昭和のダメ男

うちの父方の祖父が、典型的な昭和のダメ男だった。父の家庭は祖母の生計で成り立っていた。祖父は酒と麻雀、競馬、ギャンブル狂いだった。賭け事はかなり強い。将棋も強い。仕事はしていたのかわからない。かなり年がいってからは個人タクシーをやっていた。その前は何をしていたのだろう。

祖父はプロ野球の選手を目指していたそうだ。祖父いわく、身長が足りなくて入団できなかった。父も叔父もその話を疑っていたが、一度球場に連れて行ってもらったとき、後輩だというプロ野球選手に会わせてもらう機会があって、初めて祖父を尊敬したそうな。祖父は若い頃、野球一筋で生きてきた。そして夢破れ、落ちぶれた。理由は知らないが徴兵もされなかった。戦後の動乱の中を祖母に養われ、昭和のダメ男として生きた。

こういった話は珍しくない。特に昭和初期のドラマや小説では日常風景としてダメ男の話が出てくる。時代が時代だから、彼らは揃いも揃って既婚者だ。妻が夫を養っている。妻が稼いだお金を酒や博打に使うヒモのような暮らし。他にもそういった例を聞いたことがあったなーと思ったら、ライオンの生態だった。メスが中心に狩りをするとか。他にもあった。東南アジアの家庭だ。夫は昼間からブラブラしており、妻が家計を支える。もしかするとそのような家庭風景は、特別歪んだ関係性ではなく、原始的な日常風景の一つの形なのかもしれない。

現代日本にもそういった家庭は存在するだろうが、あまり受け入れられない。現代であれば、そもそも婚姻が自由だ。離婚だってできる。お互いが望まない限り、そういう夫婦関係は成り立たない。そして望んでそういう関係を続けるのは稀だろう。祖母だって現代に生まれていれば離婚していたはずだ。

僕の父だって、現代に生まれていれば結婚などしていないと言っていた。自由気ままに好き勝手生きていたと。父は祖父のような放蕩生活を送っていたわけではないが、返還前の沖縄にいたり、地上げ屋をしていたり、古物商をしていたりとなかなか怪しい。ギャンブル好きと勝負強さは祖父から引き継いでいる。

さて、僕自身はというと、酒は弱い、ギャンブルも弱い、運動神経も悪い、あまり父方の素養を受け継いでいないかのように思う。しかし、仕事も収入も安定しないという点では同じだ。働きたくない。欲もない。お金もいらない。こういう因子は競争に向いていない。もう残さなくていい。幸いなことに、現代では生涯未婚率も5人に一人を叩き出しており、結婚を除外する生き方も一般的になってきた。

話はそれたが、この話題で何を言いたかったかというと、現代において昭和のダメ男みたいな生態は、かなり蔑んで見られるだろう。当時もそうだったかもしれないが、それでも当時はわりと普通にいたんじゃないか。つまり昭和のダメ男みたいな人は当たり前に存在するってことです。珍しくない。

自己評価を重視しがち

「人からこう言われてるよ」みたいなことをよく聞く。僕の場合だと「気味悪がられている」パターンが多い。ここ2ヶ月の間で5、6人から「ヤバイ人だと思ってました」「めっちゃ怖い人だと思ってました」と自供された。自分がなんで怖がられるのか理解できなくて、おもしろがっていろいろ聞いた。誰とも目を合わせないとか、口を開かないとか、目つきが悪いのが原因だとか。眉間にシワを寄せる癖がある。これは意識しないと直らん。でも意識して直す程のことでもないなーと思い、ずっとそのままだった。

果たして人は、人からの評価を気にするのだろうか。全く気にしないと言えば嘘になる。「人からこう言われてるよ」という話はおもしろい。別の人の視点で自分がどう見えているのかという話は新鮮に聞こえる。しかし、その程度だ。おもしろがる程度。それを深刻に考えたり参考にしたりはしない。他人の意見はあくまで他人の意見であり、あまり意識しない。人からどう見られているかなんて、基本的にはどうでもいい。好かれていようが嫌われていようが、怖がられていようが気味悪がられていようが、自分には関係ないと思ってしまう。

