愛されたいと思ったことがない話

奥さんがバチェロレッテを見ていて、台湾でタコを上げるくだりかなにかのときに、タコ(灯籠?)の両面に、「お互いにとって愛とは何か」を書くみたいな場面があった。スギちゃんと呼ばれる上島竜兵みたいな男性は、「花びら」と書き、バチェロレッテは「生きる」と書いていた。「花びら」とは、つかもうとしても手元に収まらず、待っていれば手元に落ちてくることもあるもの、みたいな意味らしい。「生きる」とは生きることそものもが愛みたいな意味だったかな、忘れた。

Amazon.co.jp: バチェロレッテ・ジャパン – シーズン1を観る | Prime Video

そこで自分にとって愛を一言で表せば何になるだろう、と思った。自分だったら何て書くだろう。愛とはなにか。すぐに思いついたのは、「空気」だった。どういう意味なのか詳しく書いてくれと言われたから考えてみる。

空気と言ったのは、あって当たり前のもの、みたいな意味だったと思う。自分にとって、ということだけれど、生きていく上で愛なんてものを改めて意識することがない。空気と同じように、当たり前のようにその場に充満している。愛と誠。

愛と平和が充満していない人も環境もあるだろうとは思う。現在の地球上に、大気は無条件で充満しているけれど、月や火星がそうではないように。宇宙空間が不安と混沌に満ちているように。自分は地球環境のようなぬるま湯、ゆりかごで生きているため、愛と平和を改めて意識する必要がない。そこにある空気と同様に、目に見えず、あって当たり前、分け与えるという概念すらない、共有財産だとさえ思わない、存在を意識しない空気。息をするように愛と平和。

Zガンダムにおいてクワトロ大尉がダカールで演説を行ったときは(ダカールの日)、このように表現していた。

人は長い間、この地球というゆりかごの中で戯れてきた。
しかし!時はすでに人類を地球から巣立たせる時が来たのだ。
その後に至って何故人類同士が戦い、地球を汚染しなければならないのだ。
地球を自然のゆりかごの中に戻し、人間は宇宙で自立しなければ、地球は水の惑星では無くなるのだ。
このダカールさえ砂漠に飲み込まれようとしている。それほどに地球は疲れきっている。
今、誰もがこの美しい地球を残したいと考えている。
ならば自分の欲求を果たす為だけに、地球に寄生虫のようにへばりついていて、良いわけがない。

この後クワトロ大尉(シャア・アズナブル)は地球に隕石を落として寒冷化し、人の住めない星にしようとするんですけど、意味わからないですね。

ここから得られる教訓はつまり、なんだろう、愛に甘んじていれば空気は汚染されるということなのか。宇宙空間で暮らすスペースノイドは、空気(愛)が無条件でもたらされない環境で耐え苦しみながら生きているというのに、地球で暮らす人間たちは空気(愛)を貪るばかりで地球環境を汚染してしまっている。地球を元の姿に戻すため、一度野に返そうという話。この例え全然わからなかった。

つまり、愛と平和はあるものにとっては空気のように当たり前であっても、無いものにとっては非常に得難く、獲得、維持するために大変な苦労を要するものだということだろう。

自分は本当に、愛がどうとか考えたことなかった。愛するとか、愛されるとか自然なこと過ぎて無意識だった。もっと空気を意識して生きていきたいと思います。ありがとう空気。

人は第一印象が大事だと言います

僕は第一印象がとにかく悪いようだ。そのときは自分で気づかないため、後から人に言われると結構驚く。そんなに印象悪かったのか、と。第一印象とはなんだろうか。多分、顔とか声とか、服装とか、態度なんだろう。確かにそのあたりはどれも自信がない。人から「いい人そう」とか「優しそう」と言われたことはない。まあでも考えてみれば、普段から良い印象を持たれるように心がけていなかった。それどころかむしろ、逆を行っているところがあった。意識的にか、無意識にか、両方か。

逆とはつまり、第一印象を悪く見せているところがあったかもしれないということになる。振り返ってみれば。人から「いい人そう」「優しそう」と思われないように、顔つきとか服装とか態度を雑にしていたところがあるかもしれない。何故そんなことをするのか。それは悪ぶっているとかカッコつけているとかではない。人との関わりを避けるためだった。僕は一人でいたい。だから、「なるべく関わりたくない…」と思われるように、第一印象を下げる。話しかけられたり、何かを頼まれたり、お願いされたり、好かれたり、助けられたり、そういう面倒事を避けるために僕はずっと悪い第一印象を与え続けていたのかもしれない

ときどきはそれを意識的にやっているけれど、あまりにも染み付いてしまい普段から出てしまっているのだろう。そのせいで、何も考えないで人と接しているときでさえ、悪い印象を与えてしまっている。そして自分が認識していないところで、不特定多数からよくない印象を持たれている、という結果に至っている。それはいいことなのだろうか、悪いことなのだろうか、どうなのだろう。あまり困ったことはない。僕自身はやはり、どうでもいい人から好かれる方が困るため、好かれないのは都合がいい。

ただ、それでもさすがに、必要だと感じるときや、好かれたい相手に対しては第一印象を取り繕うことがある。特に仕事のときなどはそう。サラリーマンをやっていたときなど、めっちゃいい印象を持たれることもあった。だから全く愛想よくできないわけではない。でも普段は必要ないと思うからやらない。必要なときに必要な結果を得られたら十分だろう。

それでは僕自身が、第一印象がいい人のことをどう思うか。それは普通。話しかけやすい人は話しかけやすいし、頼み事をしやすい。第一印象がよければ当然だ。ただ、別にいい人だとは思わない。第一印象なんて薄っぺらい表層に過ぎないから、見える範囲以上のことを憶測で判断したりはしない。だから僕自身は、人の第一印象なんて全然気にしていないと言える。

第一印象なんて、それ以上のことは全く語っていない。だからそれで人間性を判断したりするのは、本当にやめたほうがいいと思う。多分間違っていることのほうが多いから、根拠のない結びつきを信じるのはよそう。そもそも人を見るときは、それぞれ個別の対象として見たほうがいいと思う。全く別の人の事例を持ってきて当てはめて判断しても、信憑性薄いと思う。

