スーツを買った

少し前にスーツを買う機会があった。スーツを買うのはいつぶりか。最後に買ったのは、おそらく2010年かそれぐらい。だいたい10年ぶりに買うことになる。そうやすやすとポンポン買うものではないが、それにしても10年となると久しぶりだ。スーツ自体は、実は買わなくても何着か持っている。しかし普段着る機会がないと、着やすい一着しか袖を通さない。それも会社員を辞めてからは、数回しか袖を通すことがなかった。着ないスーツはただ持っているだけ。捨てられないで残っている。

「スーツ着るときはこれ」と決めていた一着が、かなり傷んでいた。特段いいものではないから、仕立て直すほどのことでもない。10年も経てばサイズも変わっているだろう。この機会に新調することにした。どんな機会にも着ていけるような、黒の3シーズンものにした。値段にして5万円ほど。服としては安くないが、スーツとしてはかなり安い部類に入る。高いスーツを買ったところで、今後それが映えるような場に出向くと思えない。

会社員の頃は、毎日スーツを着ていた。だからたまにスーツを着ても、なんとなく馴染む。僕はスーツが嫌いだったけれど、5年以上の間、毎日スーツで過ごしていたから着慣れていると思う。これが、意外とよく分かる。普段会わない友人と結婚式などで会ったとき、日常的にスーツを着ているのかそうでないか、スーツを着慣れているかどうか、見ただけですぐわかる。会社員の人間は、結婚式のような場にいても、いかにも会社員らしいスーツの着方をしている。スーツを着慣れていない人間は、衣装を着せられている感じがある。着物などが、着慣れている人と着慣れていない人ですぐに見分けがつくのと同じ。

僕はスーツが好きではないから、会社員の頃はずっとスーツを着なくていい仕事がうらやましかった。同業者でもスーツを着ない会社があって、男性でもオフィスカジュアルだったり、Tシャツの人と取引があったり、付き合いがあった。なぜ自分の会社は頑なにスーツを着続けるのだろう?と疑問に思っていたが、単にそれが慣習であったり、マジョリティだからだろう。何も考えずにただスーツを着続けるほうが楽だからだ。

夏のスーツは暑すぎて、特に嫌だった。僕が入社した当初は、夏でもネクタイを締めてジャケットを羽織るのが当たり前だった。それが、小泉首相が急にクールビズとか言い出して、夏だけジャケットもネクタイもなくなった。導入の年はすごく違和感あったが、今はもう当たり前過ぎてクールビズなんていう言葉自体なくなっているんじゃないかな。今までは夏でも律儀にジャケットを羽織ってネクタイを締めることがマナーとされていたのに、お上の一言でこんな簡単に慣習がなくなってしまうなんて、その程度の慣習・マナー・ルールに一体どれほどの意味があるのか、と思ってしまった。それを必死に守って、守らないものを糾弾していた人たちはいったい何だったのか。

世界一の企業であるAppleの、故スティーブ・ジョブズがスーツを着ていたのは若い頃しか知らない。マーク・ザッカーバーグも当初は短パンにサンダル姿だった。今はスーツを着るようになって残念だ。スーツなんか着なくていいのに、と思う。好きで着ているならいいんだけど。

サラリーマンを辞めてから7年経つ。辞めて以降は、夏はタンクトップに短パン、冬はパーカー姿だった。ずっとそんな、貧乏学生か浮浪者のような格好で過ごしている。ただの薄汚いおっさんだが、服に凝る理由もなく楽だからそんな格好をしている。僕はそれでいいと思っている。着たい格好でいればいい。ただ、そうもいかないときがあって、スーツも一応持っておかないといけない。

革靴は、結婚したときにタキシードと合わせるために買った。その一足のみ。サラリーマンのときに履いていたものは同様に、クタクタになっていたため捨てた。結婚パーティーの際、タキシードは借りたんだけど、革靴も一緒に借りるなら1万円かかると言われた。借りるだけで1万円かかるなら、買ったほうがいいと思って3万円ほどの革靴を買った。これも靴としては決して安くないけれど、革靴なら安い方。Berwickというところのやつにした。