それでは何を重視するかというと、自己評価になる。他人の評価よりも、自分がどう思うか。自分で納得できるか。自分で自分をジャッジする。それ以外はあまり、なんとも思えない。他者評価が重要な場合はたくさんある。仕事だったり、他者との関係性で成り立っている事柄は、自己評価よりも他者評価が重要になる。あくまで関係性の上では、という話だけど。つまり、他者との関係性をどれほど重視するのかが、他者評価を重視する基準となる。

他者からの評価が上がれば、他者との関係性を改善できる。一方、他者からの評価を気にせず、自己評価を気にすることに何か意味があるのか。自己評価とは何も良い評価ばかりではない。悪い評価も自己評価にあたる。だから、自己評価にこだわることで必ずしも自信が持てるわけではない。むしろ自己評価を徹底することで自信を失うことのほうが多いだろう。

自己評価を行うことの意味は、自分で自分に問いかけることではないだろうか。それで何が起こるか。自己問答を繰り返すことにより、自分の価値観や考え方、嗜好性がクリアになる。判断基準、軸が明らかになる。自分の軸がはっきりしてくると、他の意見に惑わされにくくなる。自己問答を繰り返す過程で、自分を知ることになる。そうなってくると、他者の意見はあくまで他者の意見でしかなくなる。そして「自分には関係ない」と思えてくる。

他者の意見に惑わされやすい人は、自己評価が足りないんじゃないだろうか。他者との関係性なんて、そんなに重要なのだろうか。だとしても、それはそれで切り分ければいいのではないかと思う。おそらく誰もが持っていると思う、他者と対峙するとき用の自己。そのままの自己、RAWなやつは、なかなか他者にぶつけられない。だから自分で処理すればいい。他者と対峙するにあたっては、他者と対峙するとき用の自分を磨き、ぶつければいいんじゃないだろうか。それはある意味、自分ではない。そんなものは、褒められたりけなされたところで何も響かない。

ただ現実として、そういう作られた作品のおもしろさは限定的であり、エンタテインメント性に特化している。自分が本当に見たい他者は、やはり受け入れがたいRAWなものだったりする。

自分から話しかける

自分から話しかけることが多い。話したことがない人に対して、一度自分から話しかけると、打ち解けるというほどではないにしても、それまでよそよそしかった人もまた向こうから話しかけてきたり、気軽に会話が進むようになる。相手と仲良くなりたいとか、何か特別に話がしたいとかいうわけでもなく、ただなんとなく「声かけたほうがいいんだろうな」と思ったら話しかける。話しかけないほうが不自然だと思って。たまに興味を持っているとか仲良くなりたいとか誤解されることもある。全然そんなことはない。興味を持つのはその後、話の中身に入ってから。

意外とやらない人が多いように感じるのは、多くの人が話しかける相手を選んでいるからだろう。僕自身はほとんど話しかけられない。選ばれない。でもおそらく、僕だって無意識に相手を選んでいる。いわゆるコミュニケーション強者は本当に誰に対しても話しかけている。いつでも、毎回。僕はそれができない。気分で話しかけたり、全然応じなかったり、そのときどきで落差が激しい。僕が基本的に話しかけられず、話しかける側なのはこういう態度にムラがあるからだろう。本当によく色んな人から「話しかけづらい」と言われる。そりゃあそうか。

ということはやはり、僕にだって話しかけやすい相手がいるということになる。人から話しかけられやすい人は、話しかけやすい雰囲気を出しているのだろう。僕自身も話しかけやすい人に対して声をかけているのだろうか。けっこうまばらに声をかけている気がする。自分が話しかけない対象といえば、話しかけなくてもいい相手になる。つまり、なかば義務感のようなもので話しかけているのか。声をかけたいわけじゃない。何を言うでもない。ずっと黙っていたっていい。けれど何も言わないのは不自然だなと思ったときに、相手が誰彼構わず声をかけている。

たまに、話しかけられるのを待ってる人がいるという話を聞く。その心理は全く理解できない。待つぐらいだったら自分から話しかければいいのに、なぜ、何を待つのだろう。待つぐらいだったら特に話す必要もないのではないか。待つ人生だったのだろうか。

