アルコールハラスメント

アルコールハラスメントの話は別にして、酒が飲めない人は大変だろうなと思う。ハリウッド映画を見ていると十中八九酒が出てくる。海外ドラマでもCIA長官の机の引き出しにバーボンが入っていたりする。西欧圏では酒が飲めて当たり前と思われているフシがあるが、実際には飲めない人もちゃんといる。ベルギー人に「酒は飲めない」と言われ「ビールの本場なのに?」的な発言を軽々しくしてしまったことを今は後悔している。これがアルハラというやつなのだろう。

酒が飲めない人は、人生をどうやって過ごしているのだろうとふと疑問に思うことがある。いや、普通に過ごしているでしょ、酒なんか飲めなくたって。しかし酒を飲む人生とそうでない人生を別物と思ってしまうのは、これまたアルハラ的な危うく軽々しい思考なんだと思う。行き着く先は、タバコを吸わない人生ってい楽しいの?ドラッグ経験したことない人生ってクソじゃない?などと言いかねない。僕自身は飯がどうでもよくて、人生損しているなどとよく言われた。余計なお世話だ。俺は酒もタバコも嗜むぞ。今禁煙中だけども。

つまり、酒が飲めない人生も何か他のことでドーパミン出してりゃそれでいいって話なんだろう。タバコを吸う人もいれば、飯を食うことをめっちゃ楽しむ人だっている。マラソンや登山でハイになってる人だっている。アルハラ的誘いは「マラソンやれよ」と変わらない。「自分、体力ないんで」と返すような話だ。酒は手軽だと思うが、体質が合わなければ全く楽しめない。酒が社交の場とか言うなら喫煙室だって社交場であり、登山もマラソンも社交場かもしれない。違うか。ハラスメントとは、言うならば自分の得意なフィールドに無理矢理呼び込むような真似はやめろっていうことなんじゃないか。そして飲酒がさも当たり前かのように振る舞い、フィールドの誘いに乗らない人間をのけものにしたりするのはいかがなものかっていうことだろう。じゃあお前42.195km走んのかって。僕は無理です。

でもなんかそういう得意なフィールド、もしくは参加権限の与えられているフィールドがあって、そこの人口が多ければ声が大きいよね。強いよね。メジャーは人数も多くて楽しいかもしれない。マジョリティのそういうお得感はある。僕みたいにお酒を飲むといっても人と飲むのは苦手で家で一人で飲んでばかりいる人間はまた別です。アルハラもなにも関係ない。

結婚した話

Twitter上では既に述べていたけれど、最近外国から戻ってきて流れるように入籍した。当初長く日本を離れる予定だったのが、事情があって帰国し、そのまま結婚して日本で暮らすことになったわけです。僕は今までさんざん「結婚どうでもいい」と言ってきた。今でもその気持は変わっておらず、相手もそのことは知っているから、結婚にまつわるもろもろはほぼ全て相手に任せっきりになっている。式とか、指輪とか、新婚旅行とか、生活全般のこととか。もちろん僕は相手の意見を聞くし、予定を決めたり話には加わっているが、自分の意向は無いに等しい。せいぜい「披露宴とかやらないでほしい」と言ったぐらいで、あとは向こうで決めてもらっている。

で、籍を入れたり指輪をしたり同居したりしているわけですが、あまり実感は湧かない。もともと結婚がどういうものかいまいちわかっておらず、理想や願望もなかったから仕方がない。何もかもが今までどおりというわけではないが、相変わらずのメンタルで生活している。それは多分、僕にとって良いことなのだろう。元来結婚そのものを希望していなかった自分が、結婚することで何かが変わってしまうよりは、変わらないままでいられることこそが理想であるように思う。

そんな事を言うと「無責任だ」とか「相手の人がかわいそう」なんて思われるかもしれない。しかし、相手の人はそういう自分を理解した上で、僕に変化を求めず今回の話を受け入れてくれたのだと思う。僕にとって、今のような形で変わらないメンタルのまま生活できていることが当然であり、同時に奇跡的でもある。そんなことはある意味で些細なことで、今後どうなるかもわからない。今のところはなにもかも滞りなく過ごしている。相手には感謝の気持ちでいっぱいです。

先日書いていた猫の話は、パートナーが元から飼っていた猫です。

お祝いください!

