冬日記

すっかり冬です

12月なんだからそりゃそうだろう、というところですが、外を歩いていれば葉も落ちて、この秋から冬に変わる日本を体験するのは2013年以来、実に3年ぶりとなる。オーストラリアの冬は6月から8月頃だったが、僕がいた頃はあんなの冬ではなく、毎日雨ばっかり降って暑い日は気温が18℃まで上がっていた。トロントの冬は10月から既に始まっており、4℃とかいう最低気温を叩き出していた。今の季節はどれぐらいだろう、今年はそんなに寒くないらしい。

トロントの25日間の天気 - カナダのオンタリオのAccuWeather天気予報 (JA)

冬寒い寒いと思っていたが、夜外を歩いてみるとそうでもない。トロントの冬で印象的だったのは、常に肩の筋肉がこわばっていたこと。完全防寒をしていても吹雪いていたりして、髪が凍ったり空気を吸い込んだ肺が痛かったり、余裕がなかった。トロントの春はだいたい0℃が基準で、気温が0℃を上回れば外を歩いても肩をこわばらせることがなかった。そういった筋肉の弛緩から春の訪れを感じていた。こっちでは防寒さえしていれば、肩は緩みっぱなしで余裕を感じる。ただ部屋の中は寒い。

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最近読んだネット

"さみしさ"と"つながり"の関係

さみしさは“人とのつながり”では満たされない/小池龍之介さんインタビュー(前編) | 福田フクスケ - SOLO

これについては日記に書いた孤独うんぬんと似たようなテーマだったから気になった。内容は全然違った。お坊さんがどんな話をするのかと思えばほとんど脳科学の話で、ドーパミンとかオキシトシンとか出てくる。坊さんなのにそんなアプローチするのか。この媒体は結婚とか独身をテーマにしているから、どんな形で締めるのかと思ったら、恋愛も結婚も麻薬中毒と一緒で適切な取り扱いが大事だよ、と。後編に続くということで期待。

制度のための結婚?

「恋愛結婚が当たり前」だった時代の終焉と、これから - シロクマの屑籠

またもや結婚、恋愛がらみ。結婚・恋愛について注目しているつもりはないんだけど、こういった世の中のルールの転換であったり、仕組みの移り変わりについては気になって眺めている。この話はテレビドラマに端を発した恋愛結婚の終焉論。いわく、お見合い結婚が主流の時代から恋愛至上主義の時代になったのが昭和だった。その恋愛結婚の時代がそろそろ終わりつつあるという話。

母方の祖父母は見合い結婚だったが、父方はそうでもなかったらしい。僕が読んだ夏目漱石の小説なんかでも、まだ見合い、恋愛の葛藤が描かれていたりする。自分の両親は見合いではないものの、知人の紹介だから見合いのようなものだ。現代では見合い結婚なんてあまり聞かない。

結婚した知り合いなんかでも見合い結婚という話は聞いたことがない。恋愛至上主義の時代に入ってから、見合い結婚はなかば負け組のように扱われてきたフシもあり、見合いという制度自体がほとんど廃れた。そして現代に入り、恋愛に対する疲れのようなものが見え始め、恋愛結婚も廃れようとしている、って本当か?

見合い、恋愛が終わり、じゃあ一体何のために結婚するのかと思えば、どうやら形式らしい。結婚という形式のための結婚。現代社会はいまだに婚姻世帯を基準にした制度設計が生きているため、結婚したほうが法律上、制度上、慣習上なにかと有利である。婚姻制度は生き残るための有利な仕組みとして機能している。だからそういった制度に合わせ、生き残るための結婚が恋愛結婚の次に来ている結婚である。つまり形式のための結婚。僕はドラマを見ていないが、おそらくそういうことだろう。

え、制度変えたほうがよくない?って思った。制度のために本来必要のない、望まない生き方をするなんて明らかに変だろって。まあ現役世代が多数派の中で制度も慣習もそんな簡単に変えられるものではなく、制度のための結婚というのは過渡期にある今を生き残るための、やむを得ない手段ってところだろう。

少し前にこういうのもあった。

結婚をする人の気持ちがわからない。

この考え自体はありきたりなものなんだけど、事実婚が発展している国もあったりするなかで現行の婚姻制度と時代の流れとのひずみみたいなのがもはや無視できない状態になっているのが現代ではないかと感じる。婚姻制度やそれに伴う優遇措置って見直されている部分あるのかな。制度のための結婚なんてわけのわからないことをしないと生きていけない状況はどう考えても変だ。早く手をつけた方が世の中は健全な方向に動くんじゃないかな。

恋愛の束縛から解放されたなら、次は早く結婚の束縛から解放しようよ。制度を変えると言っても見合いや恋愛、結婚にしてもやりたい人は今まで通りやればいい。制度からの解放というのは同性婚のように多様化の流れの一つだと言える。

最近読んだ本

コンピュータはなぜ動くのか

タイトルからハードのことを書いているのかと思ったら、ソフトウェアからプログラミング、アルゴリズム、データベースやネットワークに至るまで幅広く触れていた。マザーボードがどうとかOSがどうっていう話は全然なかった。そういう構造的な話よりも、概念的な仕組みを中心に触れている。基本は基本なんだろうけど、僕のような数学アレルギーの人間にとってはまあとにかく難しい。パソコンは計算機なんだよという原点に帰った話になるため、道具としてのパソコンにしか興味がなければなかなかついていけない。

計算機としてのパソコンのことはなんとなく掴めた気がする。コンピュータができること、得意なこと、苦手なこと、そういったコンピュータの特徴、都合を踏まえればコンピュータをうまく活用できる。また、専門家じゃない人がコンピュータを使うためには、ユーザーとコンピュータの橋渡しになる設計が重要になってくる。近年ではコンピュータから一般ユーザーへ歩み寄る開発が進み、コンピュータがユーザーの好みを計算して情報を提供したり、ユーザーの声に反応して情報を提示するようになった。しかしコンピュータそのものの基本原理は変わっておらず、もちろん人間がコンピュータに近づいたということもない。コンピュータ技術とは、その全てが人間とコンピュータをいかに橋渡しするかの技術と言える。技術者とはユーザーとコンピュータの仲介役であり、技術発展の歴史とは双方をいかにスムーズに仲介するかという技術の、発展の歴史と言えるんじゃないか。

日本の思想

これ、読んだんだけど感想が書けない。内容の把握が難しいということもあるし、なんて書いていいのかわからない。この本は4章から成り立っており、1章2章は主に学会というか、アカデミックな話が中心になっている。3章4章は講演を文字に起こしたもので、より広く一般的なわかりやすい話になっている。この本について何か述べるとしたら、3章4章から読んでそちらを中心に触れていくことが簡単だろう。

1章2章については以前少しだけ触れたが、戦前戦後を中心とした日本の思想の移り変わり、思想史について書いてある。2章はそこに文学史を加えている。3章は学問において、基盤からの系統立った構造が日本において貧弱であることから来る、横の意思疎通がうまくいかない問題。4章は「である」ことと「する」ことというタイトルで、国語の教科書で読んだ人も多いだろう。建前と行動について書かれている。この本についてはもう一度読んでまたじっくり感想を書きたい。

次に何を読むか

手元にある本はあらかた読み終わって、次に何を読もうか検討しているところ。前に読んだものをさらっと読み返すか、ずっとほったらかしているものに手を付けるか。というわけで、ほしいものリストから送られてくるのも待ってます。

今まで送られてきた本の感想

ほしいものリスト