観光地について

先日タクシーで移動していて、ドライバーから「このあたりは観光地なんですよ。お酒や和菓子だけでなくいろんな名産があって、見るところがあって、かつてはもっとたくさん観光客がきていたんですよ」と言われた。はあ、そうなのか、なるほどそういう見解もあるのかと思った。言われるまで気づかなかった。ここは実は観光地らしい。観光地とは、自ら紹介して誘致するものだったのだ。そしてこういう場所を観光地と呼ぶのだと。

僕はタクシードライバーではないから、他府県から来た人へ自分の故郷をそのように紹介することはない。しかし、紹介せずとも向こうが知っていた。言うまでもなく、地元は観光地だった。それが当たり前過ぎて「京都は観光地だ」などと言ったことはなかった。何が名産で、とか、どこに何があって、などと紹介することもない。むしろ来る人のほうが我々より知っていることのほうが多い。それらは観光客向けに紹介宣伝されているからか、多くの地元の人は知らなかったり、または当たり前だったり、もはや忌避していたりする。

京都人は観光客を風景の一部として見ている。そして観光地観光地と呼ばれるから、京都は観光地なんだなあと認識してきた。自ら喧伝せずとも地元は観光地であり、酒や和菓子で有名だった。だからこのあたりを観光地だと説くタクシードライバーに「出身はどちらで?」と聞かれて京都とは言えなかった。相手を嫌な気にさせるのではないかと思って。もう京都人ウザイ空気満載になってきたから話を逸らそう。

例えば、京都で意外と知られていないのは、優良企業がたくさんあることだったり、ラーメン激戦区だったりすることだ。任天堂以外にも京都の企業はある。しかし、そんなことを東京の人に言えば「へえ」と思われるだろう。優良企業がいっぱいあるって言われても、いやそりゃ確かにあるかもしれないけれど、東京とは比較にならないから…って。ラーメン激戦区の本場がどこか知らないが、福岡の人に「京都はラーメン激戦区なんです」なんて言ったところで「えっ…?」と思われるだろう。「はあ、そうなんですか」と返ってくればいいほうだ。だから京都の特徴として優良企業を挙げたり、ラーメンを挙げたりするのはなかなか無理がある。京都は所詮、観光地でしかないんだと。

ブログのタイトルにまで地元名を入れておいて、郷土愛満載なのかと思いきや、地元について触れることはあまり多くない。

#私のふるさと

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眠い

常に眠い。先日は例外的に2時台に寝たけれど、ここ一ヶ月は眠すぎて基本的に11時頃には就寝している。普段あんなにも寝れなくて困っていたのが嘘のようだ。理由としてはまず、朝早いというのがある。5時台に目覚め、6時台から活動。それ以前はだいたい10時頃まで寝ていた。睡眠時間はそれほど変化していないのかもしれない。ただし、会社員の頃やオーストラリアで農業に従事していた頃も朝は早かった。その頃も夜そんな簡単には寝付けなかった。だから、朝早いということだけが理由ではない。

次に、食事。ここ一ヶ月は一日三食用意され、規則的に食事をとっている。規則正しく健康的な生活を送っているということだろうか。それにしても眠い。午前中も午後もずっと眠い。食事はちょっと多すぎるぐらいで、一ヶ月で2kg太った。日々元気に活動している人たちはあまり睡眠を必要としていないのか、それともただ自分が眠すぎるだけなのか。この眠さはちょっと異常に感じる。夜2時に寝ようが11時に寝ようが等しく眠かった。

第三に、現在は週末しか酒を飲んでいない。これまでほぼ毎日飲酒生活を送っていた身としては、週に2回しか酒を飲まない生活というのがイレギュラーにあたる。その週末も、夜遅くまで飲んでいるわけではない。ここ数年朝まで飲むことはさすがになくなっていたとしても、2時3時まで飲むことはザラにあった。しかし現在は、10時には飲み終えて11時には寝ている。短すぎる。飲酒が減っているからといって日常生活が眠くなるなんてことはあるのか。関係ないだろうな。