革靴も、会社員になったばかりの頃は履き慣れなくて、足のそこら中に豆や靴ずれを作っていた。1年ぐらい履き続けて、そうならない足になった。それにしても、革靴はこんなに硬く、痛くて履き心地も悪いのに、なんで現代にも淘汰されずに残っているのだろうと不思議だった。スニーカーのほうが楽じゃないか。履きやすい。革靴文化は終わらせていいと思う。履きたい人は履けばいいんだけど。

サラリーマンを辞めて以降はずっと、夏はサンダル、それ以外はスニーカー。一番履きやすいスニーカーはどれだろうと模索している。今履いているジャックパーセルは普通。VANSは履きやすかったが、雨が降るとすぐ浸水してしまう。スーパースターは割れる。エアフォースワンはバッシュだから重い。オールスターは底が薄すぎ。迷っていることが中学生のようだ。

良いスニーカーがあったら教えてください。雨に濡れても浸水しすぎなくて、クッション性もあって、軽く履きやすいもの。好みの範疇になってくるから、人の意見はそんなに当てにならず採用しないかもしれません。PATRICKはまあまあよし。サンダルはTevaが快適すぎて十分。

猿岩石日記を読んだ

深夜特急をはじめ、いくつかの旅行記を読んできた。しかしなぜか、猿岩石日記はこれまでに通らなかった。理由の一つとして、あまり見かけなかったというのがある。猿岩石日記は250万部売れたベストセラーであるにもかかわらず、今ブックオフなどで売られている姿をほとんど見かけることがない。それこそ僕が中学生、高校生の頃には必ずあったような気がする。しかし当時は旅行本なんて読まなかった。

猿岩石日記は「ブックオフ大学ぶらぶら学部」でその名前を見かけ、そういえば読んでいないなーと思いメルカリで購入するに至った。まちなかの本屋、ブックオフには並んでいないけれど、メルカリやブックオフオンラインには在庫があり、購入することができる。Amazon等でも中古なら手に入る。1996年だから、25年近く前の本か。もちろん絶版。

  • 猿岩石って誰?
  • ユーラシア大陸横断ヒッチハイク
  • 猿岩石日記
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コロナ禍に入って半年経ちました

8月が終わり、3,4,5,6,7,8で6ヶ月、コロナ禍に入ってから半年が経った。コロナ禍は第二波の感染拡大もあり、累計感染者数は2457万人、最近では毎日25万人近くの人に感染が広がっている。累計死者数は83万人を数えている。

日本だけを見ても、現在の状況は緊急事態宣言が出ていた頃より、マスクが品切れになっていた頃より、トイレットペーパーがなくなった頃よりも悪い。あの頃は街に人が全然いなかった。バスも電車もガラガラだった。みんな家から出なかった。しかし今はもう街に人がたくさんいる。バスも電車も以前と変わらない様子で、外国人観光客だけが姿を消した。飲食店にも人がたくさんいる。マスクをしなくなった人もたくさんいる。しかし、感染者数は3月4月より今のほうが多い。

僕自身も仕事を再開した。感染症対策も拡がり、アルコール消毒やマスク、換気を徹底して、同時に接触する人数が多くならないような形で、営業を再開している。ドイツやイギリスのように政府が保障してくれない以上、死の危険が伴うとしても、日本国民は経済活動を再開せざるを得ない。

最近、知人の一人からこんな言葉を聞いた。

「コロナって本当に気をつけないといけないのかな?」

耳を疑った。この言葉には、(ダイジョブっしょ)という反語が含まれている。ああ、そういう意識の人いるんだな、と思った。でもこの人は、2月の段階で人一倍コロナに怯えていた。隣で少し咳をするだけで、全身をビクつかせていた。そして3月以降は全く会うことがなかった。つい最近再会して、「コロナって本当に気をつけないといけないのかな?」という言葉を口にしたから驚いたのだ。あれだけ心配していたのに、そして今のほうが当時より状況が悪くなっているというのに、この人はなぜ急にこんな態度を変えたのだろう?

