「誤解」について思ったこと

誤解によるストレスに煩わされるだけの人生だった。言ったことは伝わらないし、正確に認識されない。どっから出てきたのか不明の意見と混ぜ合わせて拡大解釈される。「そうじゃない」と重ねて説明しようとするが、もう相手の頭の中にできあがってしまった新しい物語は独り歩きしている。こうなったらもうお終いだ。何を言っても通じない。耳を貸さない。そうやって誤った解釈は伝搬の過程で幾度もの改変を生じ、オリジナルとは似ても似つかない代物になる。誤解とは、逃れることの不可能な伝言ゲームの醍醐味なのだろう。よく「一次情報に頼れ」と言われるのはこの伝言ゲームを起こさないためだ。

誰しもがそういった誤解にさらされているだろう。「わかった」「理解した」「そうじゃない」、言葉の伝わらなさ、内容の伝わらなさは自分にとってずっと苦悩の種だったように思う。これまで発してきた言葉はすべて誤解を解くためだけの釈明、弁明ようであり、発しなかった言葉は誤解を招く見立てがついていたため口から出なかった言葉だった。

僕自身はなんとか誤解を避けようと、正確に話すことに努めていた。自分の意見や考えから1ミリもずれがないように、誤解の余地を削り取るように言葉を付け加え、長ったらしい計算式とその答えを提示しようと努力していた。しかし、あまり意味はなかった。なぜならその式は読まれなかったから。「その意見については既にここで潰している」は通じなかった。もう相手の頭の中では別の物語が進行中だったから。「絶対こうに違いない!」「そうじゃないって最初に言ってる」「でもそう読み取れる」などと言った不毛な会話を何度繰り返してきただろうか。伝達というのは根本的に機能しないんだなーと思いながらも、いかに正確性を上げるかばかり考えていた。

で、今回読んだ本が「ゲンロン0 観光客の哲学」。この本で書かれている「観光客の哲学ってなんだ?」という主題には今回触れない。この本には「誤配」という言葉が出てきた。郵便物を誤った住所に届けてしまう誤配だ。届けるはずの住所に荷物が届かず、別の住所に届くはずのない荷物が届く。そういう誤配によって、本来起こり得なかったことが起こるとかそういう話。例えばTwitterのように、本来届けるつもりのない相手に偶然読まれることによって、拡散されるはずのなかったメッセージが何万人にも読まれ様々な解釈を生んだりすること。SNSはそういう誤配が起こりやすい装置となっている。

意見、言葉、表現はいかに強烈なメッセージがあろうとも、拡がれば拡がるほどオリジナルの手を離れる。そこには千種万様の視点があり、見方があり、解釈がある。思いもよらない方向からボールを投げつけられたり、感謝されたり同意されたりするかもしれない。しかし、そこから「オリジナルが何を言いたかったか」なんて主張することはもう不可能で、真意を伝えることにこだわり続けるのは無意味だとさえ言える。だったらどうすればいいのか。誤解されることを恐れるのであれば、何も言わないでいるしかない。では、なぜ誤解されることを恐れるのだろう?一つはいわれのない非難を浴びるから。もう一つは、コミュニケーション不全であること、他者への伝達がうまくいかない世界で生きることへの不安が生じるから。

でも誤解というのは必然なんだと思った。僕はずっと正解を求めて生きてきたけれど、誤解もまた正解の一つなのだろう。少なくとも相手にとってはそうだ。ときには被害をまぬがれるためや、関係を維持するため釈明に精を出さないといけないこともある。ただ、もし誤解そのものが正解の一つで、必然であるとしたら。我々の生はこれまでもこれからも、誤解の上で成り立っているんじゃないか。だったら誤解は受け入れてしかるべきなのではないか。誤解を避けようとか、誤解を正そうなんて思わなくてもいいんじゃないか。自分の言葉を誰がどう捉え、どう感じ、どう応えるかなんてコントロールできるわけがない。他人から見える自分は見る人によって違い、ましてや自分が思う自分ではない。はじめから誤解されているんだ。