夜は酒を飲まないと寝れなくて毎晩寝酒をしていたというのに、今のこの状態はいったいどういうことなのか。夜だけならまだしも、朝から一日中ずっと眠い。夜早く寝る生活を送っていると、一日の活動時間が著しく短くなった気がする。寝る時間が長いだけでなく、眠たい時間が長いことで、ただ眠いだけの時間をずっと過ごしているように感じる。本も読めなければ、映画も見れない。ラジオも聞いている間に寝てしまう。肉体の活動が終息を迎えようとしているのだろうか。

生活日誌

日常生活に制約があって、なんでもかんでも自由に書けないのが現実だ。不満というか、生活がだるいのは今に始まったことではなく、日記を書こうとすると毎日同じことしか書けないのが実際で、そろそろ爪切らんといかんなーと思う。今隣人のドアを閉める音がうるさすぎて、伝えても直らないから脳になんか異常があるんだなーと思ってあきらめている。こういうのは頭の良し悪しでもなく、彼を見ていると不憫でもあるから、軽く彼のことでも書こうか。

こういう人は今までにも何度か見てきた。声がでかく、「声でけーよ」と言ってもやはり直らない。直す必要があると思っているとか思っていないとかではなく、こいつの頭の中では「うるせえ」という言葉そのものが意味としてうまく接続していないと見える。言語のコマンドそのものが機能していない。なかなか生きるの大変だろうなー。それも自覚あるのかどうかわからない。もしかしたら本人は幸せかもしれない。

本人曰く、自分はストーカー気質だと言っていた。人からまともに相手されなくてそうなっているのかもしれない。一芸に秀でた人で、学力も高くいろいろな場で重宝される人のようだが、共同体では避けられがちだ。周りが彼をうまくフォローできなかったり扱えなかったりするからだろう。一言で言えばめんどくさい。話が長く一方的で、周りの反応を伺うという発想がない。生活において彼はノイズになりがちなので、周りの人はなるべく関わりたくないと思う。そのくせ本人は寂しいとか人恋しいとか言ってるからなかなか悲惨だ。

寂しいとか人恋しいってなんやねん。モテたいとかも言ってる。いわゆるチヤホヤされたい人なのだろう。そういう気持ちは全然理解できなくて、さらにはそういう感情と行動が矛盾していることも理解できない。筋道を立てて物事を考えられないのだろうか。不思議な事しかない。よく言う愛情の欠乏みたいなやつだろうか。事例としては確かにそういう人が多かったように思える。そうなってくると尚更負の連鎖だなあ。だって行動は明らかに他者の愛情を遠ざける方向に働いているから。

#思い出の家族旅行

日記を書こうにもテーマが全く思いつかず、久々にお題を利用してみようと思った。思い出の家族旅行。僕は自分の家族を持っていないから、幼少期の話になる。うちの母親は旅行が好きで、子供の頃はよく旅行に連れて行ってもらった。もっとも今となってはどこに行ったか全然覚えていない。

自分の記憶に残っているのは、小学校に入る前に行ったディズニーランド。このときに人生で初めて飛行機に乗った。その後こんなに何度も乗ることになるとは思っていなかった。当時からスターウォーズが好きで、スターツアーズに魅せられたのを覚えている。何年後かに同じ場所へ行ってみるとかなり陳腐な仕掛けだったが、幼少期の僕にはリアルなSF体験に感じられた。他に、スペースマウンテンがジェットコースターだと知らずに乗って、落ちそうになって泣いたことも覚えている。数年後は平気だった。マイケル・ジャクソンの3Dメガネをかける映画も怖かったが、数年後はやはり陳腐に見えた。ということは、僕は少なくともディズニーランドに2回行ってるのか。自分の記憶では幼少期に1回、大学生になってからシーに1回だと思っていたが、どうやら間にもう1回行っていたみたいだ。スプラッシュ・マウンテンの最前列に乗った記憶もある。ビッグサンダー・マウンテンにも何度か乗った。それらは2回目の記憶だ。1回目、すなわち小学校に入る前に行ったとき、スプラッシュ・マウンテンは建設中で、ビッグサンダー・マウンテンはいかにも怖そうで乗らなかった。