だから僕のことを第一印象で判断するのは、それはそんなに間違っていないと思う。

停滞中

気分が停滞しているのは、脳内ホルモンのバランスの問題で、脳内ホルモンのバランスが乱れていれば理由もなく盛り上がっていたり落ち込んだりする。今は特別そういうことはない。どちらかというと落ち着いている。やる気が無いのは平常運転で、その平常運転における脳内ホルモンのバランスあたりが個性だったりするのだろう。自分はあんまりそんなにアクティブな方ではない。「人生楽しまなきゃソン!!」とか言われた日には「損でいいです」と言ってしまう方。

ただまあしかし、気分の浮き沈みは体力、体調の影響も大きい。体育会系が元気なのは、鍛えているからだ。エネルギーを回転させているから、脳内ホルモンも活性化されるのか。その点においても自分はやはり停滞している。夜はなかなか寝られなくて、夜中に起きてしまい、昼や夕方は眠くてしょうがない。それは関係ないか。規則正しい生活でホルモンバランスも整うと言うではないか。

食事と運動と睡眠をほどよく行いましょう。食事だけやっていれば太ります。太ったな。本当によく太った。脳内ホルモンのバランスも乱れるわけだ。元気がない。人と会ったりすると、自分はもっと持て囃すことができたはずだ、なんて思う。その気概を失っている。酒でも飲まないと無理です。今日無理だなーとか、この頃ちょっと無理だなーってときは、もうなるべく人に会わないようにしてしまう。そうやって付き合いも交流も途絶えていく。

人との交流は前のめりすぎてもダメで、放ったらかしすぎてもダメ。程よい距離間で関われる相手を見つけるのが肝心。あと、社交辞令いらない。本当に全然いらない。社交辞令は害悪だから本当になんとかしてほしい。

時間が有限だというのは、カウントするからだ。時間は無限にある。一つずつ順番にこなしていけばいい。時間が無限にあったら何をするか?手元にある音楽を片っ端から聴く、映画を見る、本を読む、せいぜいそのへん。今だったら国内旅行を視野に入れつつ、ラジオを聞いたり、こうやって日記に落とし込んだり。ひとりでやることだったら、時間は無限に使えた。焦らなくていいや。漫画読みたい。酒飲みたい。

目指していきたいっすねーインターネット離れ

今でもついTwitter開いたりはてブ見たりしてしまう。悪い癖っすねー。社会と繋がってしまったインターネットからは、なんとなく身を引きたい。そういう思いが近年徐々に増している。こうやってみんなネット社会からいなくなってしまうんじゃないか、自分もその一人になれたら、そんな思いを巡らせている。

インターネット、ネット社会と関わらずに、自分の身の回りの世界だけで生きていきたい。インターネットに繋がっていなければ、それだけで今よりも平穏な日々が過ごせる。今はネット慣れしているから脅かされないだけで、摂取しなくてもよかった情報を取捨選択して、自身に堪えそうなものは受け流している。そういう行為自体が本来不毛なことだ。だいぶ荒んでいる。フィルターはすごく汚れているんじゃないか。世渡り下手な世間知らずとして、無垢な時間を過ごすのが理想ではないか。取り込んで受け逃して、時には傷つけ合い、その先にある束の間の平穏なんてまがい物ではないか。知らぬが仏。

これは生き方にも通じる。絶海の孤島で、自然の恩恵と身の回りの支え合いのみで生きていけるなら、海から外へ出て荒波に飲まれ、競争社会を渡り歩いた末の守られた人工都市なんて目指す意味はないんじゃないか。そうやってみんな都会を捨てて田舎暮らしに走るのか。もっと狭い世界に生きて、ニュースを取り入れないことは大事だと思います。ミュートやリムーブは積極的に活用していきましょうよ。よく反対意見をフォローするのも大事とか言われてますけれど、別にいいっしょ。広い視野とか広い世界なんてもういらない。自分と関わりのない人のことを考えるのはやめる。切磋琢磨なんてもう飽き飽きだ!ぬるま湯を沸かし続けることだけがんばりたい。

その点近頃のブログは閉じてしまって楽ですよね。人目につかなくなった。以前は人目につくことを目指していたにも関わらず、元あったところに戻りつつある。僕にとって内輪のような繋がりはないんだけど、ある人はそれで十分。閉じた世界、閉じたコミュニティ。世の潮流から逃れてきた草木も生えぬ大地。良し悪し、正誤もなく思いつきだけで成り立っているこの場。ネットの海の果でありがとう。世界は密から疎へ。

話がインターネット離れではなく、インターネットの中央離れになっている。どちらでもよい。見知った人達同士の、手の届く範囲の、生活圏のことを考えていたい。自分はワールドワイドな人間ではない。世界へ発信して世界の反応なんかうかがわなくていいんだ。あっても遮断すればいい。世界史における日本の鎖国思想バンザイYES。閉じたコミュニティのカッコ悪さを笑うことなかれ。僕らは流行を知らない老害なんだ。外へ出てはいかんな。あちいなーコンチクショー

結婚生活の話

結婚生活について書いてほしいと言われた。パートナーについてはこれまでにもここに書いてきたから省くとして、結婚後の我々の関係であったり、生活?について。となると何を書いていいやら。

僕とパートナーはもともと友人だった。その関係性は、結婚後もほとんど変わっていない。友人のような関係のまま結婚して、1年経った今もそのまま続いている。付き合う前の友人期間が1年あり、彼氏彼女期間が半年で僕らは結婚となった。友人期間のほうが長く、付き合い始めたからと言ってお互いの態度が変わるようなことはなかった。彼氏だから、彼女だから、結婚したから、立場が変わっただけで態度を変えたりすることに僕は違和感があり、そういうことをお互いやってこなかった。態度が変わっていくとしたら、立場によってではなく親密度によってグラデーションのように変化していくものだろう、と僕は思っている。「ハイ、付き合いました」「結婚しました」という号令だけで態度を急変させるのは不自然だ。中身は何も変わっていないのに。