と思って新婚生活に必要なものとか検索してみたが、既に同居しておりこれからどんなものが必要か思い浮かばず、ほしいものリストに追加するモノがなかった。あれば嬉しい物とかなんだろ。とりあえずギフト券とか入れた。もともと登録しておいた僕がほしいだけの本とか全然結婚祝いじゃないけどもらえたら嬉しいです。左京区の下の方でお店をやれる場所を探しているんで、物件情報でもありがたいです。お祝いください!

川添のほしい物リスト / Amazon.co.jp

めっちゃ頂きました。ありがとうございます!

相手の人との関わり方などについては、これまで散々書いてきた。

なんだろ、他に書くことあるかな。

不運なことが、たてつづけ

つらいことが立て続けに重なって、なかなか打ちのめされている。何なんだろう一体。混乱してしまい、ものを考えることができない。非常に困っている。

嫌なことを知った

薄々知っていたし、大したことではないんだけど、気分良くはない。その程度。

愛用ボールペンが壊れた

10年ぐらい前に誰かから誕生日プレゼントでもらった気がする。それが誰だったか忘れたけれど、PARKERのボールペンが壊れた。ひねっても芯が出ず、出すと収納できない。替芯までたくさん用意していたのに、なんでこのタイミングで壊れたんだろう。落としたことなんて今までに何度もあったはずなのに。ある意味替えがきかない。

カメラの充電器が壊れた

中古のカメラだから、10年落ちになる。今まで何度も海外で使っていたのに、なぜかこのタイミングで壊れた。そのとき撮影係をやっていたため、途中から人のカメラを借りることになった。こっちに来てから数ヶ月の間にも、何度も充電していたが壊れるようなことはなかった。しかし、今はもうランプがつかない。充電器単体で売っているが2万円以上する。

荷物が届かない

先月末に送ってもらった荷物が届かない。もう一ヶ月になる。中にはバレンタインのチョコレートや、手紙、日本で購入したワイヤレスイヤフォンなどが入っている。今まで着かなかったことはないと聞いていたし、2週間で到着すると聞いていた。これまでに送ってもらったときはだいたいそんな感じだった。しかし、もはや一ヶ月経つ。あきらめるしかなさそうだ。

友人の身内が倒れた

友人とは夏に旅行する約束をしていたが、それどころではなくなった。母親が倒れたらしい。予断を許さない状況だそうだ。回復を祈っている。

身内に大病が見つかった

正確には身内ではないが、大変なことになった。誰の身にも起こりうる身近なことであり、深刻に受け止めている。自分も帰国することにした。

最後の2つに関しては、周辺の人たちが自分とは比較にならないぐらい落ち込んでおり、なんとか励ましたいと思っている。それにしても、なぜこんなに重なるかな。

遠距離恋愛1万キロ、5ヶ月目に入る

自分としてはあまりこんなことを書きたくない。さんざん「恋愛興味ない」とかほざいておいてノロケかよ!みたいになるのは心苦しい。だからなるべく事務的に、淡々と記録を残しておきたい。これは彼女一人と、自分に向けて書いている。公開していることに意味はない。

自分の遠距離は途方もない遠距離で、1万キロ以上離れている。故に、この4ヶ月は一度も会っていない。今後もなかなか会えない。次に会えるのは夏頃だろう。付き合い始めたのは4ヶ月前で、実際に彼氏彼女として直接接したのは2日間のみ。それってもはや付き合っていると言えるのか?彼女と言えるのかというほどだ。知り合ってからは1年以上が経過している。付き合う前は友達だった。そういった経緯は以前にも書いたので、興味ある人がいれば参照してもらいたい。

さて、この4ヶ月がどんな感じかというと、自分でも拍子抜けするぐらいに順調だ。それが返って不安になるぐらい、何の問題もない。一度ももめたことがない。お互いに不満を抱いたことがない。むしろ日に日に関係は良くなっていっている。強いて言えば会えないことだけがきつい。これって自分にとってはかなり例外的なことだ。もともと人と関係を築くのは得意じゃない。恋愛関係となれば尚更だ。ましてや遠距離で、離れてから一度も会っていない。