最近では四条烏丸のマクドナルドや、大丸の地下フロアといった、京都に住んでいれば多くの人が行き来する四条烏丸エリアでも続いて感染者が出た。京都は3月の段階で15人感染者が出て騒いでいたが、最近は30人近くになることも珍しくない。40人を超えたこともあった。身の危険を感じるなら当時より今だと思うんだけど、知人はそうではないらしい。

知人は今、結構な頻度で仕事帰りにバーへ出向いたり、人と会って食事したりしている。3月4月だったら考えられなかった。ではなぜ今安心しているのか。なぜいま危機感が薄れ、無防備になっているのか。現実には、コロナはおさまっていない。それはデータだけ見てもわかる。

身の周りでは、今もなるべく人との接触を避け、外食を控え、感染予防を徹底している人が少なくない。しかし中には知人のように(ダイジョブっしょ)という心持ちでコロナ禍以前の生活を取り戻した人もいる。

「コロナなんて大したことない」という態度をずっと貫いている人もいる。そういう人は元から主義主張が一貫している。でも知人はそうではない。世間が自粛ムードのときは人一倍怖がり、今のように緩やかにおさまってくると人一倍(ダイジョブっしょ)という態度を取り戻す。

そうか、知人はコロナなんて見ていなかったんだ。コロナの感染者数、再生産数、感染したときの症状、致死率、後遺症、そういうことは元から気にしていなかったんだ。知人が見ていたのは、世間の空気だったんだ。知人が今コロナを心配しなくなったのは、世間がそういうムードになったからだ。ムードに乗っかり、感染予防を重視しなくなった。

もともと"自粛"という言葉に違和感があった。僕自身は感染予防のために外出を控えたり、人と会うことを控えたりしているが、それが自粛だという意識はない。世間の目を憚って自粛しているわけではない。だから"自粛"に怒っている人のことがよくわからなかった。彼らは本当は外出したいのに、人と会いたいのに、世間の目を憚って我慢して自粛していただけらしい。

そういう人はやはり、データよりも、周辺の事実よりも、感染症予防よりも、世間の空気がマターなのだろうか?だから「コロナって本当に気をつけないといけないのかな?」(ダイジョブっしょ)なんていう態度で今日も過ごすのだろうか?

理由のわからない執着が人に恐怖を与える

これを読んでいて思ったこと。

開くのめんどくさい人のためにざっくり説明すると、女の人がビジネスホテルに泊まった際、エレベーターですれ違った男性が、自分の部屋のドアの下から、LINEのID書いた紙滑り込ませてきた。ドアののぞき窓を見ると、その人が這いつくばってドアの下を覗いていた、という話。その先は全部読んでいない。ちょっとしたホラーだが、現実にあった話ということです。

紙にLINE書いてドアの下に入れ、その紙が取られたか確認するためにドアの下覗いている男性の行動はヤバい。不審者だし、自分が同じことをされたり、女の人が自分の知り合いだったりしたら、その男性に詰め寄っていただろう。「気持ち悪いんじゃー!」と。

この男性が性犯罪者だったのか、ナンパのつもりだったのか、一目惚れだったのかはわからない。だけど女性は明らかに不審感を持ち「狙われてる!」と感じたようだ。まあ性犯罪者だとしたらわざわざLINEから入ろうとするのはどう考えても回りくど過ぎておかしいんだけど、とにかく女性は身の危険を感じた。男性の、LINEを紙に書いてドアの下から滑り込ませ、受け取ってもらえたかドアの下から覗き込むというアプローチは、大失敗に終わった。

それでは、この男性はどうするのが正解だったのだろう?