だいたい僕自身は彼氏彼女関係、婚姻関係に対して願望をいだいたことがない。だから「彼氏とはこういうもの」「結婚とはこういうもの」といったイメージがなく、その立場になってああしたいこうしたいとかも一切ない。むしろそんな型に囚われたくない、こだわりたくないという気持ちのほうが強い。だから籍を入れなくてもいいと言っていたし、パートナーの方の姓を選んでいいと言っていた。そういう表面上のことは、僕にとって些事であった(結局相手の希望で僕の姓になった)。

立場によって態度を変えるとか、表面上のことを繕うのは、プライベートではなくパブリックな場においてだけだった。例えば双方の親の前だとか、パートナーの仕事上の付き合いや、事務手続きの場においてのみ僕らは婚姻関係のロールを演じ、対応することが求められるから仕方なくやる。そしてプライベートではこれまで通りという感じ。結婚生活ごっこをやるのは表向きだけでいい。

単純な生活という意味では、僕は結婚諸々のために帰国したため、大きく変わった。僕が僕自身のためだけに生きる時間は終了した。今は全てパートナー中心の生活をしている。もともと僕は夢も希望のなく、かろうじてあった自分のやりたいことは、今までの人生でほとんど全部やってきた。今はまさに、結婚してパートナーのために生きるという生活をやっている。

といっても僕には経済力がないため、働くという面では家庭に一切寄与していない。パートナーに頼り切りである。その点においてパートナーからすれば、一人増えようが同じという塩梅。ただそれではあまりに申し訳ないから、経済的にも寄与できるように努力はしている。パートナーはそれについて「どうでもいい」と言っている。このあたりは男性が家計を支える家庭と根本的に違う。

経済力でないならば、一体どういう形で僕がパートナーを支えているのか。大まかに言えば、パートナーの経済以外の負担を軽減している。心労であったり雑用であったり、厄介事であったり、人手であったり、いてくれると助かると言われるよう日々務めている。パートナーは元々一人で何でも出来る人だから、能力は全部僕より高い。実際のところ僕はいなくてもいい。ただ、「いたほうが楽」と言われる程度の役割を担っている。

同様に、僕自身もパートナーがいなくて困ることはない。お互い30代後半まで誰も必要とせず、一人で生きてきた。あえて結婚する必要もなかった。そういうときにお互いが「してもいいんじゃないか」と思える相手だったから、今のようになった。僕はその「結婚してもいいんじゃないか」と思われる対象であり続けるように努めている。

僕に関して言えば、生活の主体が自分ではなくパートナーに移ったため、生活様式は大きく変わった。パートナーと僕とでは生活の基準が何もかも違う。ほぼ全部向こうに合わせているが、至らないところは多々ある。ただ特に無理したり我慢したり、頑張って合わせているということはない。禁煙は多少つらかったところもあるが、強要はされていない。

基本的にはパートーナーの生活スタイルに、僕が合わせる形になっているが、逆にパートナー側から僕に合わせてくれていることはなんだろう?と思って聞いてみた。以下が返ってきた答え。

うーん言葉にするの難しい
私は家族も含めて世間体を気にする性格やから、普通こうするやろって行動が川添さんにとって普通ではないことを受け入れるという部分は合わせてるかな… こっちに合わせてほしいことはちゃんと毎回伝えるけど、どっちが正しいとかそういうのは無いという意識改革というか

なるほど、そんなに変か俺。でもこういうことは、付き合う前から言われていた。まず最初に相手(僕)が普通じゃないこと、常識の外側にいる人であることを認めるところから始めた、といったようなこと。生活の上で具体的に合わせているところは「しょうもない話を聞かされているところぐらいかな…」という回答だった。向こうから求められることもあるけれど、それ以上にめっちゃ話すからなー。

僕の結婚生活はそんな感じ。もっと具体的な話をするなら、朝猫に起こされて、朝食を用意して、それぞれ仕事をして、夜には帰ってきて、夕食はパートナーが用意して、洗い物は食器洗い機がする。掃除洗濯は僕がやったり向こうがやったり。猫の世話も僕がやったり向こうがやったり。同居、分業という感じです。食事をしながらNetflixやAmazonプライムを見たり、お互い都度今日あったことを話したり、たまに外食したり映画館へ行ったり、そんなもん。友人っぽいでしょ?

そんなに映画が好きじゃないのかなあって

子供の頃から、小学校に入る前の幼児期から映画を見ていた。映画館によく通っていた。数を見てきた方ではないけれど、ずっと映画好きだと思っていた。少なくとも平均よりは。ここにもよく映画の感想とか書いたけれど、自分はあまり批評的な見方をしたくなくて、それは映画に限らず小説とかも同じで、批評は人の話を聞く分にはおもしろいから、それで十分かなあと。映画批評も文芸批評も、読み物としておもしろい。文庫の解説とか必ず読んでしまう。ただ自分では、そういう見方をしたくないだけ。だって映画の批評しようと思ったら、少なくとも2回は見ないといけない。同じ映画を何度も見るのは、本当に好きな作品でないとつらい。小説も同じ。あと、批評的な見方だったりおもしろさをやり始めてしまうと、もう気楽に鑑賞できなくなるというか、低俗な娯楽として消費するのが困難になってしまう。

それはともかく、映画があまり好きじゃないと思ったのは、最近全然見ていないから。ひろゆきが「毎日1本映画見ろって言われても全然平気」と言ってたが、僕は無理だった。今はそれぐらいの時間があるのに、週1本も見ていない。好きな人は1日に何本も見ている。僕にはそんな体力がない。映画好きか否かは数ではないとも思うけど、時間があるから「じゃあ映画見よう」となっていないのは、そんなに好きじゃないからなのかなー。かと言って、他に何するでもない。ドラマも見ていなければ、本も読めていない。アニメを時々見るのは、何も考えなくていいアニメだけで、自分はとてもじゃないがアニメ好きとはいい難い。写真も撮っていないしなー。外出を控えているからってのもあるけど。

