謎解き、探偵小説に徹するのであれば、そこに文学性など必要なくなってくる。事件を解決したり、おもしろいキャラクターが小ネタをふんだんに撒き散らしていれば、物語はそれだけで成立する。
では、文学性とは何なのか。僕はその一つを、答えのない問いだと思っている。答えのないに問いについて、どう向き合うか。その姿を書くのが文学の一つのあり方だと思う。例えば人生について問うこと。個人の生き方、人間について。家族とか、生とか死とか性とか。正解がある目の前の謎ではなく、答えのない世の中の根源的なテーマに向き合うことが文学なのではないか。この小説ではエンタメである部分と文学的である部分で、明らかに文体が異なっている。前半では鳴りを潜めていたが、後半に進むにつれ徐々に文学的な要素が強まっていく。文学だけで言えば、この小説は461ページで終わっていた。
文学的なテーマには答えがない。キャラクターもなく、誰が問うているかも関係ない。ここで問われていたのは、作品との向き合い方であり、読者との向き合い方であり、他者との向き合い方である。この作品の感想には、作家論とか創作論とよく書かれている。でも僕は多分これは論ではないと思う。作品を発表する者の、「これでいいのか?」という究極の問いではないか。それは自分に対して、読者に対して、世の中に対しての問いのように見える。
作品の発表とは、つまり自らの在り方であり、それが時には過去を振り返って黒歴史のように映ることもある。それに対してさえ、自らがどう向き合うか。すべての過去、そして今生きる現在も黒歴史になり得る。その自分と、自分から産み出たものと、他者をあげつらいながらもあーでもないこーでもないと答えのない問いに向き合っている姿がこの本から伺える。
まあでも、基本的にはそんなことを考えなくてもすんなり読める。「これどういうことなんだろう?」「ここいるのかな?」と思っても読み飛ばせばミステリー展開が進んでくれるし、ふざけたキャラクターが世の痛い人を煽り倒して笑わせてくれる。同時代を生きた人間にしかわからない小ネタも満載で、しまいには説明がめんどくさいからググってくれとまで言われる。最後までエンタメ要素を忘れない、読者にとってサービス満天の小説として仕上がっている。でも僕は、この小説がエンタメの皮を被って根源的な問いに向き合う姿を見た。その謎を解いてはいけない。その理由は、解けない謎(問い)に向き合うことそのものを描いているからではないか。
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