女性からすれば、「何こいつ?」と思っただろう。エレベーターですれ違っただけの人、会話もない見ず知らずの人が、ドアの下から『さっきエレベーターで会った者です。よかったらLINEください』と書いた紙を入れて、ドアの下から覗き込んでいた。相手がどんなにかっこよくてタイプで、金持ちだったとしてもこの行動はナシだろう。ギョッとする。

なんでエレベーターですれ違っただけで、そんな行動をとるのだろう?なぜ私なのだろう?なぜLINEの紙を入れてきて、取ったか確認するほど必死なのだろう?なぜそんなに執着してくるのだろう?ヤバい人だ!という風に、男の僕が、仮に同じことをされてもそう思う。

この男性のアプローチは、それが性犯罪かナンパか一目惚れかにかかわらず大失敗だ。なぜ成功すると思ったのだろうか?成功例があるのだろうか?この紙をもらって「LINEのしよ」と思う人がいるのだろうか。ちょっと考えられない。そこまで想像力が働かなかったのだろうか?

この男性はもしかすると、自分の部屋のドアの下に、さっきすれ違っただけの人が書いたLINEの紙があったら、登録する人なのかもしれない。そんなやついるか?いるかもしれない。違和感なくこういう行動を取れるってことは、本人にとっては自然なことだったのかもしれない。だとしたらこの男性は、あまりにも他人を知らなすぎる。自分の基準だけで行動を決めてしまったのだろう。

エレベーターで話しかけるのはアリか?

LINEを書いた紙をドアの下から入れてくるという行動が、絶妙な気持ち悪さをかもしだしている。その上、ドアの下から覗いていたのはホラー映画並のゾゾ気行動だ。なぜそれが気持ち悪いという事に気づかないのか。この男性が、かろうじて許された行動とはなんだっただろう。エレベーターですれ違ったときに気になっていたなら、その場で話しかけるのはアリだっただろうか?

実際のところ、エレベーターですれ違ったときに話しかけるのもギリギリアウトじゃないだろうか。海外ドラマのキャラクターのように超絶フランクでコミュ力があるか、もしくは相手がそうでなければ、エレベーターですれ違いざまに話しかけるのさえも成り立たない。少なくともこの男女二人は絶対アウト。下手すると「すみません、このホテルって一階に売店ありましたっけ?」と聞くのさえアウト。「なんなのあの人気持ち悪い」と、この女の人なら思いかねない。

結論としては、何もしないのが正解。

せいぜいアリだった行動とは?

じゃあこの男性は、女性に対してどういうアプローチならあり得ただろうか。次の日の朝食バイキングで声をかけるのはアリだったか?「同じテーブルいいですか?」は絶対アウト。気持ち悪い。その先の会話力が絶妙にあるなら成り立つが、まず無理だろう。「今何時ですか?」も不自然。自分で見ろって話になる。「すみません、今日この辺の天気ってご存知ですか?スマホ部屋に忘れてきて」とかもちょっと変だけど、親切な人だったら天気ぐらい調べて教えてくれるかもしれない。とにかく見ず知らずの人だったら、相手が誰でもいいような質問から入らないとまず気持ち悪がられる。「何なのこの人?何で私に?」と思われるんじゃないだろうか。

実際この男性は、この女性に対してよくわからない執着をしているんだけど、それが相手に伝わってしまうと不審感になる。それが恋心であれ、性欲であれ、友だちになりたいという気持ちであれ、等しく気持ち悪い。だからその執着を悟られない話しかけ方が最善だと思われる。

いや、まあ何もしないのが一番いいんだけど。

ナンパの成功に必須な条件は、おそらくその軽さだと思う。誰でもよさ。余裕のある感じ。この男性は全部その逆をいってる。エレベーターですれ違っただけの人が、LINEの書いた紙をドアの下に滑り込ませて、ドアの下から覗き込むという行為は、重いし、自分に対する執着を感じるし、必死さを感じる。ナンパだとしたらうまくいくわけがない。いや、ナンパしたことないけど。

だから、僕が個人的に思うのは、よく知りもしない人に執着しないことが大事なんじゃないかな。なんでその人にこだわるのか?理由がわからない。たまたま仲良くなった人の方が自然だろう?執着するにしても、それまでの流れがあったほうが自然だ。ただエレベーターですれ違っただけで執着されたらたまったものではない。なにか思いついたら追記します。