大学生の時とか、あと3年ぐらい前の時期は、1日に2本とか映画見ていた。小説も、毎日読んでいる時期はあった。今はそういうタイミングじゃないだけなのかもしれない。映画好きかっていうと、まあそこそこ好き、ぐらいは言えるか。

じゃあ自分は一体何が好きなんだ。今の時期、ひとりでも喜んで、前向きに取り組めていることってなんだ。毎日時間を費やしても飽きないことは。そんなもんはなかった。そこそこ好き、以上に好きなもんなんて何もない。

お題「#おうち時間

目標を立てずに、候補を立てる

なにか一つの仕事なり決まりきった物事を達成するために、計画を立てたり目標を立てたりすることはある。けれど、個人的なことついては、そういうことをやらない。やったことがない。いつもなんとなくやってきた。

たとえば、去年に禁煙を始めた。今11ヶ月続いており、もうすぐ丸1年になる。きっかけは健康診断を受けるためだったかな。もう少し込み入った事情はあったけれど、大したことではない。禁煙を始めるにあたり、少しずつ減らしていったり、禁煙するための本を読んだりセラピーに通ったり、代替嗜好品を用意したりするわけでもなく、ある日突然やめた。それが今まで続いている。

どうしてもやめないといけない事情はなく、いつ再開してもおかしくない状況だった。タバコを吸っている夢を何度も見た。タバコ吸いたいと思うことは何度もあり、その都度どうするか考えた。最初のうちは、お酒を飲むと喫煙を誘発するためお酒を控えた。そしてタバコを吸わない分、食べて気を紛らわすことが多くなった。喫煙の機会がある場所や、喫煙者と会うことを避けた。禁煙がつらいことを意識しないでいい環境を作るよう心がけた。そういう場当たり的な対応を続け、今のところうまく行ってる。

今となってはお酒も飲むし、人が隣でタバコを吸っていても平気だ。レコードを仕入れている市場はおじさんばかりで、喫煙率90%ぐらい。常に誰かがタバコを吸っている。禁煙を始めた当初にここへ来ていたら、きっともたなかった。すぐ喫煙を再開していたに違いない。でも禁煙が数ヶ月続いた後に通い始めたおかげで、喫煙が誘発されることなく今に至っている。

これはもう意志の力とか、習慣の力ではない。場当たり的な対応のみ。まあ、スケジュールを決めて禁煙する人なんていないと思うけど、とにかく計画や目標みたいなものを意識せずに何かするほうが、自分には向いている。アレをやろうって決めて取り掛かるのは、僕には無理だ。勉強や筋トレ、ダイエットとかもそう。目標を立てて計画的にやろうとすると失敗する。

人生計画も、今まで全く考えたことがなかった。受験の半年前に理系から文系へ移った。就職は、やりたいことがないから年間休日が多い会社を選び、片っ端から受けた。業界も職種もバラバラだった。12月頃から始めて6月頃に終わった。それらがうまくいったかというと、必ずしもそうではない。

ただ自分は人生において、およそ夢らしきものを持ったことがないから、現実として目標を立てることもかなわない。仕事のように人に与えられた目標だったら、もしかすると計画を立て、実行できたかもしれない。けれどそんなものはやりたくないし、人に与えられた目標を追いかける人生なんて、自分の人生とは言えない。よく、人の喜ぶ顔が見たいとか、人に喜ばれるのが好きっていう人がいて、そういう人は誰かが喜んでくれるだけで頑張れるのかもしれない。僕はそうじゃない。誰が喜ぼうと自分には関係ない。

年間の目標、今年の目標といったものも、多分立てたことがない。気の向くままに、思いついたことがしたい、場当たり的に過ごしたい。準備に時間がかかることって、あんまりやってこなかったな。何年も勉強して資格を取るとか、そういうことに興味が持てなかった。目標設定をせず、計画も立てないまま何年も続けることはあり、そっちのほうが向いている。効率悪いけど。

計画的に物事こなして目標をクリアしていく楽しさ、っていうのがあるんだろう。そういうの楽しめる人はやればいいと思う。僕は時間が経つと飽きる。あと共同作業だったり、自分一人で行わない場合において計画や目標があったほうがお互いやりやすいと思う。情報の同期がしやすくなる。でも僕はそういことはやらない。

サラリーマンを辞めてから今まで、30歳で退職したから6年になる。その間、計画や目標というよりは、候補を立てて過ごしてきた。何をするかの候補。辞める時点でカナダ、オーストラリアへ行くこと、ボランティアへ行くことは候補にあった。とりあえずビザを取ってカナダへ行き、途中で延長して次のオーストラリアのビザを取り、帰国してからはボランティアを受けたけど落ちて、受かって、帰ってきたら6年過ぎていた。ボランティア中、帰国してから店を始めることを候補に入れていた。今やっている店だ。

他にいくつか考えた候補もあった。

  • カナダで進学する→勉強が嫌すぎてパス
  • オーストラリアで長く働く→やりたくなくてパス
  • 日本で就職する→やりたくなくてパス
  • 日本でシェアハウス兼ゲストハウス→糸口が掴めず保留
  • 東京に引っ越し→アテがなくてパス

残った候補を選んで今に至る。基準は興味があるかどうか、実現性があるか。去年の11月に、オーストラリアで知り合った子が店に来てくれた。彼女はもともと日本で働いていたが、今はシドニーの大学で学んでいる。僕と知り合った頃は、大学入学へ向けてお金を貯めていた。彼女は向こうの大学で学ぶことがめちゃくちゃ楽しいと言っている。勉強も海外生活も、何一つ負担とは思っていない。

僕はオーストラリアが好きになれず、勉強が嫌だからそういう候補を立てなかった。もし彼女のような心持ちであれば、向こうの大学へ進学することも可能だったのかな。興味がない難しい。それだけでなく、現実として楽な方へ楽な方へ行っていることは否めない。さして努力が必要ない候補を選んでいる。