その他、家族旅行で覚えているのは断片的には海に行ったり、湖に行ったり、遊園地などいくつもあったが、沖縄に行ったのは長期で今までと全然違う場所だったこともあり、よく覚えている。初めて沖縄へ行ったのは小2ぐらいの頃だった。その後、やはり大学生の頃か高校生の頃にもう一度訪れている。初めて行ったとき、25年ぐらい前になるが、当時の沖縄はそこまでメジャーじゃなかった。沖縄と言ってもあまりピンとこない人が多かった。もっとも小2の同級生にはわからないだろうが。沖縄では本島と石垣島と竹富島を訪れた。離島はまさしくトロピカルアイランドで、植物、海の魚、森の動物など日本っぽくなかった。水牛の牛車に乗ったり、潜水艦に乗ったり、水辺で泳いでいると熱帯魚が群がってきたり、そういう体験をした。家の前に壁があり、屋根にシーサーがある風景は日本のそれとは思えなかった。当時から沖縄はリゾート地だったが、その後観光客が増え、開発が進み、僕らが行った頃の風景はもはや壊れているそうな。2回目に沖縄を訪れたときは秋だったか冬だったかで、海には行かなかった。本島の首里城やら、国際通りやらをぐるぐると回っていた。

#思い出の家族旅行

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2018年7月のふりかえり

ふりかえりも何も、気づいたら8月だった。夏を感じないまま夏が終わろうとしている。おととしの夏は関東で、去年の夏は地元にいたっけ。何をしていたか全然覚えていない。バイトしてたか。去年の7月を振り返ってみたら、香港旅行の日記を書いていた。

今は相変わらず東北にいる。7月は気持ちの余裕がなくて何もしなかった。更新もわずか7回。本は一冊も読んでおらず、見終わった映画もドラマも皆無。環境の変化に振り回されているなあ。生活している分には平気なようでも、そういうところに出ている。もっと気持ちの余裕があったなら、今までどおり本を読んだり映画を見ていたはず。環境の変化に煩わされて生活を営めてない。本を読んだり映画を見たりしていないと、自分の枠がどんどん狭まっていっているような気になる。

そして読みたい本ばかりどんどん増えていく。先日紹介されていたのが、まさに極限状態で生きる術みたいなやつ。

リアル探検家である角幡唯介が、他の探検家の事例もまじえつつ脱システムとしての冒険論を繰り広げている。いつ読めばいいのか一体。電子積読となる。

Netflixでも見たい番組が増えている。

邦題は「世界の"現実"旅行」だが原題はDARK TOURISTで、まさに自分が見たいようなやつ。コロンビアでナルコスツアーに参加したり、メキシコからアメリカへの密入国体験ツアーに参加したり、福島原発観光ツアーに参加したりとダークツーリズムを満喫している。

それとは全然関係なくインディージョーンズなんかを見たりしていた。インディージョーンズはレイダースがベストだと思います。

https://www.netflix.com/jp/title/60011649

寝過ぎだ。最近寝すぎ。12時以降起きれない。朝が早いからだろうか。疲れているからだろう。なんでこんなに疲れているのか。歳をとったからか。慣れないことをやっているからか。とにかくいつも眠くてしょうがない。今までもっと過酷な状況にいたため、今の環境はかなり恵まれている。しかし同時に窮屈であり、少しでも時間が空くとすぐ眠くなる。

現実感がない。現実感がないまま日々が過ぎていく。今は与えられたものを消費しているだけであり、自分のものではない生活をおくるのはいつ以来だろうか。去年の今頃の日記をめくっていると、マーク・ザッカーバーグのハーバードスピーチが出てきた。

ここでザッカーバーグは、壮大なプロジェクトの一部となることが自身の目的意識を高め、幸福感につながるというようなことを言っていた。だからハーバード卒業生は人を巻き込む壮大なプロジェクトを自ら立ち上げよと。自分で目的意識を持つだけでは不十分だと。人を巻き込むとか人と共有するとか、壮大のプロジェクトの一部に貢献することを実感するとか、そういう経験は自分には皆無だった。