何も発しない平穏な暮らしだって悪くない。でも多分それは暇でしょうがないだろう。分かり合える者同士、誤解の少ない閉じた空間で過ごすのも快適かもしれない。でもそれだけではやはりどこかで飽きが生じる。誤解こそが一つの正解であることを受け入れ、もっと誤解して誤解されて、手広く言葉を発していったほうが退屈しないですむと思う。どのように評価されようと、それは彼らの評価であって自分の評価ではない。人は互いに誤解し合う生き物で、誤解もそう悪くはない。

facebook使っている人がこんなに多いなんて

facebookのアカウントを作って今月で8年だそうだ。僕がアカウントを作ったのは、facebookが招待制じゃなくなって誰でも利用できるようになったタイミングだった。まだ日本語には対応していなかったが、当時既に5億人の利用者がいて日本でも話題になっていた。その後「若き天才の野望」などが売れ、映画「ソーシャルネットワーク」も公開され一般的な知名度は上がったが、実名制であるfacebookは日本に根づかないだろうなどと言われていた。

その後日本でも爆発的に利用者が増え、そしていつしか話題にも挙がらなくなっていた。何か事件があったり、マーク・ザッカーバーグ絡みのニュースが出たときだけ話題になる程度で、facebookの利用がフォーカスされるようなニュースは目にしなくなった。周りの人もほとんど使っていない。アカウントを持っている人は非アクティブユーザーになるか、もしくはアカウントを削除していった。だから「facebookは廃れた」と実感していた。

最盛期に比べると、確かに廃れたのだろう。でも現実は僕が思っていたほど廃れていたわけじゃなかった。つい最近facebookがアクティブな環境にいて、こんなにもたくさんの人がfacebookを日常的にインフラとして活用していることに驚いた。いるところにはいるもんだ。写真とコメントが投稿され、タイムラインはどんどん流れていき、次々に返信がついてlikeもfavも押される。今が最盛期と言わんばかりに。

どういう人が使っているのだろう。基本実名であるため、Twitterのようなやりたい放題はほとんど見られない。やはり社会人が多い。特にフリーランサーなんかはfacebookページと共にけっこう活用している印象がある。自分の観測範囲に学生がいないため学生のことはわからないが、おそらく若者はfacebook離れしている気がする。

どんな目的で利用されているのだろう。facebookの最大の利点は、アクティブ非アクティブにかかわらず登録者が多いことだ。毎日14億人が使うSNSは他で類を見ない。そうなると不特定多数に広く情報を届けたり、広い範囲の中から実名で具体的に人を集めたりすることに有効だ。告知やグループがそれにあたる。趣味よりも仕事や実用に使われている印象が強い。

僕自身はというと、facebookはずっと写真置き場だった。あとは外国に行った際、チェックイン機能をおもしろがって使っていた。近況報告のようなこともときどきしていた。外国で知り合った人は基本的にfacebookでしか見かけない。僕にとってのfacebookは、年賀状のような扱いになっている。しかし僕の知らなかったところでは、今でもfacebook上で日常的に人とコミュニケーションを取ったり情報交換していた。

facebookメッセンジャーはずっと使っていた。facebookメッセンジャーをメインに使っていた理由は、やはりこれも外国人絡みだった。西洋圏の人はメッセンジャーアプリにwhatsappを使う、韓国人はカカオトークを使う、日本人はLINEを使う、この三者間で唯一共通して持っていたアカウントがfacebookであり、以降facebookメッセンジャーを常用するようになった。

僕はLINEをほとんど使わないため、LINEの使い方は母親のほうが詳しいぐらいだ。LINEも今となっては若者のツールではなくなったように言われている。完全に脱却したわけではないみたいだが、InstagramのDMや、まさか日本で使っている人はいないだろうと思っていたSnapchatと併用している事例がおもしろかった。

(2、3年前北米の若い人は誰も彼もSnapchatを日常的に利用していた印象。そんなSnapchatは去年上場して以来、株価がだだ下がりしている。)