結婚についても、僕は全く目標も計画性もなかった。結婚するっていう選択がもともと自分にはなかったから当然なんだけど、まさに場当たり的に結婚したと言える。1年経ったが、特に何も変わっていない。

言いにくいんだけど、知り合いに人生プランを全部考えている人がいる。20歳で何をして、30歳で何をして、っていうのを死ぬまで全部計画を立てるやつ。あれは昔孫正義がやってたことで話題になり、飛びついた人たちがこぞって真似をした。孫正義なら80歳までの自分が考えたプランに沿って行動したり、計画を修正しながら実行できるかもしれないが、他の人はどうだろうか。というか、今でもやってる人はいるのだろうか。

計画を立てることが無意味だとは思わない。有用性はこの文章の中にもいくつか挙げた。ただ自分は、自分の人生において、目標も計画もうまく扱えないという自覚がある。自分にとっては無意味どころか、やりもしない出来もしない目標・計画を立てることが、かえって妨げになることのほうが多い。そういう僕みたいな人間は、早く目標・計画型の手法から外れたほうがいいのではないか。

世の中において、目標を立て、計画的に行動することが、絶対正義のように扱われている。というか、やって当然、アタリマエのこととして。世の中全体を良くするためには最も効率的であり、汎用性も高く、必要なことなのだろう。ただ僕にとってこの手法は功を奏したことがない。合わない手法だ。だから僕は、目標を立て、計画的に行動することが善とされる環境で生きていけない。僕は目標や計画ではなく、候補を立てて場当たり的に過ごしてきた。

目標を立てても達成できず、計画を立てても実行できないまま、失敗の感情や、無力感、無能感をつのらせ、ストレスで自棄になるぐらいだったら、始めから立てないほうがいい。目標も計画も、絶対正義などではない。

自分がない人

ときどき「川添さんは自分を持っているから〜」などと言われることがあって、自分を持っているってなんだ?と思う。いわゆる「自分を持っている」という言葉の意味として、自分の意見があるとか、自分の主義主張があるとか、自分なりのやり方があるとかそういうことなのは理解できる。「他人の意見に流されない人」とかそういう意味で言っているのだろう。

「自分の信念を持って行動する人」って言い方をするとなんか持ち上げられているような気もするが、「融通の効かない人」とか「人の意見を聞かない人」といったとらえ方もある。自分を持っていることが、一概に良いことだとは言えない。

じゃあ「自分を持っていない人」とはどんな人なのか。自分を持っていないとは、人の意見に流されやすく、自分の意見が乏しい人、ということになる。もしくは自分の意見があったとしても、裏付けに乏しく、コロコロ変わる人とか。確固たる思想体系がなく、首尾一貫していない人が、自分を持っていない人にあたるのかもしれない。良く言えば臨機応変。こだわらない人ってことになるのか。

僕自身はこだわらない人間であろうと努力しているつもりなんだけど、それが既にこだわっていることになるのかな。臨機応変は確かに苦手だ。柔軟性もなく、頭は固い。でも自分では影響受けやすい人間だと思っている。影響を受ける分野や方向性が限られているのかな。だったらやはり融通が効かないのか。

知り合いの「いいねいいねそれ採用」とよく言ってる人は、同時にこだわりも強い人であるように見えて、臨機応変かつ自分を持っていると言える。真逆のことを採用したりはしていないってことなのかな。意見を変えつつも、根拠がしっかりしていれば「自分がある」と言えるのかもしれない。

僕が個人的に思う、「自分を持っていない人」とは、自分が何を良しとするか、何が好きで嫌いなのか、自分はどうしたいのか、しっかり把握できていない人のことだと思う。自分のことは自分でわかっているはずなんだけど、整理が行き届いていないから、ときどき自分とは違う意見を取り込んだり、迎合したりすることもある。

自分の意志や好みがあるにはあるんだけど、それをクリアにしてこなかった、つまり、自分に向き合ってこなかったことが、「自分がない」と評価を受ける理由なのだろう。

そういう話を奥さんにしていたら「自分に向き合えない人も多い」という答えが返ってきた。「自分に向き合わないことで自我を保っている」という意味だそうだ。例えば、自己矛盾に向き合ったり、なぜ自分がそうなっているのか核心に触れてしまうと深く傷つくから、防衛的にあえて自分に向き合わないようにしているとか。

「自分がない」とは、言い換えれば「他人がある」ということだ。自分よりも他人を優先して、他人のために尽くせるんだったら、それは素晴らしいことなんじゃないか。

「自分って何だ」というよりは「自分はどう思うのか」なのだろう。子供の頃、先生や大人に怒られたときによく「自分はどう思うの?」と聞かれた。例えば、誰かとケンカして泣かせてしまったときとか、悪いことをしたときに反省の色を伺うために「君は今どう思っているのか?」というような質問をされる。

ここで正直に「うるせえなと思う」などと答えると、反省の色なしと判断されて余計に怒られてしまう。でもここで本当に「自分はどう思うのか」を答えられる人は「自分がある」人だ。もしくは、めんどくさいから反省しているフリをして「悪いと思っている」と答える人もちゃんと自分がある。本当に悪いと思っている人は、そもそも「君は今どう思っているのか?」なんて聞かれない。既に反省の色が出ているからだ。

じゃあ自分がない人はどう答えるのか。もちろん「悪いと思っている」と答える。同じ「悪いと思っている」と答えた、「めんどくさいから反省しているフリをしている人」とは何が違うのか。それは、動機が違う。反省しているフリをしている人は、「めんどくさい」が動機だ。しかし、自分がない人が「悪いと思っている」と答える動機とはなんなのか。それは、訊ねた人へのご機嫌取りである。「他人がある」のだ。自分の意志よりも、他人のご機嫌が尊重され、選択され、採用されるから、結果的に「自分がない」人になる。

では彼らがなぜそんな選択をするのか。それは他人に気に入られたいからだろう。「自分」よりも「他人」に気に入られたいため、「自分」よりも「他人」の意見を優先する。結果、「自分」は「他人の意見」によって塗り固められた存在になり、「自分の意見」がないがしろにされる。なぜそんなに他人に気に入られたいのか、その他人とは一体誰なのかは知らない。