それは僕自身が乗れない体質であり、賛同であったり、誰かと何かを一緒にやることに何の喜びも感じられないからだろう。常に違和感、義務感、そういうのばかり。だからこの目的意識と幸福感の話も、あまりよくわからない。おそらく本当に自分が所属意識であったり、貢献に寄与したいと思う対象があれば、実感することはできるのだと思う。現実は、自分が始めたいと思うこともなく、所属したいと思うプロジェクトもない。なんか違うんだよなっていう思いだけが常にあり、結局は一人で何もしないまま時間だけが過ぎていく。

最近読んだネット記事

こんばんは。漫然と日常を過ごしていたらジジイになってました。おはようございます。浦島太郎です。

トラベラーズノートの経過などを。

やっとリフィル一冊使い切ろうとしている。5月に買ったから2ヶ月とちょっと。このペースで使っていけば、6冊で1年というところか。ただ書く量はときどきでばらつくだろうから、この先どうなるかわからない。ストックを用意すると邪魔になるから、なるべく用意しないでおこうと思っていたけれど、切らしてしまったら元も子もない。

リフィルについては、1冊ずつ綴るのがベストに思えてきた。2冊以上になるとカバーからはみ出る。ボールペンを間に挟んでいたら尚更。ボールペンのインクはどれぐらい持つだろうか。替芯を5本用意しているから問題ないだろうとは思うけど、リフィルと同じく切らしてしまえば手帳を携帯している意味がなくなる。

「その日の気分ですることを決める」 有名ブロガーphaの生き方:DANRO(ダンロ):ひとりを楽しむメディア

取材ということで暗黒面にはあまり触れられていないいつものpha節。何の媒体だろうと思ったら「「ひとりを楽しむ」をコンセプトにしたウェブメディアです。」と書かれていた。一体どんな人が見るのか。こういう連載とかの購読者層ってやっぱりニワカとかナリキリとか入門者になるんだろうか。各人は別として、コンセプトがあまりにも浅く全然響かない。

DANRO(ダンロ):ひとりを楽しむメディア

これは、二十歳のわたしが大人になるための物語-村上春樹『三つの短い話』 | UNLEASH

文學界7月号に掲載された村上春樹の短編と行きずりセックス体験を照らし合わせた記事。若くて在り来たりで、踏み荒らされていない日記のような文章だった。うーん、小説読みたい。そう思わせるだけでこの文章は十分な役割を果たしている。

どうでもいいけどダブルクオーテーションを全角で””こう打ってるのが気になってしょうがない。“”こうやらないと気持ち悪い。収まりが悪い。半角だといずれも""だから気にならない。

スタンダードブックストア心斎橋:【EVENT】8/5(日)12:00『未知の国の歩き方』山西崇文(写真家)×加藤直徳(ATLANTIS編集長) - livedoor Blog(ブログ)

NEUTRAL、TRANSITの編集長をされていた加藤直徳さんが新しくATLANTISという雑誌を創刊するということでイベント告知をされています。ATLANTISについては最近までATLANTIS zineという形で活動されており、ついに雑誌化するようだ。ウェブページを見てみたら、TRANSITよりはNEUTRALっぽい。いずれにしても欲しい。

ATLANTIS|アトランティス

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対談=奥野克巳×高野秀行 「辺境」の知の運動はいま 『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

いつもの高野本、というわけではなく、ファンの間では読書家としても知られている高野さんのブックレビュー兼著者対談記事です。「ありがとう、ごめんなさい、そういう基本的な言葉が大切」みたいなことを言われると虫唾が走る僕にとってはタイトルからして良い。

世界各地の民族で、もともとの言語にありがとうやごめんなさいをもっている方が少数です。

「状況主義」のプナンの人たちに未来はなく、毎日が、今日を生きる、その繰り返しだと。今しかないから、発展も向上も求めない。向上する必要がないから、反省もしない。

ボルネオ島の西プナンという場所に住む民族のことが書かれた本らしい。プナンの人の生き方がめっちゃいい。

国家はあるけれど、そこから距離をおき、意識的に入ろうとしない。それは彼らのエートスと言えるのではないでしょうか。

もうかっけーとしか言いようがない。現代の価値観に絶対的に縛られている人は発狂するだろうな。

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アップル初代「iMac G3」風のiPhone用耐衝撃ケースが「シュピゲン」から発売 - ファッションプレス