ワイヤレスイヤホン使用遍歴から5つを比較

2018年からワイヤレスイヤホンを使い始めた。最初は安いのを使っていて、最近はAirPods Proを使っている。それぞれの仕様や特徴をまとめた。ついでに奥さんが持っているのを使わせてもらったのも含め、合計5つのワイヤレスイヤフォンを使ってみたので、せっかくだから比較してみる。

  • URBANEARS Stadion
  • AVIOT TE-D01b
  • SONY WF-1000X
  • SONY WF-1000XM3
  • Apple AirPods Pro
  • 雑感
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目指していきたいっすねーインターネット離れ

今でもついTwitter開いたりはてブ見たりしてしまう。悪い癖っすねー。社会と繋がってしまったインターネットからは、なんとなく身を引きたい。そういう思いが近年徐々に増している。こうやってみんなネット社会からいなくなってしまうんじゃないか、自分もその一人になれたら、そんな思いを巡らせている。

インターネット、ネット社会と関わらずに、自分の身の回りの世界だけで生きていきたい。インターネットに繋がっていなければ、それだけで今よりも平穏な日々が過ごせる。今はネット慣れしているから脅かされないだけで、摂取しなくてもよかった情報を取捨選択して、自身に堪えそうなものは受け流している。そういう行為自体が本来不毛なことだ。だいぶ荒んでいる。フィルターはすごく汚れているんじゃないか。世渡り下手な世間知らずとして、無垢な時間を過ごすのが理想ではないか。取り込んで受け逃して、時には傷つけ合い、その先にある束の間の平穏なんてまがい物ではないか。知らぬが仏。

これは生き方にも通じる。絶海の孤島で、自然の恩恵と身の回りの支え合いのみで生きていけるなら、海から外へ出て荒波に飲まれ、競争社会を渡り歩いた末の守られた人工都市なんて目指す意味はないんじゃないか。そうやってみんな都会を捨てて田舎暮らしに走るのか。もっと狭い世界に生きて、ニュースを取り入れないことは大事だと思います。ミュートやリムーブは積極的に活用していきましょうよ。よく反対意見をフォローするのも大事とか言われてますけれど、別にいいっしょ。広い視野とか広い世界なんてもういらない。自分と関わりのない人のことを考えるのはやめる。切磋琢磨なんてもう飽き飽きだ!ぬるま湯を沸かし続けることだけがんばりたい。

その点近頃のブログは閉じてしまって楽ですよね。人目につかなくなった。以前は人目につくことを目指していたにも関わらず、元あったところに戻りつつある。僕にとって内輪のような繋がりはないんだけど、ある人はそれで十分。閉じた世界、閉じたコミュニティ。世の潮流から逃れてきた草木も生えぬ大地。良し悪し、正誤もなく思いつきだけで成り立っているこの場。ネットの海の果でありがとう。世界は密から疎へ。

話がインターネット離れではなく、インターネットの中央離れになっている。どちらでもよい。見知った人達同士の、手の届く範囲の、生活圏のことを考えていたい。自分はワールドワイドな人間ではない。世界へ発信して世界の反応なんかうかがわなくていいんだ。あっても遮断すればいい。世界史における日本の鎖国思想バンザイYES。閉じたコミュニティのカッコ悪さを笑うことなかれ。僕らは流行を知らない老害なんだ。外へ出てはいかんな。あちいなーコンチクショー

裏表のある人は何なのだろう

自分に裏表がないのかというと、ないつもりではいるが、あるのかもしれない。ある、ないというより、本心を隠すことが苦手だ。よく「顔に出ている」と言われるし、思っていることを包み隠さずはっきり口にするほう、本音が表に出すぎる方だ。だから裏表はやっぱりないんじゃないかな。そんなこと言っても、誰にでも全く同じ態度が取れるわけではない。裏表があるかと言えば多少はあることになるが、どちらかというと場に応じた役割を演じているだけに過ぎない。