僕が「自分を持っている」などと言われるのは、人の評価に疎いからなのだろう。「自分がない」と言われる人は、いろんな人から好かれやすいんじゃないかな。

アルコールハラスメント

アルコールハラスメントの話は別にして、酒が飲めない人は大変だろうなと思う。ハリウッド映画を見ていると十中八九酒が出てくる。海外ドラマでもCIA長官の机の引き出しにバーボンが入っていたりする。西欧圏では酒が飲めて当たり前と思われているフシがあるが、実際には飲めない人もちゃんといる。ベルギー人に「酒は飲めない」と言われ「ビールの本場なのに?」的な発言を軽々しくしてしまったことを今は後悔している。これがアルハラというやつなのだろう。

酒が飲めない人は、人生をどうやって過ごしているのだろうとふと疑問に思うことがある。いや、普通に過ごしているでしょ、酒なんか飲めなくたって。しかし酒を飲む人生とそうでない人生を別物と思ってしまうのは、これまたアルハラ的な危うく軽々しい思考なんだと思う。行き着く先は、タバコを吸わない人生ってい楽しいの?ドラッグ経験したことない人生ってクソじゃない?などと言いかねない。僕自身は飯がどうでもよくて、人生損しているなどとよく言われた。余計なお世話だ。俺は酒もタバコも嗜むぞ。今禁煙中だけども。

つまり、酒が飲めない人生も何か他のことでドーパミン出してりゃそれでいいって話なんだろう。タバコを吸う人もいれば、飯を食うことをめっちゃ楽しむ人だっている。マラソンや登山でハイになってる人だっている。アルハラ的誘いは「マラソンやれよ」と変わらない。「自分、体力ないんで」と返すような話だ。酒は手軽だと思うが、体質が合わなければ全く楽しめない。酒が社交の場とか言うなら喫煙室だって社交場であり、登山もマラソンも社交場かもしれない。違うか。ハラスメントとは、言うならば自分の得意なフィールドに無理矢理呼び込むような真似はやめろっていうことなんじゃないか。そして飲酒がさも当たり前かのように振る舞い、フィールドの誘いに乗らない人間をのけものにしたりするのはいかがなものかっていうことだろう。じゃあお前42.195km走んのかって。僕は無理です。

でもなんかそういう得意なフィールド、もしくは参加権限の与えられているフィールドがあって、そこの人口が多ければ声が大きいよね。強いよね。メジャーは人数も多くて楽しいかもしれない。マジョリティのそういうお得感はある。僕みたいにお酒を飲むといっても人と飲むのは苦手で家で一人で飲んでばかりいる人間はまた別です。アルハラもなにも関係ない。

結婚した話

Twitter上では既に述べていたけれど、最近外国から戻ってきて流れるように入籍した。当初長く日本を離れる予定だったのが、事情があって帰国し、そのまま結婚して日本で暮らすことになったわけです。僕は今までさんざん「結婚どうでもいい」と言ってきた。今でもその気持は変わっておらず、相手もそのことは知っているから、結婚にまつわるもろもろはほぼ全て相手に任せっきりになっている。式とか、指輪とか、新婚旅行とか、生活全般のこととか。もちろん僕は相手の意見を聞くし、予定を決めたり話には加わっているが、自分の意向は無いに等しい。せいぜい「披露宴とかやらないでほしい」と言ったぐらいで、あとは向こうで決めてもらっている。

で、籍を入れたり指輪をしたり同居したりしているわけですが、あまり実感は湧かない。もともと結婚がどういうものかいまいちわかっておらず、理想や願望もなかったから仕方がない。何もかもが今までどおりというわけではないが、相変わらずのメンタルで生活している。それは多分、僕にとって良いことなのだろう。元来結婚そのものを希望していなかった自分が、結婚することで何かが変わってしまうよりは、変わらないままでいられることこそが理想であるように思う。

そんな事を言うと「無責任だ」とか「相手の人がかわいそう」なんて思われるかもしれない。しかし、相手の人はそういう自分を理解した上で、僕に変化を求めず今回の話を受け入れてくれたのだと思う。僕にとって、今のような形で変わらないメンタルのまま生活できていることが当然であり、同時に奇跡的でもある。そんなことはある意味で些細なことで、今後どうなるかもわからない。今のところはなにもかも滞りなく過ごしている。相手には感謝の気持ちでいっぱいです。

先日書いていた猫の話は、パートナーが元から飼っていた猫です。

お祝いください!

と思って新婚生活に必要なものとか検索してみたが、既に同居しておりこれからどんなものが必要か思い浮かばず、ほしいものリストに追加するモノがなかった。あれば嬉しい物とかなんだろ。とりあえずギフト券とか入れた。もともと登録しておいた僕がほしいだけの本とか全然結婚祝いじゃないけどもらえたら嬉しいです。左京区の下の方でお店をやれる場所を探しているんで、物件情報でもありがたいです。お祝いください!

川添のほしい物リスト / Amazon.co.jp

めっちゃ頂きました。ありがとうございます!

相手の人との関わり方などについては、これまで散々書いてきた。

なんだろ、他に書くことあるかな。

不運なことが、たてつづけ

つらいことが立て続けに重なって、なかなか打ちのめされている。何なんだろう一体。混乱してしまい、ものを考えることができない。非常に困っている。

嫌なことを知った

薄々知っていたし、大したことではないんだけど、気分良くはない。その程度。

愛用ボールペンが壊れた

10年ぐらい前に誰かから誕生日プレゼントでもらった気がする。それが誰だったか忘れたけれど、PARKERのボールペンが壊れた。ひねっても芯が出ず、出すと収納できない。替芯までたくさん用意していたのに、なんでこのタイミングで壊れたんだろう。落としたことなんて今までに何度もあったはずなのに。ある意味替えがきかない。