酔った勢いの日記

忙しい状態があまり好きじゃなくて、理由は生きている実感がしないからだった。生きている実感とは僕にとって、自覚的であることだと思う。自覚的であるとは、意識的であるということだろう。忙しいと流されてしまう。自分の意志ではない流れに。自分の意志ってなんだっけ、状態はどうなっている、そういうことに自覚的でありたい。把握していたい。ハンドリングしたい。だからそれが見えなくなっていると、わけがわからなくなる。今自分が何をやっているのか、何を考えているのか、コントローラーが手元から離れてしまって、流れに任せて考え動いてしまっている。プレーヤーはどこかへ行ってしまった。

自分の行動記録を追ってみても、それはまるで他人のようであり、その奥で何を思い、何を考えているのか掴めない。おそらく何もないんだろう。流れに任せてただ揺らめいているだけだから、意志が働いていない。自分の意志はもっと別のところにあって、行動記録には載らない。行動を離れたところで置いてきぼりにされている。ずっと放ったらかしてきた。それが忙しいという状態だろう。煩わされている。生活することと、自我を保つこと、その二つを一本化するのは難しい。どちらかに煩わされると、どちらかを蔑ろにしてしまう。

そういうことを考えなくてもいい人や、一本化できる人もいるだろうが、僕の場合はそうではなく、生活と自我の二つを切り替えて同時並行に進めていく器用さが必要になる。忙しいというのは時間の占める割合の問題であり、1日のうち数時間でも生活に煩わされない自覚的な時間を持ちたい。今二つはバラバラになっている。数時間は何がしたいとか何をしなければいけないといった生活から外れて、再びハンドリングする側に割こう。自分の意志は、自我はどこにあるのか。思い出すように追いかけては探す。

生きていると、悔いのない時期が来る。もう別にいつ死んでもいいやって思うとき、それがいつからだったか忘れたが、ずっと続いていた。もし何かやり残したことがあったり、課題が見つかると、それを終えるまでひとまずの間はまた、生活ではなく意志が続く。自分にとってそれは何だっただろう。多分、自分だけの思想を築くとか、そいうことを若い頃に考えていた。過去というほど過去ではないが、3年前の日記にはこんなことを書いていた。

そんなことより僕は、本質を最も大事にしていた。筋を通すことに重きを置いていた。正しいか、間違っているか、そのどちらかだった。理にかなっていれば取り入れ、そうでなければ無視したかった。それ以外の無駄なこと全てに関わりたくなかった。楽しむため、人間関係を円滑にするため、お金のためとか仕事のためとか、そういった別の目的のためにつく嘘は詐欺であり、詐欺行為によって本質を掻き乱すのは下劣なことだと思っていた。

「本質」は一時期において口癖のようになっていた。essence、本質ってなんだろうか。この頃はまだ自我を保っていたのだろう。もう酔って何も考えられなくなった。こういうのがいけない。素面の状態で全部受けとめないと。クソ、全部どうでもいいな。生きつないでいくのに必要なのは生活なのだろう。でもそれとは真逆の何かを人は求めるもんなんじゃないか。

読書初心者むけの、異世界へいざなってくれる本3冊

異世界転生の話ではありません。今回は、我々を平凡な日常から、異世界へいざなってくれる本を挙げてみようと思う。この「いざなってくれる」という部分を大事にしており、今回挙げる3冊はどれもこの世界と異世界が地続きになっている本だ。スターウォーズやロード・オブ・ザ・リングのように、今我々が暮らす世界からかけ離れた異世界はいくらでもある。肝心なのは、この世界からいつの間にか、どこからともなく気がつけばそこは異世界と化している点であり、二つの世界が地続きであるからこそ身近に感じ、自分の先にある出来事として認識でき、感情移入しやすくなっている。今回選んだ本は全くそういう意図で書かれた本ではないんだけど、それぞれの違った異世界へ我々をいざなってくれる。

  • 嘘つきアーニャの真っ赤な真実
  • ワセダ三畳青春記
  • ねじまき鳥クロニクル
  • 他にあったら教えてください
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ヒトコトへの回答⑬

超久々。このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。前回が昨年末で、それ以降も何通か届いていたんだけど、非公開が多くて個別に対応していた。今回は一つ、非公開に対して転載しない形で回答してみる。