よく裏表があると言われる人は、裏表が激しい人のことを指す。表の顔と、裏で言っていることのギャップが激しい人。さらに「裏表が激しい」という言葉は、大体において相手を非難するときに使われる。表でおとなしい人が、裏では激しかったり、表では従順な人が、裏では文句たらたらだったり。表向きはめちゃくちゃ嫌な人なのに、裏で実はめっちゃいい人のことを「裏表が激しい」とは言わない。

裏表が激しい人と、ときどき知り合う。普段の感情表現が乏しい人が、裏で爆発している。例えば自分の知っている人で、面と向かって話せば落ち着いているのに、LINE上でめちゃくちゃ辛辣な人がいた。彼はLINEグループで、すごくどうでもいいことに対して激怒していた。その話題にグループのメンバーは誰もついていってなかった。最初見たときは、同一人物なのかどうかを疑ったぐらい、普段と態度が違っていて驚いた。なんなんだろう一体。

その人はとにかく、普段は温厚なのにLINE上ではめちゃくちゃキレてばかりいる人だった。頭がおかしいんじゃないかとさえ思ったほど。面と向かって話すと、やんわりと返ってくる。なんなのだろうこのギャップは。意味がわからない。とにかく裏表が激しい人は、裏に激情を抱えており、それが普段表に出てこないという特徴がある。

さらに彼は、ある女性にLINEで猛アタックしていた。その女性から他の人へ相談があったらしい。これも表立ってやればいい話なのに、なぜかLINEという裏で爆発している。なぜ面と向かってアプローチしないのだろう。というか、面と向かってやってはいけないようなことを裏でやるなよ、と思う。それは裏でもダメだろ。なぜ裏なら許されると思っているのだろうか。

人目につかないところであれば、何言ってもやってもいいと思っているのか。一人で勝手に言ったりやったりしている分には構わないと思う。しかし、誰かに向けてやりとりをしたり、攻撃したりアプローチするのは、裏も表も変わらない。なぜ表では控え目で、裏で爆発してしまうのだろう。一体どういう心理なのだろうか。

ある人は、普段会うと気さくな兄ちゃんなのにfacebook上でいつも悪態をついている。世間の風潮に対してだったり、今日身の回りで起こった出来事に対して、的はずれな文句を書いては翌日消している。何がしたいのだろう。そして彼もまた、女性に対してとてつもないセクハラLINEを送る。いわゆるクソLINEだ。彼の場合面と向かって女性にアプローチすることも多いが、LINEでは普段と違ってセクハラ全開になる。こういうことをやめれば女性とも上手くいきそうなのに、なぜLINEで暴走してしまうのだろう。

傾向として、怒りにしろセクハラにしろ、感情の暴発が見て取れる。表では感情を上手く出せていなかったり、制御したりしているのか、その分裏、すなわちSNSやLINEで爆発している。しかしそのSNSやLINEは、裏と言っても表で繋がりのある人ばかりが見る場所であり、実名であり、知っている人が誰もいない匿名掲示板ではないのだ。だから何でそこで暴れまわっているのか理解できない。人としての評判を気にするなら、裏でもそういうことはやらないでおくべきだろう。気にしないのなら、表でも同じ態度をとればいい。なぜ、裏表でこうもギャップが激しいのか。

よく「ハンドルを持たせると性格が変わる」と言われる人たちがいる。裏で暴れまわる人はもしかすると、SNSやLINEというツールを使うと感情の制御が効かなくなるのかもしれない。そういうツールが車で言うハンドル、アクセルの役割を果たしてしまっている可能性はある。とても危うい。彼らはSNSやメッセージアプリから距離を置くべきだ。周りに迷惑を掛けるという理由もあるが、それより自らの人間関係の構築を、そういう裏の顔が阻害してしまっている。