カメラの充電器が壊れた

中古のカメラだから、10年落ちになる。今まで何度も海外で使っていたのに、なぜかこのタイミングで壊れた。そのとき撮影係をやっていたため、途中から人のカメラを借りることになった。こっちに来てから数ヶ月の間にも、何度も充電していたが壊れるようなことはなかった。しかし、今はもうランプがつかない。充電器単体で売っているが2万円以上する。

荷物が届かない

先月末に送ってもらった荷物が届かない。もう一ヶ月になる。中にはバレンタインのチョコレートや、手紙、日本で購入したワイヤレスイヤフォンなどが入っている。今まで着かなかったことはないと聞いていたし、2週間で到着すると聞いていた。これまでに送ってもらったときはだいたいそんな感じだった。しかし、もはや一ヶ月経つ。あきらめるしかなさそうだ。

友人の身内が倒れた

友人とは夏に旅行する約束をしていたが、それどころではなくなった。母親が倒れたらしい。予断を許さない状況だそうだ。回復を祈っている。

身内に大病が見つかった

正確には身内ではないが、大変なことになった。誰の身にも起こりうる身近なことであり、深刻に受け止めている。自分も帰国することにした。

最後の2つに関しては、周辺の人たちが自分とは比較にならないぐらい落ち込んでおり、なんとか励ましたいと思っている。それにしても、なぜこんなに重なるかな。

遠距離恋愛1万キロ、5ヶ月目に入る

自分としてはあまりこんなことを書きたくない。さんざん「恋愛興味ない」とかほざいておいてノロケかよ!みたいになるのは心苦しい。だからなるべく事務的に、淡々と記録を残しておきたい。これは彼女一人と、自分に向けて書いている。公開していることに意味はない。

自分の遠距離は途方もない遠距離で、1万キロ以上離れている。故に、この4ヶ月は一度も会っていない。今後もなかなか会えない。次に会えるのは夏頃だろう。付き合い始めたのは4ヶ月前で、実際に彼氏彼女として直接接したのは2日間のみ。それってもはや付き合っていると言えるのか?彼女と言えるのかというほどだ。知り合ってからは1年以上が経過している。付き合う前は友達だった。そういった経緯は以前にも書いたので、興味ある人がいれば参照してもらいたい。

さて、この4ヶ月がどんな感じかというと、自分でも拍子抜けするぐらいに順調だ。それが返って不安になるぐらい、何の問題もない。一度ももめたことがない。お互いに不満を抱いたことがない。むしろ日に日に関係は良くなっていっている。強いて言えば会えないことだけがきつい。これって自分にとってはかなり例外的なことだ。もともと人と関係を築くのは得意じゃない。恋愛関係となれば尚更だ。ましてや遠距離で、離れてから一度も会っていない。

どうやってそんな順調に関係を続け、なおかつ育んでいけているのか。そしてこれからも今の調子で続けていけるように、自戒の意味を込めて書き残しておく。誰かの参考にはあまりならないと思う。

  • 気負い過ぎない
  • 相手に求めない
  • 与え続ける
  • 今後に向けて
続きを読む

これからのこととか

自分と相手とのことを定期的にここに書いているのは、ひとえに彼女がここを見てくれているからに過ぎない。他の方法で言葉を送ることだってできる。向こうは手紙を書いてくれており、僕が手書きで送り返してもいい。そのうちやるだろう。ただそれよりも、自分がより自分らしい手段で意思表示をする場として、ここを用いている。外に向けて発表したいからとかではない。たまたまこれを読んだ人からすれば、全く関係ない話が繰り広げられている。ただの個人的な事情。

けっこう真面目に、着々と話が進んでいる。帰国の暁には結婚となるように、子供を授かれるように準備を進めている。もともと自分が選ばれた基準として「結婚相手に向いているんじゃないか」という思いがあったそうだ。だから「初めに結婚ありき」で僕らの関係は始まった。付き合う前からそういう話をしていた。相手の人は、結婚というものを半ばあきらめていたところもあった。生涯独身で暮らす覚悟もあったようだ。しかし僕を知って「最適解かも」と思ってくれたらしい。

僕はというと、結婚というものが自分の人生に起こる出来事、生活形態としてリアリティを感じない。したいとかしたくないとか以前に、まともに考えたことがない。特に、結婚によって何かを背負うなんていうことは論外だった。自分に何かを求められるのは重荷でしかなかった。人間は生まれてから死ぬまで独りだと思っており、いつ死ぬかはタイミング次第だと思っている。

そんな自分のどこが結婚相手として最適なのか。一般的なことを言うと、まず僕は経済力がなく、定職もなく、年齢はそこそこ行っており、何か特別に秀でた部分があるわけではない。甲斐性がなく、結婚対象としてとても候補に挙がるようなスペックではない。そのような僕が彼女にとって「結婚相手に向いている」と思われた部分は以下のようなところだった。

  • 相手を大事にする
  • ストレスがない
  • 無欲

細かいことはもっとあるかもしれないが、大まかな部分でいうとこれぐらい。これらの要素が全て欠かせない、特筆すべき要素だったようだ。

続きを読む

「女好き」と呼ばれて

少し前に「川添くん女好きやしな」と言われたことがあった。女好き?この俺が?数えるぐらいしか彼女いたことがなく、5年とかいなくても平気で、店にも行かないこの俺が、女好きですと?耳を疑った。確かに僕はストレートではあるが、女好きという呼称はいささか過剰ではないだろうか。女好きと言うからにはプレイボーイのイメージが思い浮かぶではないか。そんな印象から僕は程遠いと思うんだけど、彼女からはそう見えていたのだろうか。それはないだろう。

彼女は何をもって、僕を女好きなどと呼んだのか。そう、彼女、僕をそう呼んだその人も女性だ。少し思い当たるフシがあるのは、僕が女の人のほうが話しやすいと思っているため、女の人と接点を持つことが多いから、それで僕を女好きなどと呼んでいるのではないだろうか。それにしても「女好き」という言葉の響きには、必ずと言っていいほど女遊びの意味合いが含まれている。女の人と話したり遊んでいることはあってもそんなことはしていないから、女好きという呼び方は誇張だろう。誤解の元だから訂正してほしい。