どうやってそんな順調に関係を続け、なおかつ育んでいけているのか。そしてこれからも今の調子で続けていけるように、自戒の意味を込めて書き残しておく。誰かの参考にはあまりならないと思う。

  • 気負い過ぎない
  • 相手に求めない
  • 与え続ける
  • 今後に向けて
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これからのこととか

自分と相手とのことを定期的にここに書いているのは、ひとえに彼女がここを見てくれているからに過ぎない。他の方法で言葉を送ることだってできる。向こうは手紙を書いてくれており、僕が手書きで送り返してもいい。そのうちやるだろう。ただそれよりも、自分がより自分らしい手段で意思表示をする場として、ここを用いている。外に向けて発表したいからとかではない。たまたまこれを読んだ人からすれば、全く関係ない話が繰り広げられている。ただの個人的な事情。

けっこう真面目に、着々と話が進んでいる。帰国の暁には結婚となるように、子供を授かれるように準備を進めている。もともと自分が選ばれた基準として「結婚相手に向いているんじゃないか」という思いがあったそうだ。だから「初めに結婚ありき」で僕らの関係は始まった。付き合う前からそういう話をしていた。相手の人は、結婚というものを半ばあきらめていたところもあった。生涯独身で暮らす覚悟もあったようだ。しかし僕を知って「最適解かも」と思ってくれたらしい。

僕はというと、結婚というものが自分の人生に起こる出来事、生活形態としてリアリティを感じない。したいとかしたくないとか以前に、まともに考えたことがない。特に、結婚によって何かを背負うなんていうことは論外だった。自分に何かを求められるのは重荷でしかなかった。人間は生まれてから死ぬまで独りだと思っており、いつ死ぬかはタイミング次第だと思っている。

そんな自分のどこが結婚相手として最適なのか。一般的なことを言うと、まず僕は経済力がなく、定職もなく、年齢はそこそこ行っており、何か特別に秀でた部分があるわけではない。甲斐性がなく、結婚対象としてとても候補に挙がるようなスペックではない。そのような僕が彼女にとって「結婚相手に向いている」と思われた部分は以下のようなところだった。

  • 相手を大事にする
  • ストレスがない
  • 無欲

細かいことはもっとあるかもしれないが、大まかな部分でいうとこれぐらい。これらの要素が全て欠かせない、特筆すべき要素だったようだ。

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「女好き」と呼ばれて

少し前に「川添くん女好きやしな」と言われたことがあった。女好き?この俺が?数えるぐらいしか彼女いたことがなく、5年とかいなくても平気で、店にも行かないこの俺が、女好きですと?耳を疑った。確かに僕はストレートではあるが、女好きという呼称はいささか過剰ではないだろうか。女好きと言うからにはプレイボーイのイメージが思い浮かぶではないか。そんな印象から僕は程遠いと思うんだけど、彼女からはそう見えていたのだろうか。それはないだろう。

彼女は何をもって、僕を女好きなどと呼んだのか。そう、彼女、僕をそう呼んだその人も女性だ。少し思い当たるフシがあるのは、僕が女の人のほうが話しやすいと思っているため、女の人と接点を持つことが多いから、それで僕を女好きなどと呼んでいるのではないだろうか。それにしても「女好き」という言葉の響きには、必ずと言っていいほど女遊びの意味合いが含まれている。女の人と話したり遊んでいることはあってもそんなことはしていないから、女好きという呼び方は誇張だろう。誤解の元だから訂正してほしい。

ついでに、何故女の人のほうが話しやすいのか。それは多分男女の違いという前提があるからだ。男同士、女同士だと同じものとして見がちだが、男女となると、相手のことがわからない前提が生まれる。男とはこういうもの、女とはこういうものという知識があったところで、男女の間には大きな理解の溝があると勝手に思っている。それが僕にとってはかえって好都合となる。常識、考え方に大きな違いがあったって男女なんだから当たり前と誤魔化せる。向こうは「こんな男性もいるんだ」と受け入れてくれやすい。違いを気にせず気兼ねなく話せる。これが同性となるとそうはいかない。