初期iMac持ってなかったけどほしい。

ときどきふとスイッチが切れそうになる

平然と日常を過ごしている。朝起き、業務をこなし、食事をとって、人と会話をし、また就寝する。こういう当たり前の生活が、実は自分にとって非日常で、常にスイッチオンの状態を維持している。だから気が休まらない。気が狂っているように感じる。寒気がするし、嘔吐しそうだ。旅行中もそのように感じることがある。荷物を持って移動し、ドミトリーに泊まり、慣れない言葉をつかい、そんなときにもう疲れた、何もかもどうでもよくなってしまうと、部屋から一歩も出なくなったり、ベッドから起き上がれなくなる。スイッチがオフの状態になる。旅行中にそれがくるともったいないし、破滅しかねないから冷静に対処するようにしている。1日しっかりオフにして、なるべく早くオンにするようにしたり。

今もときどきふとスイッチが切れそうになる。何もかも放り出したくなる。全てが恐ろしく感じる。何事にも干渉されたくない。誰とも関わりたくない。暗い場所に閉じこもって目を覚ましたくない。自分はここで何やってるんだろう。休日がもっと欲しい。週休4日は欲しい。休みの日に何をするかというと、自主的に電源を切る。週2日ぐらいは外界を遮断して暮らしたい。残り2日を本読んだり映画を見たり外に出たりして自由に使いたい。実際にそういうことはできないから、なるべく意識しないようにしている。認識してしまうと嫌気に飲み込まれそうで、気づかないふりをしてだましだまし過ごしている。

平気なようで、平気でない。現状を管理できるかというと、できるような気もするし、気を抜けば流れ去ってしまいそうにも思う。多分まじめに受け止め過ぎなのだろう。取り組むのも、気を抜くのも、もっと気軽に行き来できたらいい。ただやはり絶対的に余暇の時間が足りない。僅かな時間で気を休める手段を確立したい。最近は睡眠時間が伸びてしまい、そこで解消できているのか、とにかく時間を使っている。もっと短時間で効果的に。今までどうやってたんだろうと思ったら、酒を飲んでいた。酒を断っているせいか!

冒険物語が好きだ

今に始まったことではないが、マンガ『スプリガン』を読み返していて「そうだよこれだよ俺が好きなやつは…」と改めて実感した。中でも御神苗優の父親である御神苗隆が冒険家として登場し、アメリカインディアンに混ざって儀式を守ったりしているのは理想的な姿だ。スプリガンを初めて読んだのは、確か映画化された頃だった。映画版は微妙だったが、パレンケの仮面、ノアの箱舟、水晶のドクロ、賢者の石、アンブロディアの種などオーパーツであったり考古学の話がたくさん出てくる本作は冒険心を燃えたぎらせる。

内容は世界中に散らばる超古代文明の遺跡やオーパーツを発掘し管理するアーカムという会社の物語。そこでスプリガンとして働く高校生の御神苗優が主人公。少年サンデーで連載していたから、オリハルコンを練り込んだ人工筋肉のアーマードマッスルスーツや獣人化するライカンスロープといった少年マンガ要素を交えつつ、軍事や歴史の話が繰り広げられ、少年がちょっと背伸びできる構成になっている。

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冒険物語と言えば、みんな大好き『マスターキートン』が外せない。大人向けのスプリガンと言えるんじゃないだろうか。主人公、平賀キートン太一は考古学者として身を立てるべく大学の非常勤講師をやりながら、副業のロイズ保険組合調査員として世界各地を飛び回る。考古学の話ばかりではなく、探偵のような話や現代史の内容もたくさん出てくる。まさに歴史ヲタのためのマンガと言えるんじゃないだろうか。こんなふうに世界を飛び回りたいと誰もが思ったことだろう。

他に冒険物語として思いつくのが、リアル辺境作家の高野秀行、共通しているのは未知や神秘を追い求めているところだろう。こちらはノンフィクション。

映画はインディージョーンズなどが典型的だが、ちょっとファンタジー要素が強すぎるようにも思うし、いつもオチがあまり好きじゃない。他に未知や神秘を探求する冒険物語があったら教えてください。僕が旅行に惹かれたり、RPGを楽しく感じるのは同じ理由からだと思う。