ついでに、何故女の人のほうが話しやすいのか。それは多分男女の違いという前提があるからだ。男同士、女同士だと同じものとして見がちだが、男女となると、相手のことがわからない前提が生まれる。男とはこういうもの、女とはこういうものという知識があったところで、男女の間には大きな理解の溝があると勝手に思っている。それが僕にとってはかえって好都合となる。常識、考え方に大きな違いがあったって男女なんだから当たり前と誤魔化せる。向こうは「こんな男性もいるんだ」と受け入れてくれやすい。違いを気にせず気兼ねなく話せる。これが同性となるとそうはいかない。

あと男性同士だと、けっこう言葉に詰まることが多い。これ以上何をはなしていいかわからなくなる。同性と話したほうが楽しくて盛り上がるのは、たいてい趣味か仕事の話。何か特定の物事について話すのは同性の方が話が弾む。同性の方が嗜好が近く、視点も近いから共通点が見つけやすいからだろうか。ということは、共通点のある特定の物事について話すなら同性が適しているらしい。

それでは異性と話すのに適している話題は。それは相手のことを聞いたり、自分のことを話したりする場合だ。男性を相手にして自分の話などされても「オメーのことなんか知ったこっちゃねーよ」と思ってしまうだろう。それが女性であれば真剣に話を聞こうと思ってしまう。そういうところが女好きなのだろうか。いや、俺男性の自分語りも全然聞いてるよ。聞いてるし、女性の自分語りが「退屈だなー」と思うことだっていくらでもある。やっぱり女好きという呼称は言いがかりだ。

女の人に声をかけることが多いか。どうだろう、やはり女の人のほうが気軽に声はかけやすい。なんでだ。多分何も考えなくていいからだ。男性と話すときには特定の何かについて話さないといけないという前提ができあがっているからかもしれない。女の人にはただなんとなく声をかければいいだけのような気がする。そして反応が嬉しい。これは女性同士でも同じではないだろうか。男性に反応されても嬉しくない。

声を掛けるといっても口説くとかナンパするって意味ではない。ただ一言発するだけ。思い返せば、やはり女の人にばかり積極的に関わりに行ってるような気がしてきた。これは果たして女好きと呼ばれても仕方がないのだろうか。常に相手を探し回っているとかそういうことはで全くないんだけどな。でも女好きも案外そんなもんなのかもしれない。

「反りが合わない」という感覚

最近noteを始めた。他の人のノートも見てはいるが、なかなか読みたいようなものが見つからない。テーマを絞って探しているはずなのに、出てくるのは「なんかちょっと違うんだよなあ」というものばかり。同じキーワードで繋がっていても明らかに自分の感覚と、その他がズレている。ぶっちゃけ反りが合わない。全然興味湧かないし、なんでそんなどうでもいいことにフォーカスしてんの?って問いたくなるが、どうやら大多数に求められているらしい。パブリックに活動するなら大多数が大事。つまり自分は顧客対象外なのだ。キーワードで繋がるなんて当てにならない。分野で絞り、言葉で区切ったってめぼしいものは見当たらない。埋もれているのだろう。マジョリティに望まれるキーワードと項目に隠れてしまっている。フォローしたい人を見つけられない。Twitterも同じ。

でもこの「反りが合わない」という感覚は大事だと思う。「大多数に望まれている」という理由で摂取するのではなく、そこにある違和感に素直になる。違和感とはつまり、自分自身の感覚にほかならない。自分の感覚、「反りが合わない」と思うにも理由がある。そこを明確にしていく過程が大切だ。自分が何を好み、何を嫌い、何に違和感を覚え、何を求めるのか、その理由は、背景は、探りに探って嗜好形態がはっきりする。ぼんやりとした感覚に過ぎなかった自分の個性がクリアになり、形になる。

自分がない、自分がわからない、周りに流されるといった人たちに足りないのは自己主張でも強い意志でもなく、違和感に向き合うことだ。自分に向き合い、自分自身を知る作業が圧倒的に足りていないから、自分を形作る主軸が見えておらず、あっちこっちふらふらとブレてしまい、自分の本心がなんだかわからないまま体にストレスだけを溜めてしまう。就職活動でよく自己分析なんてものをやったりするが、あーいうのではない。あんな人に求められる基準を前提とした分析なんて、自分を知るためには何の役にも立たない。もっと単純な違和感に向き合うことだ。しかしもしかすると違和感に気づかなかったり、押し殺すことが習慣になっている人もいるかもしれない。中には違和感を持たない人だっているだろう。

「大多数に望まれている」から、それが民主主義多数決大正義だと思って自分の意見、趣味、嗜好に目をつむってしまう人がいるのは何故だろうか。それは少数派、マイノリティであることが異質とみなされ、社会悪として迫害されるからだろう。自分の意見を表明すると攻撃に遭う。周囲に迎合しないと生きていけない。魔女狩りである。でも別に自分の好みを知ったって、表立ってアピールしなければ迫害されることもないと思うんだけど、ただ明らかにするだけではダメなんだろうか。一度気づいてしまうとそういうわけにはいかないんだろうか。それよりも単に、自分自身の個性なんかより他者との関係性や協調性を重視しているというだけの話だろうか。どこかしら、多かれ少なかれ違和感を持つことはあると思うが、それが他者に対する否定だと勘違いして感情に蓋をしてしまうこともあるかもしれない。そんなことはしなくていいのに。認めることと認めないことは、分けれ考えればいい。

その昔、Internet Explorerというブラウザが世界で一番使われているからといって、最も優れたウェブブラウザだと思い込んでいる人がいた。IEが世界で最も使われていたのはWindowsの標準ブラウザだったからという理由だけで、最初から最後まで評判はクソだった。事実クソだった。しかし「世界一=良い」と思っている人は、IEが世界最高のブラウザだと盲目的に信じていた。他のブラウザを使ったこともないのだろう。判断力もないかもしれない。多くの人にとってはブラウザの質なんてどうでもいいことだけど、そんな恥ずかしい論争が2000年代初頭にあった。

読みたいものがないから書くというのは一つの原動力なのだろう。