あと男性同士だと、けっこう言葉に詰まることが多い。これ以上何をはなしていいかわからなくなる。同性と話したほうが楽しくて盛り上がるのは、たいてい趣味か仕事の話。何か特定の物事について話すのは同性の方が話が弾む。同性の方が嗜好が近く、視点も近いから共通点が見つけやすいからだろうか。ということは、共通点のある特定の物事について話すなら同性が適しているらしい。

それでは異性と話すのに適している話題は。それは相手のことを聞いたり、自分のことを話したりする場合だ。男性を相手にして自分の話などされても「オメーのことなんか知ったこっちゃねーよ」と思ってしまうだろう。それが女性であれば真剣に話を聞こうと思ってしまう。そういうところが女好きなのだろうか。いや、俺男性の自分語りも全然聞いてるよ。聞いてるし、女性の自分語りが「退屈だなー」と思うことだっていくらでもある。やっぱり女好きという呼称は言いがかりだ。

女の人に声をかけることが多いか。どうだろう、やはり女の人のほうが気軽に声はかけやすい。なんでだ。多分何も考えなくていいからだ。男性と話すときには特定の何かについて話さないといけないという前提ができあがっているからかもしれない。女の人にはただなんとなく声をかければいいだけのような気がする。そして反応が嬉しい。これは女性同士でも同じではないだろうか。男性に反応されても嬉しくない。

声を掛けるといっても口説くとかナンパするって意味ではない。ただ一言発するだけ。思い返せば、やはり女の人にばかり積極的に関わりに行ってるような気がしてきた。これは果たして女好きと呼ばれても仕方がないのだろうか。常に相手を探し回っているとかそういうことはで全くないんだけどな。でも女好きも案外そんなもんなのかもしれない。

「反りが合わない」という感覚

最近noteを始めた。他の人のノートも見てはいるが、なかなか読みたいようなものが見つからない。テーマを絞って探しているはずなのに、出てくるのは「なんかちょっと違うんだよなあ」というものばかり。同じキーワードで繋がっていても明らかに自分の感覚と、その他がズレている。ぶっちゃけ反りが合わない。全然興味湧かないし、なんでそんなどうでもいいことにフォーカスしてんの?って問いたくなるが、どうやら大多数に求められているらしい。パブリックに活動するなら大多数が大事。つまり自分は顧客対象外なのだ。キーワードで繋がるなんて当てにならない。分野で絞り、言葉で区切ったってめぼしいものは見当たらない。埋もれているのだろう。マジョリティに望まれるキーワードと項目に隠れてしまっている。フォローしたい人を見つけられない。Twitterも同じ。

でもこの「反りが合わない」という感覚は大事だと思う。「大多数に望まれている」という理由で摂取するのではなく、そこにある違和感に素直になる。違和感とはつまり、自分自身の感覚にほかならない。自分の感覚、「反りが合わない」と思うにも理由がある。そこを明確にしていく過程が大切だ。自分が何を好み、何を嫌い、何に違和感を覚え、何を求めるのか、その理由は、背景は、探りに探って嗜好形態がはっきりする。ぼんやりとした感覚に過ぎなかった自分の個性がクリアになり、形になる。

自分がない、自分がわからない、周りに流されるといった人たちに足りないのは自己主張でも強い意志でもなく、違和感に向き合うことだ。自分に向き合い、自分自身を知る作業が圧倒的に足りていないから、自分を形作る主軸が見えておらず、あっちこっちふらふらとブレてしまい、自分の本心がなんだかわからないまま体にストレスだけを溜めてしまう。就職活動でよく自己分析なんてものをやったりするが、あーいうのではない。あんな人に求められる基準を前提とした分析なんて、自分を知るためには何の役にも立たない。もっと単純な違和感に向き合うことだ。しかしもしかすると違和感に気づかなかったり、押し殺すことが習慣になっている人もいるかもしれない。中には違和感を持たない人だっているだろう。