  • 49通目:雄大その後
  • 50通目:自意識過剰のやつ
  • ひとことどうぞ
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痛みに慣れているのか

歯医者に行って、気になっている部分を伝えたら「どのくらい痛みますか?」と聞かれた。そこで「痛みは無いです」と答えたら、マスクの向こうでやや困惑された。どうやら歯医者に駆け込む人は痛みを伴っていることが多いらしい。痛くなってから歯医者へ行くよりも、予防とクリーニングを兼ねて月一ぐらいで通ったほうがいいですよ。余裕があれば。僕は2年ぶりぐらいに行った。

歯の治療は、子供の頃から麻酔無しでやってもらうことが多かった。麻酔を打ってもらうとその後が不便で、「痛いですよ」と言われてもそんなもんだろうと思っていた。痛いのは当たり前。もしかしたら痛みに慣れているのかもしれない。痛みを感じないとか、痛みに強いというわけではない。むしろ敏感な方じゃないだろうか。ただ慣れているだけ。

注射が苦手だという人がいるけれど、それは多分慣れていないからだと思う。注射が痛いことには変わりないが、慣れるとただ痛いだけで、特別視しなくなる。入院なんかしてしょっちゅう注射打つことになれば、その都度気にしていられなくなる。「殴られるのが嫌ならボクサーなんかやるな」ってどっかのセリフにあった。彼らは殴られることに慣れているから、他の人に比べて動揺しないだろう。

痛みに慣れるっていうのは、そんないいことでもない。痛みのシグナルは受け取っているのにもかかわらず、それ相応の反応をしなくなっているということだから、ある種の機能不全に陥っている。受け取った痛みをしっかりと認識して、反応を示すことが健全な証だ。じゃあなんで慣れるのかというと、慣れたほうが楽だったから。

取り除けない痛みなら、逃れられない痛みならば、慣れるしかない。入院患者もボクサーも、いちいち痛みに反応していてはやっていけない。そのようにして痛みに身を任せてきた結果が今なのかもしれない。痛みに反応しては自分を見失っている人を見ると「慣れてないんだな」と思う。慣れていないと怒りだったり悲しみだったり恐怖だったり、何らかの感情が湧く。慣れているとただ「いてー」としか思わない。

煩わされるのが嫌で、慣れるように心がけてきた。おかけで感情にはなんらかの歪が生じている。慣れようとしてこなかった人は、活き活きとした感情を発露している。しかし痛みが永続的であるならば、慣れてしまわないと気が狂っていただろう。そうやって気が狂った人も見てきた。どちらが正解とも言えず、生き方の違いだと思う。

自意識過剰ってなんなの?

先日若林の本を読んでいて、何度も出てきた言葉が「自意識過剰」だった。「自意識過剰」という言葉が流行ったのは少し前の時代だと思うが、それがどういう意味なのかはいまだによくわかっていない。自意識過剰って何なんだろう?自意識が過剰って、じゃあ自意識ってなんだ。自意識、自我のことだろうか?自我が過剰っていうのはよくわからない。

調べてみたら、自分自身について意識することが自意識だそうだ。自分自身を意識するってどういうことだろう。自分のことを考えるのとは違うのか?どうも意識するっていうのは思考ではなく感覚を指すようだ。「あの人を意識している」とか言うように、感覚的に気になっていることが意識すること。そして「自分を気にする」ことが自意識で、自分を過剰に意識しているのが自意識過剰らしい。

このあたり正直なところまだ全然ピンとこなくて、自分を意識するということがどういう状態なのかわからない。ましてや過剰に意識するとは。そんなことを言ってたら話が進まないから、一般的に言われる自意識過剰とはどいう状態を指すのか調べてみると、「他人からどう見えるか、過剰に気にする」「他人に良く見られたい願望が強すぎて、過剰に努力したり自分を偽ったりする」そういうのを自意識過剰と呼ぶらしい。

