記号的かっこいいものへの無条件な憧れ

例えばギターとかバイクとか、わかりやすくてベタだと思う記号的なかっこいいもの。まず形からしてかっこいい。これらに対して無条件に憧れを抱いてしまうところある。少年の、ヒーローに対する憧れも似たようなものだろう。ギターを所有したことはないけれど、バイクは乗っていた。運転が下手だった。教習所へ通っていたとき、教官から「バイクはカッコが命」と言われた。やはりバイクとはそういうものなのだろう。

僕が乗っていたバイクはあまりかっこいいものではなかった。安くて手軽なやつ。バイクのかっこよさにも種類があり、僕が若い頃流行っていたのはビッグスクーターだった。フュージョンとかフォルツァとか、当時めちゃくちゃ走っていたのに、今はほとんど見かけなくなった。SRとかクラブマン、エストレアのような、単気筒でレトロな見た目のものも流行っていた。今も時々見かける。ゼファーとかZRXとかバリオスとかスーパーフォアみたいなのは、周りで乗っている人はいなかった。

僕が乗っていたバイクはかっこいいものではなかったから、バイクにはどちらかというと、移動手段という利便性を求めていたところがある。他に、バイクに乗っている友人が多かったため、乗っていればツーリングに参加できるということもあった。数えるほどしか行ったことないが。バイク乗りの友人がいたのと、近所の人に誘われたのがきっかけで中型二輪免許を取った。僕の場合それがなければ、ただ「記号的かっこいいものへの無条件な憧れ」だけではバイクには乗らなかっただろう。でもそういうのが行動原理になることだって、大いにあるんじゃないか。

記号的かっこいいものへの無条件な憧れ。他にどんな例があるだろう。髪型とか服装は最たるものだ。ダンス、スケート、DJ、ピアノ、サックス、レコード、コーヒー、タバコ、お酒、ドラッグ、車、サーフィン、バックパッカー、写真、小説、自分が思いつくのはそんなもんか。他にもいろいろあると思う。こういうのを、かっこいいと思って手を出していたらなかなか恥ずかしい面もある。先ほどのバイクの話じゃないが「いや、僕は別にかっこいいと思ってカッコつけるためにやってるわけじゃないですけどね…」と言い訳したくなる。なんというか、やはりカッコつけている事自体がダサいから。

かっこいいかどうかは、客観的な結果であってほしい。入り口である動機が「かっこいいから」と言っている人はどう見てもかっこ悪いじゃないか。かっこ悪いからこそ、かっこいい状態を目指すのだ。間違っていない。結局は動機が何であれ、その先に到達した人はみんなかっこいい。ギターがかっこよくて始めました。と言う人がうまく弾けていたらやはりかっこいい。下手だとあんまり。中途半端だとかっこよくないんだ。上辺だけの人とか、うまくいかず対象をころころ変える人とか。

だいたいなんでそういうものをかっこいいと思うのだろう?思う人と思わない人がいる。ボクサーかっこいいとかプロレスラーかっこいいとか、思わない人もいる。バイクやギターだって、別にかっこいいと思わない人はいる。中2の頃はかっこいいと思ったけど、さすがに今は…という感想もある。年齢だけでなく、時代によっても違う。今の時代だったら何がかっこいいんだろう。フリースタイルラップとかなの?それもちょっと前か。わからない。時代の波についていけない。

とにかくまあ、かっこいいものというのはあまり普遍的なものではないらしい。時代だったり文化圏だったり層によって、憧れの対象やかっこいいとされるものが変わる。また「人にかっこよく思われたい」と「自分がかっこいいと思う」のも違う。人に思われたいなら流行りものだったり、かっこよく思われたい人に合わせて対象を変えることになる。主体性はない。自分がかっこいいと思うものを追いかけるだけなら、人はあまり関係ない。それでもある程度誰もがかっこいいと思っている分野に偏ってしまい、逆にかっこ悪いと思われている分野が好きだったら公言できないこともある。美術やアートの視点でAVやストリップを見ている人もいると思うが、そう公言するのはなかなか勇気がいりそうだ。