「大多数に望まれている」から、それが民主主義多数決大正義だと思って自分の意見、趣味、嗜好に目をつむってしまう人がいるのは何故だろうか。それは少数派、マイノリティであることが異質とみなされ、社会悪として迫害されるからだろう。自分の意見を表明すると攻撃に遭う。周囲に迎合しないと生きていけない。魔女狩りである。でも別に自分の好みを知ったって、表立ってアピールしなければ迫害されることもないと思うんだけど、ただ明らかにするだけではダメなんだろうか。一度気づいてしまうとそういうわけにはいかないんだろうか。それよりも単に、自分自身の個性なんかより他者との関係性や協調性を重視しているというだけの話だろうか。どこかしら、多かれ少なかれ違和感を持つことはあると思うが、それが他者に対する否定だと勘違いして感情に蓋をしてしまうこともあるかもしれない。そんなことはしなくていいのに。認めることと認めないことは、分けれ考えればいい。

その昔、Internet Explorerというブラウザが世界で一番使われているからといって、最も優れたウェブブラウザだと思い込んでいる人がいた。IEが世界で最も使われていたのはWindowsの標準ブラウザだったからという理由だけで、最初から最後まで評判はクソだった。事実クソだった。しかし「世界一=良い」と思っている人は、IEが世界最高のブラウザだと盲目的に信じていた。他のブラウザを使ったこともないのだろう。判断力もないかもしれない。多くの人にとってはブラウザの質なんてどうでもいいことだけど、そんな恥ずかしい論争が2000年代初頭にあった。

読みたいものがないから書くというのは一つの原動力なのだろう。

手紙が来た。

日本からだ。先日書いた、件の彼女からである。

手紙を書くとは言われていたが、まさか本当にこんなに早く来るとは。女性は男性に比べ、現代においても紙の手紙を書く習慣が残っていると言う。紙に手書きをするほうが、気持ちが込もるからだそうだ。今まで紙の手紙なんて数えるほどしかもらったことないが、これは来た。来るものだった。僕は思わず涙ぐんでしまった。なんだろう、この味わい深さ。まんまとしてやられた。

落ち着いて書き綴った手紙には、想いが宿る。僕のことを気遣いながら、本人のつらさも受け取れる。同時に、何書いたらいいかわからない感じや、若干の照れも見て取れる。僕を励まそうとする思い。つらいだけでなく、滅多にない今の状況を楽しもうとしている姿勢。この人は強いなあ。僕はこの人のこういう強さにも惹かれたんだ。

skypeなどで彼女と話すとき、僕はいつもどおりの口調で近況報告をする。明るく、おどけて、遠く離れたこの地で起こる、身の回りの珍事を楽しく紹介している。ときどきは悲観にくれながらも、トラブルを楽しんでいる空気すら醸し出している。「会いたい」「寂しい」とは言わない。そんなことは言わなくとも大前提にある感情で、わかりきっている。そのうえで僕は今ここにいるのだから。

しかし、ときどき居ても立ってもいられないことがある。そばにいたくて、触れられなくて、悲しくて、今すぐ飛行機に飛び乗ってしまいたくなる。なんで今こんなところにいるんだろう。一体何をやっているのだろう。泣き出しそうになる。

そういう感情は、自分の根底でずっと流れている。それがふと弱ったときに顔を出してしまう。この気持ちは伝えられない。伝えてしまうと、容易に相手に伝染してしまう。だってこれは、自分だけの感情ではないから。相手だって同じ感情を持っている。同じ感情を持っているが、お互いが相手を気遣い、表に出ないよう励まし合っている。もしこれが相手に伝わってしまったら、相手が抑えていた同じ感情も誘発してしまう。そんなことをしてもお互いがつらいだけ、苦しいだけだ。

さて、どうだろうか。そうでもないような気がしてきた。なんたって、彼女は強い人だ。僕の弱音に飲まれることなどなく、僕が弱音を吐こうものなら尚の事励ましてくれるに違いない。僕だってそうだ。彼女の悲しみやつらさが表に出たとして、同調してしまうことは多少あるけれど、きっと僕は楽しく前向きに彼女を励ます。どちらかが、どうしても限界だというときには日本に帰ってくればいい。そしてそうならずとも、僕らはきっとうまくやっていける。