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マスクばかりしていると老け顔になる

顔の造形にもよるかも知れないが、僕ぐらいの年齢では顕著に現れるマスクの老け顔効果。仕組みは単純で、マスクを付けることによりゴムで頬の肉が中央に寄る。するとほうれい線がよりくっきりと際立ち、元に戻らなくなる。

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それでも冬場はマスクばかりしていた。これからはマスクの季節じゃないけれど、気になる人は意識してみてください。あと、横を向いて寝るのも同じ老け顔効果があります。若いうちはすぐ元に戻るんだろうけど、ずっと残る時点で年取ってるな。老け話で言うと、乾燥地帯での長期滞在も老けます。老けって主に肌で、肌年齢とまで言われる肌の水分量の低下が、見た目の印象に現れる。北米やオーストラリアといった乾燥地帯で生活してた僕は、肌の水分が失われた。その他に多くの紫外線を浴びたことも影響している。老けたことの言い訳に使おう。

  • サイコドクターあばれ旅
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    • コロニアルタイム(短編小説)
    • 喰い尽くされるアフリカ(ノンフィクション)
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    • あの日、僕は旅に出た(エッセー)
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トラベラーズノートのカスタマイズまとめ

先日買ったトラベラーズノートだが、革のカバーにノートをゴムで挟むだけという実にシンプルな作りであるがゆえ、自由度が高く、好きにカスタマイズしている利用者が多い。純正オプションもノートの種類であったり、ペンホルダーだったりポケットだったりチャームという飾りだったり、いくつかのパターンが用意されている。

それ以外にも他社製のノートを挟み込んで使用したり、ペンフォルダーを自作したり、パスポートケースとして使用したりと、カスタマイズは多岐にわたっている。そういういろいろな使用例のURLを貼りつつ、自分が今どのような形で使っているか書き残しておく。

  • 自分の使用例
    • チャーム
    • ボールペン
    • 替えのノート(リフィル)
  • 他の人のカスタマイズ集
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日々のこと

日本に帰ってきて、日本に帰ってきてと決まり文句のように繰り返し用いているが、今月で日本に帰ってきて2年になる。2016年、ニッポンよ、私は帰ってきた!そして2年後の今、転機と言うほどではないが、また別のことが始まろうとしている。つまりスタートラインにいる。転機と言うほどでもないのは、新たに湧き起こったものではなく、もともとそうするつもりだったからで、やっとその時が来たという感じ。そういうわけで、一年続けてきた今やっているバイトも今月一杯で辞めることになり、今年の秋頃からはまた外国へ短い渡航となる。

先のことは全然わからないし、まだ何も考えていない。何がしたいとか、どうしたいとか、成り行き任せなところがある。だからとりあえず今必要な勉強だったりをしているだけ。それよりも、今の自分に充満しているのは、今のことだ。これからではなく、これまでのこと。日本に帰ってきてからの短い2年間が終わりに差し掛かっている。この短い間で知り合った人ととは、おそらくもうほとんどが二度と会うことはないだろう。会ったとしても、そのときにはお互いが変わっている。今生の別れである。会社でもカナダでもオーストラリアでもそうだった。今の関係は今だけのもので、それが今まさに終わろうとしている。つらい。

時間は連続しているが、場所や人との関係は連続しておらず、生きていると我々は幾度とない終りを迎え、同時にまた新たなスタートを切る。死と再生のようなものだ。諸行無常である。諸行無常に侘しさを感じるのは日本の伝統と言えるだろう。とりわけ私は出会いよりも別れにショックを受けるほうで、なるべくなら致命傷の機会を避けてきた。全ての別れは惜別であり、その後何年経とうと思い出す。この2年、もともとの知り合いや、知り合った人たち。中には結婚したり子供を産んだり東京へ異動になった人がいたり、状況は絶えず変化している。