誰でも感情が昂ぶるときがあり、ヘイトや欲望を胸に抱くことはある。けれどそれを人にぶつけたりはしない。少なくとも身元が割れる形で行うことは控える。裏であろうと表であろうと、公然と人をけなしたり性欲をぶつけていれば、自らの社会的立場が追いやられる危険性がある。それが表では制御できていても、裏になった途端爆発してしまうのは、多分本人も自覚があるはずだ。どうしても感情を抑えきれないのであれば、せめてもっと慎重になったほうがいいのではないか。感情の出し方を学ぶとか。

上記の例はいずれも男性で、裏表の激しい女性とは付き合いがないため、あまり知らない。

ヒトコトへの回答⑱

このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。

62通目:前の仕事について

59通目かなんかで仕事について質問したものです。またまた質問なんですが以前、建設関係?かなんかの営業をされていたとの事ですがもし海外にいかなかったら続けていましたか?また興味のない仕事でも割りきって仕事できていましたか??

59通目の内容はこちら。参考までに。

で、僕の前職についてはかなり前にまとめてある。

もし海外に行かなかったら続けていたかどうか。海外云々よりも、とにかく辞めたかったという気持ちが先行していたから、転職していたか、もしくは異動願いを出していたと思う。その先何年続いたかはわからない。

僕が辞めてだいぶ経ってから、電通案件以降だったかな、働き方改革などというものが始まり、会社のパソコンは8時に強制終了されるようなったそうだ。僕が働いていた頃は、2時3時まで残業して(残業代はない)終電がなくなりタクシーで帰る日もめずらしくなかったから、会社は大きく変わったんだと思う。

それでも辞めてよかったと思う。辞めてなくてもそれなりの人生はあったかもしれないが、今のほうがいいと断言できる。

興味のない仕事でも割りきって仕事できていたか。興味のある仕事なんてないから、やっている限りはそうなんじゃないかな。遊びでやることしか興味持てないです。仕事観についても、前に何度か書いた気がする。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。

結婚生活の話

結婚生活について書いてほしいと言われた。パートナーについてはこれまでにもここに書いてきたから省くとして、結婚後の我々の関係であったり、生活?について。となると何を書いていいやら。

僕とパートナーはもともと友人だった。その関係性は、結婚後もほとんど変わっていない。友人のような関係のまま結婚して、1年経った今もそのまま続いている。付き合う前の友人期間が1年あり、彼氏彼女期間が半年で僕らは結婚となった。友人期間のほうが長く、付き合い始めたからと言ってお互いの態度が変わるようなことはなかった。彼氏だから、彼女だから、結婚したから、立場が変わっただけで態度を変えたりすることに僕は違和感があり、そういうことをお互いやってこなかった。態度が変わっていくとしたら、立場によってではなく親密度によってグラデーションのように変化していくものだろう、と僕は思っている。「ハイ、付き合いました」「結婚しました」という号令だけで態度を急変させるのは不自然だ。中身は何も変わっていないのに。

だいたい僕自身は彼氏彼女関係、婚姻関係に対して願望をいだいたことがない。だから「彼氏とはこういうもの」「結婚とはこういうもの」といったイメージがなく、その立場になってああしたいこうしたいとかも一切ない。むしろそんな型に囚われたくない、こだわりたくないという気持ちのほうが強い。だから籍を入れなくてもいいと言っていたし、パートナーの方の姓を選んでいいと言っていた。そういう表面上のことは、僕にとって些事であった(結局相手の希望で僕の姓になった)。

立場によって態度を変えるとか、表面上のことを繕うのは、プライベートではなくパブリックな場においてだけだった。例えば双方の親の前だとか、パートナーの仕事上の付き合いや、事務手続きの場においてのみ僕らは婚姻関係のロールを演じ、対応することが求められるから仕方なくやる。そしてプライベートではこれまで通りという感じ。結婚生活ごっこをやるのは表向きだけでいい。