来年の夏に、会いに来てくれることをずっと楽しみにしています。再来年には僕が一時帰国するよ。一年に一度しか会えないような状況なんて、並々ならぬことだ。普通のカップルだったら別れるだろう。でも僕らはそんなもんじゃない。僕らはほら、本物だろう?僕には乗り越える意思があり、あなたにはそれだけの強さがある。ただそれでも、本当に限界が来そうになったら遠慮なく伝えてほしい。迷わずあなたのもとへ帰ります。

気持ちの切り替えが下手で時間を無駄にしている

やらないといけないことがいくつかある。非常にめんどくさくて、全然手を付けてない。早く終わることからやろうと思い、今やっと洗濯を終えたところだ。洗濯さえ2日間ほったらかしていた。多分、気持ちを切り替えて眼の前のやるべきことを順にこなしていけば、そんなに時間がかかるものでもないはずだ。どこかで手詰まりになり、一時的に止まってしまうことはあるものの、そのときにはまた他の手付かずの業務に入り、手元にあるできることから順番に進めて物事を全体的に徐々に進めていくのが順当なのだろう。しかし、めんどくさい。やってられない。そうやって手付かずのままほったらかしている。

  • 作業計画
  • それ以前の問題
  • 早くやれよ
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スマホの通知をオフにしている理由

スマートフォンの通知は心臓に悪い。3ヶ月ほど前、親からLINE通話がかかってきた。普段メッセージでしかやりとりしていないのに、何事かと思って出た。親はもう高齢であり、何かあったのでは…出てみると、今夜食事に行く時間がどうたらという既に3回ほど確認している内容の再確認だった。

「そんなくだらないことで電話してくるな」

とつい声を荒げてしまった。心臓に悪いと。同じことを何度も確認するのは高齢だから仕方ないとは言え、自分が安心したいためだけに人を巻き添えにするのは全くの自分本位であり、相手に悪いと思わないのかと。

しかし、責任の一端は僕にもあった。通話のコールを受ける前から既に、LINEで確認のメッセージが来ていたのだ。僕はそれを無視していたわけではなく、見ていなかった。なぜなら通知をオフにしているから。iPhone上の通知は、通話以外全てオフにしている。赤バッジもオフ。

「緊急の要件があるときはコールしてきて」と普段から言っていたのが仇になった。自分が安心したいだけというどうでもいい要件も緊急だと判断され、結局わずらわされる。急に電話がかかってきたら心配するからやめてと親には言っておいた。

  • 通知怖い…
  • テレビ世代の情報収集
  • 情報取得の姿勢の違い
  • ただ干渉が苦手なだけです…
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人を知ること、その先に

人をよく知ることの先には何が待っているだろうか。相互理解だろうか。良好な関係性だろうか。もしくは争いだったり、弱点ともなれば奪い合いだろうか。それとも共闘によるシナジー効果だろうか(前の職場に口癖のようにシナジー効果と言う人がいた)。

ここから先は僕の事例。僕が人のことだったり、何か物事を知ろうとするとき、その先に求めるのは世の中を見据える新たな視野だった。学問を身につければ、世の中の一部を専門的な視点から深く掘り下げることができる。どこまでも深く、際限ない。横を見渡しても広い。分野に限りはない。隣りにいる人は、また自分とは違った視点から世の中を見つめている。海の向こうでは全く違う視点で世界が語られている。そのような別の視点を知りたい。あらゆる視点を。それらを統合して、まんべんなくこの世の中を眺めてみたい。一体どういう仕組みでこの世の中は成り立っているのだろうか。

人のことを知りたいときは、その人がどういう視点を持っているのか知りたい。あわよくばそれを自分の中に噛み砕いて理解したい。そうやって新たな視点を身につけたい。他人に備わっている視点は、感覚的にはわからない。その仕組みを知る必要がある。その視点はどういった経路をたどり、どのようにして構成されているのか。ありとあらゆるパターンの解析が必要になってくる。それらを全て知って初めてインプットすることができる。こういうとき、この人だったらこう考える。一つの人格が自分の中に出来上がる。それらは知識であり、学問である。