私だけが置いて行かれて何も変わっていないように見えるが、私自身も年老いて、人に影響を受け、考え方や価値観は変わり、思い抱くことも変わっている。体力、感性、記憶、思い、あらゆるもの日々を失っている。喪失感である。哀しい。失うのは哀しいのだ。それらは僕にとって唯一無二であり、そのときその場所だけの限られたものだから、どうしても惜しい。しかし失わずにはいられない。その嘆き、哀しみ。子供の頃は、まさか失うと思っていなかった。知らず知らずのうちに、大切なものを次々と失っていた。大人になり、失うことを前もって自覚できるようになり、今は喪失感を胸いっぱいに抱きながら、明日へ向けてコマを進めている。

#わたしの転機

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オーストラリアを離れるときは無常観と言っていた。あのときと今の違いは、環境か。

2018年4月のふりかえり

もう5月入ってる。4月のふりかえりです。更新回数が9回とかなり減ったのは、2週間研修があって書くことがなかったから。それ以外はあんまり何もしていなかった。どうだろ、書けなかったという方が正しいのか。今月は多分そうならないはず。

Googleカレンダーを見返していると、2年ぶりにカラオケに行った。日本に帰ってきてから初めてだと思っていたら、帰ったばかりの頃に行っていて2回目だった。健康診断があったせいで4月上旬はお酒が飲めず、後半飲みすぎた。

これやった。

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Netflixで何見ていいかわからない人へ【2018GW】

ゴールデンウィークをNetflix漬けで過ごしている皆さん、こんにちは。そんな予定はないという人も、何を見ていいかわからない人向けに、自分が最近見たもの、見たいものを雑にピックアップ。計13作品。すくねえ。流行りとか最新作とかではないです。前回紹介したのはこちら。

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    • ヴィクトリア
    • アメリカンスリープオーバー
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    • パンズラビリンス
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    • ゲットダウン
    • SKINS
  • その他
    • シュタインズゲートゼロ[アニメ]
    • ワイルドワイルドカントリー[ドキュメンタリー]
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自分への質問

ときどき読んでいるブログがネットで見つけた質問に答えていたので、真似してやってみたくなった。

Q1.アナタが1日で一番好きな時間は何ですか??

寝ている時間、夢も見ていないとき。

Q2.アナタが生きてるなぁ~とおもう時は?

痛みを感じているときに生きている実感を持つ

Q3.今の自分で好きなところを1つあげてください

自分に正直なところ。唯一それぐらい

Q4.自分を誉めてあげてください

まだ生きてるねーよく生きてるねー

Q5.一番大切にしているものは何ですか??

思い出とか、思考とか

Q6.落ちこんだ時はどうしてますか??

とことん落ち込む。それ以外のことはできない

Q7.落ちこんだ時はどうやって立ち直りますか??

立ち直れない。けれど冷静に考えるようにしている

Q8.ものがうまく行ったときどうやって喜びますか??

誰かれ構わず人に吹聴しまくる

Q9.泣いた後の気持ちは??

うわー泣いてるわーかっこわりー

Q10.幸せと思える瞬間をおしえてください

安眠が約束された瞬間。実はそんなにないから

Q11.本音で話せる友達はどのくらいいますか??

だいたい誰にでも本音で話す。友達に限らず

Q12.親友って??

そういう名前の括りがあるだけで、中身はないと思う。カテゴリ縛り

Q13.家族って?

生活をともにする人じゃないかなー。ファミリー

Q14.自分らしくって?

演技しないってこと?あんまりそういうことは考えなくなった

Q15.友達って??

知り合いでいいと思っている

Q16.学校いっててよかったこと(会社も)

そういう世界を知れたこと。今は行ってないです。

Q17.パソコンしててよかったこと

世の中の基礎教養を一つ手にしたこと

Q18.自分をしかってみてください(なければなしでも)

いつもいつもめんどくせえ

Q19.いつもよくしてくれている人に感謝の言葉を(なければいいです)

楽しい時間をありがとう。

Q20.ありがとうっておもえるときって?

ぼーっとしてないときは、意識的に思うようにしている

Q21.時間ができました、いまいきたい所は?

ベトナム再訪。ホーチミンはあれからどう変わったのか

Q22.今ほしいものは?

その気になれる具体的な目標とか

Q23.1日時間ができました、何をしますか?

映画見る。ぐらいしかない

Q24.今始めたい日常生活のことはありますか?