足の爪伸びた

昨日作業療法士の人に理学療法士と何が違うのか聞いたら、見る部分が違うと言われた。大まかに見るか、細かく見るか、でも大体同じだそうだ。そして右肩が巻き込んでいるとか、左肩が下がっているとか、骨盤の歪みや筋肉のアンバランスを一瞬で見抜かれた。左脚に比べ右脚が細いとか。僕の利き足は左で、利き手も左だったが幼い頃に右に矯正した。効き目も左。O脚の原因は脚の内側の筋肉が弱っているからで、内ももを鍛えれば治るとか。あと、ランニング足袋を履いたときに右のつま先だけ地面にぶつける問題は、足の指を持ち上げる筋肉が十分に働いていないからだとか。実にプロフェッショナルな視点でいろいろ指摘をいただき、感服した。彼女はなぜこれを勉強しようと、この道に進もうと思ったのだろう。リハビリが主な仕事だと言っていてたが、トレーナーなどいろんな方向に応用できる。そして筋肉と肉体の動きが美しかった。肉体について描写したり、体を使うにあたって筋肉や骨格の知識があると役に立つことを実感した。それはそうと指導を受けてストレッチをしている最中ずっと足の爪が長いことが気になっていたから足の爪を切ろう。

トラベラーズノートのページがなくなりそうだと思ったら、リフィルを持ってきていないことに気づいた。買うのか、わざわざ、Amazonとかで?でもそうしないと使いもんにならない。店で買うとしたらダイソーか、無印、もしくはセブンイレブンだけど、いずれも近くにはない。やっぱ純正を買うか。

おとつい土曜日、久しぶりにビールを飲んだ。ここ数年、日本に帰ってきてからの飲酒はけっこうな確率で記憶をなくす。土曜日も同じだった。全然覚えていない。自分はいつものように写真ばかり撮っていて、帰ってから現像していたら見覚えのない写真ばかりだった。後日飲む場にいた人と話したら、どうやらいろいろ喋っていたみたいだったが全く覚えてない。自分の知らないところで、知らない人と会話をしている自分を認識するのにも、もう慣れてきた。

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ベトナム戦争の記録、ラジオ、タイムマネジメント

日記です。特に書くことないんだけど、今東北にいます。水害は、地元で川の増水画像が延々アップロードされていた程度で被害という被害はなかったみたい。あった場所はお気の毒にとしか言えない。大阪の地震被害も含め、早く元に戻ればいいなーと思います。今は規則正しい生活を送り、酒も週に一回しか飲んでいません。ネットもあまり見ておらず、外界で起こっている出来事を追えていない。かと言って私生活が進んでいるのかというとそんなこともなく、ただ漫然と日々を過ごしている。エンタメさえ消費しておらず、映画は見ていないし本も読んでいない。強いて言えばベトナム戦争のドキュメンタリーをやや見ているぐらいか。だからまあ、やっぱり書くことないなあに尽きる。

  • 「ベトナム戦争の記録」を見ている
  • ラジオの時間がほしい
  • もっと寝たい
  • タイムマネジメント?
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Netflixに追加された作品で見たいやつ

気のせいか、最近やたらと番組が追加されている気がする。特に近年見逃した映画がNetflixで見れるようになるのはありがたい。まだ見てないやつから見たやつまで紹介していこう。

  • サウルの息子
  • 夜明け告げるルーのうた
  • ダンケルク
  • 聲の形
  • バキ 死刑囚編
  • クィア・アイ シーズン2
  • クリス・ホンドロス: それでも最前線に立つ
  • ベトナム戦争の記録
  • シティ・オブ・ゴッド: 10年後
  • クッキング・ハイ
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2018年6月のふりかえり

月間まとめです。ほったらかしていたら3日になってしまった。6月の更新は11回という、4月、5月に引き続き減少傾向にあり、しかも写真回1回を含む。6月は何してたんだろーっていうと、4月同様2週間ほど忙しかった。忙しいと更新しなくなるなんて典型的ですね。東京にいたんで、旧友とたくさん会っていた。オーストラリアで知り合った人、京都で知り合った人、小中の同級生、大学のゼミ生などなど。あとは買い物をたくさんしていた。

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