人に興味がわかないときは、その多くが既にそのパターンを知っているとき。でなければ自分に必要のないパターンだったりするとき。物事をこんなふうに捉えられたらおもしろいなーと思ったときに、人に興味がわき、その人のことを知りたいと思う。彼は彼女は、何をどう考え、どう感じ、どういった答えをだすのかが知りたい。

よくしゃべる俺

先日飲みに行ったとき、7時間ぶっ続けで喋っていた。相手の人はさぞ疲れただろう。ごめんなさい。そして僕はよく喋る人間、話好きだと思われている。無理もない。ただ実際のところはどうだろうか。

  • 話好き?
  • 聞き上手?
  • 話し上手?
  • 人気者ってなんだ
  • もしかしてすごいのかも?
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自己評価を重視しがち

「人からこう言われてるよ」みたいなことをよく聞く。僕の場合だと「気味悪がられている」パターンが多い。ここ2ヶ月の間で5、6人から「ヤバイ人だと思ってました」「めっちゃ怖い人だと思ってました」と自供された。自分がなんで怖がられるのか理解できなくて、おもしろがっていろいろ聞いた。誰とも目を合わせないとか、口を開かないとか、目つきが悪いのが原因だとか。眉間にシワを寄せる癖がある。これは意識しないと直らん。でも意識して直す程のことでもないなーと思い、ずっとそのままだった。

果たして人は、人からの評価を気にするのだろうか。全く気にしないと言えば嘘になる。「人からこう言われてるよ」という話はおもしろい。別の人の視点で自分がどう見えているのかという話は新鮮に聞こえる。しかし、その程度だ。おもしろがる程度。それを深刻に考えたり参考にしたりはしない。他人の意見はあくまで他人の意見であり、あまり意識しない。人からどう見られているかなんて、基本的にはどうでもいい。好かれていようが嫌われていようが、怖がられていようが気味悪がられていようが、自分には関係ないと思ってしまう。

それでは何を重視するかというと、自己評価になる。他人の評価よりも、自分がどう思うか。自分で納得できるか。自分で自分をジャッジする。それ以外はあまり、なんとも思えない。他者評価が重要な場合はたくさんある。仕事だったり、他者との関係性で成り立っている事柄は、自己評価よりも他者評価が重要になる。あくまで関係性の上では、という話だけど。つまり、他者との関係性をどれほど重視するのかが、他者評価を重視する基準となる。

他者からの評価が上がれば、他者との関係性を改善できる。一方、他者からの評価を気にせず、自己評価を気にすることに何か意味があるのか。自己評価とは何も良い評価ばかりではない。悪い評価も自己評価にあたる。だから、自己評価にこだわることで必ずしも自信が持てるわけではない。むしろ自己評価を徹底することで自信を失うことのほうが多いだろう。

自己評価を行うことの意味は、自分で自分に問いかけることではないだろうか。それで何が起こるか。自己問答を繰り返すことにより、自分の価値観や考え方、嗜好性がクリアになる。判断基準、軸が明らかになる。自分の軸がはっきりしてくると、他の意見に惑わされにくくなる。自己問答を繰り返す過程で、自分を知ることになる。そうなってくると、他者の意見はあくまで他者の意見でしかなくなる。そして「自分には関係ない」と思えてくる。

他者の意見に惑わされやすい人は、自己評価が足りないんじゃないだろうか。他者との関係性なんて、そんなに重要なのだろうか。だとしても、それはそれで切り分ければいいのではないかと思う。おそらく誰もが持っていると思う、他者と対峙するとき用の自己。そのままの自己、RAWなやつは、なかなか他者にぶつけられない。だから自分で処理すればいい。他者と対峙するにあたっては、他者と対峙するとき用の自分を磨き、ぶつければいいんじゃないだろうか。それはある意味、自分ではない。そんなものは、褒められたりけなされたところで何も響かない。

ただ現実として、そういう作られた作品のおもしろさは限定的であり、エンタテインメント性に特化している。自分が本当に見たい他者は、やはり受け入れがたいRAWなものだったりする。