ランニング足袋のジョギング。雨シーズン前に

Q25.ものを忘れられるときって?

ふとした瞬間に無意識でいられるとき

Q26.どういうときにがんばれる??

がんばれない。強いて言えば怒り狂って殺意が充満しているとき

Q27.生きている間にしておきたいことは?

もうないかなあ。大体やったから

Q28.家にこれがないと困るというものは?

ガス、電気、水道。屋根と電波もほしい

Q29.自分に必要なものって??

ないと思う。なくて生きてるんだから

Q30.自分に優しくしてあげてますか??

冷静に見ている。それが厳しくないとも言える

Q31.周りの人に優しくできてますか?

周りの人はあまり見ていない。むしろ誰もいない

Q32.小学校の思いでは?

犬が乱入してきた。不審者が侵入してきた。韓国人の女の子が好きだった

Q33.中学校での思いでは?

全てがろくでもない学校だった。中学だけは二度と行きたくない

Q34.高校での思いでは??

寝てマンガ読んでた思い出しかない。愛着もない

Q35.大学、専門、会社での思いでは?

大学も馴染めなかった。会社は世代の違いを感じるところだった

Q36.尊敬してる人っていますか?そのひとは?

たくさんいる。かっこいい人

Q37.ライバルって??いますか??そのひとは??

土俵で闘っていない

Q38.1年後の自分を想像してください、どう変わってますか?

人間は変わらないと思っている

Q39.自分の落ちつく場所は?

静かに寝られる場所じゃないかなー

Q40.晴れと、曇り、雨、どの日が好きですか??

晴れだけど、晴れた夜が好きです。

Q41.小さい頃の夢覚えてますか??それは?

夢はなかった。単純に強い人に憧れていた

Q42.小さい頃どんなことして遊んでました??

ひたすらゲームしていた。今考えると異常なほど

Q42.旅をしたことあります?よかったですか?

旅行という意味ならしているけれど、旅ってなんだろ。目的のない旅は楽しめない

Q43.自分の得意なことは?

割り切ること?得意なんかなー気のせいかもしれない

Q44.自分の苦手なことは??

我慢すること。続けること。幼稚園児みたいだな

Q45.好きな食べ物は何ですか?

食べ物は特に、なんでもいい

Q46.近頃迷惑したことは?

でかい声、うるさい音

Q47.ちかごろうれしかったことは?

研修の一つが滞りなく終了した。楽しめた

Q48.どんなおじいちゃん、おばあちゃんになりたいですか?

そういうの全然思い浮かばない

Q49.つぎうまれるときは、何になりたいですか?

なんだろ、すぐ枯れる植物で。

Q50.ちかごろ大変だったことは??

今いろんなレポートを書かないといけなくて大変

最近の二週間、毎日朝から夕方まで研修に通っていた。内容はともかく、二週間程度で人と打ち解けたりはしないなーと改めて感じた。人は人のことなんて興味がなく、もし誰かと仲良くなりたければ自分から近づいていかないといけなくて、でも自分だってそんなに人と仲良くなりたいなどと思わないから、あってないような関係性と存在だけが一瞬通り過ぎて忘れ去られてしまうだけに終わった。

もしかしたら、人から優しくボールを投げかけられていたのかもしれない。昔のことだって、思い返せばそういうことが多々あった。僕はボールをキャッチして投げ返すどころか、ボールを避けてその場から立ち去っていた。今回もそのようなことがあったのかなかったのか、今はまだわからない。もしかしたら後で気づくかもしれない。今回は研修でバタバタしていたし、目の前のことに精一杯で、他のことまで気が回らない。人の親切とかに気づけない。

そういう余裕のない状態、振り回されている状況はあまり好ましくない。流れに飲まれているだけで、生きた心地がしない。ちゃんと認識したいし、把握したいし、考えて、意思決定をしたい。視座を確保したいと思う。そしてそれはあとになってからでは遅い。終わってから振り返ったって、何も解決しない。その場その場でしっかりと腰を据え、物事を考え対応できるようにしたいものだ。人の好意や親切には報いたいと思う。