自分から話しかける

自分から話しかけることが多い。話したことがない人に対して、一度自分から話しかけると、打ち解けるというほどではないにしても、それまでよそよそしかった人もまた向こうから話しかけてきたり、気軽に会話が進むようになる。相手と仲良くなりたいとか、何か特別に話がしたいとかいうわけでもなく、ただなんとなく「声かけたほうがいいんだろうな」と思ったら話しかける。話しかけないほうが不自然だと思って。たまに興味を持っているとか仲良くなりたいとか誤解されることもある。全然そんなことはない。興味を持つのはその後、話の中身に入ってから。

意外とやらない人が多いように感じるのは、多くの人が話しかける相手を選んでいるからだろう。僕自身はほとんど話しかけられない。選ばれない。でもおそらく、僕だって無意識に相手を選んでいる。いわゆるコミュニケーション強者は本当に誰に対しても話しかけている。いつでも、毎回。僕はそれができない。気分で話しかけたり、全然応じなかったり、そのときどきで落差が激しい。僕が基本的に話しかけられず、話しかける側なのはこういう態度にムラがあるからだろう。本当によく色んな人から「話しかけづらい」と言われる。そりゃあそうか。

ということはやはり、僕にだって話しかけやすい相手がいるということになる。人から話しかけられやすい人は、話しかけやすい雰囲気を出しているのだろう。僕自身も話しかけやすい人に対して声をかけているのだろうか。けっこうまばらに声をかけている気がする。自分が話しかけない対象といえば、話しかけなくてもいい相手になる。つまり、なかば義務感のようなもので話しかけているのか。声をかけたいわけじゃない。何を言うでもない。ずっと黙っていたっていい。けれど何も言わないのは不自然だなと思ったときに、相手が誰彼構わず声をかけている。

たまに、話しかけられるのを待ってる人がいるという話を聞く。その心理は全く理解できない。待つぐらいだったら自分から話しかければいいのに、なぜ、何を待つのだろう。待つぐらいだったら特に話す必要もないのではないか。待つ人生だったのだろうか。

女性の顔に何を見るか

「男性の方が女性を外見で判断することが多く、女性は相手の中身で判断する」とよく言われる。実際どうなのか知らないが、男女にかかわらず誰しも好意を寄せる顔面のボーダーラインというのが存在するだろう。他人のデータはないんで、今回も僕自身の事を話す。僕は女性の外見で何を判断するか。

僕の場合、相手の歪んだ顔にそそられるかどうかだった。歪んだ顔とは、笑顔だったり苦悶の表情だったり、つまりは表情だ。歪んだ顔を見たいと思う対象にそそられる。これはもう端的に言ってしまうとセックスのときの顔になる。顔を見る。電気とか消してはいけない。

たとえ美人であっても、表情を見たいと思わないタイプであればそそられない。巷の男性であればAVなど見慣れていると思うが、美人でもそそられない例を数多く見てきたんじゃないだろうか。逆もまた然り。決して美人に類する顔ではないにしても、表情にそそられる例を見てきたと思う。

単に表情が豊かだとかそういう話ではない。僕の場合はわざとらしさを見かけると一気に冷めてしまう。僕自身も演技ができない人間だ。だから、表情が如何に自然に変化するかどうかを見がち。あとは一見するだけではわからない情感の深みとかだろうか。そういうのを総合的に読み取ろうとする。

こういう話はもちろん、付き合うとか結婚するとかとは全然別になる。顔が好きだと言われたらセックスパートナーとしか見られていないと思っていい。でも顔が好きじゃないと言われたって、そういう対象に見られないとは限らない。失礼な話だが、顔を見なければいいだけ。これは男女かかわらず同じではないだろうか。顔が好きだからってずっと顔ばかり見ているわけじゃない。ちら見する程度。僕自身はあまりに無表情で怖いと言われたことがあった。

そういわけで、顔で人を判断するときには、一体何を判断するのかという割と最悪な話でした。僕の場合は表情の変化を見たいかどうか。トランプが選挙戦を争っていたとき「ヒラリーでは抜けない」という名言が飛び出した。