単純な生活という意味では、僕は結婚諸々のために帰国したため、大きく変わった。僕が僕自身のためだけに生きる時間は終了した。今は全てパートナー中心の生活をしている。もともと僕は夢も希望のなく、かろうじてあった自分のやりたいことは、今までの人生でほとんど全部やってきた。今はまさに、結婚してパートナーのために生きるという生活をやっている。

といっても僕には経済力がないため、働くという面では家庭に一切寄与していない。パートナーに頼り切りである。その点においてパートナーからすれば、一人増えようが同じという塩梅。ただそれではあまりに申し訳ないから、経済的にも寄与できるように努力はしている。パートナーはそれについて「どうでもいい」と言っている。このあたりは男性が家計を支える家庭と根本的に違う。

経済力でないならば、一体どういう形で僕がパートナーを支えているのか。大まかに言えば、パートナーの経済以外の負担を軽減している。心労であったり雑用であったり、厄介事であったり、人手であったり、いてくれると助かると言われるよう日々務めている。パートナーは元々一人で何でも出来る人だから、能力は全部僕より高い。実際のところ僕はいなくてもいい。ただ、「いたほうが楽」と言われる程度の役割を担っている。

同様に、僕自身もパートナーがいなくて困ることはない。お互い30代後半まで誰も必要とせず、一人で生きてきた。あえて結婚する必要もなかった。そういうときにお互いが「してもいいんじゃないか」と思える相手だったから、今のようになった。僕はその「結婚してもいいんじゃないか」と思われる対象であり続けるように努めている。

僕に関して言えば、生活の主体が自分ではなくパートナーに移ったため、生活様式は大きく変わった。パートナーと僕とでは生活の基準が何もかも違う。ほぼ全部向こうに合わせているが、至らないところは多々ある。ただ特に無理したり我慢したり、頑張って合わせているということはない。禁煙は多少つらかったところもあるが、強要はされていない。

基本的にはパートーナーの生活スタイルに、僕が合わせる形になっているが、逆にパートナー側から僕に合わせてくれていることはなんだろう?と思って聞いてみた。以下が返ってきた答え。

うーん言葉にするの難しい
私は家族も含めて世間体を気にする性格やから、普通こうするやろって行動が川添さんにとって普通ではないことを受け入れるという部分は合わせてるかな… こっちに合わせてほしいことはちゃんと毎回伝えるけど、どっちが正しいとかそういうのは無いという意識改革というか

なるほど、そんなに変か俺。でもこういうことは、付き合う前から言われていた。まず最初に相手(僕)が普通じゃないこと、常識の外側にいる人であることを認めるところから始めた、といったようなこと。生活の上で具体的に合わせているところは「しょうもない話を聞かされているところぐらいかな…」という回答だった。向こうから求められることもあるけれど、それ以上にめっちゃ話すからなー。

僕の結婚生活はそんな感じ。もっと具体的な話をするなら、朝猫に起こされて、朝食を用意して、それぞれ仕事をして、夜には帰ってきて、夕食はパートナーが用意して、洗い物は食器洗い機がする。掃除洗濯は僕がやったり向こうがやったり。猫の世話も僕がやったり向こうがやったり。同居、分業という感じです。食事をしながらNetflixやAmazonプライムを見たり、お互い都度今日あったことを話したり、たまに外食したり映画館へ行ったり、そんなもん。友人っぽいでしょ?

無意識にハラスメントやってるけど、「生きづらい」はちょっと違うような

これを読んでいた。ハラスメントの問題が社会で持ち上がるようになってから、自らの男性的な暴力性に気づいて落ち込んでいる人たちの話。「加害者性に苦しむ男性たち」という副題がついている。

1980年代生まれの自分は、ジェンダー意識の移り変わり、それにまつわる社会常識の変容について、ここ10年は特に大きかったように感じる。常識が変わり、意識が変わり、自らの過去の行動や、過去の社会常識に囚われた現在の考え方など、反省することも多い。男性として、女性を一方的に傷つけたり、尊厳を蔑ろにしていたこともあるだろう。

職場ではないが「それセクハラですよ」みたいに言われることもあった。如何にゲスな言動で相手を引かせるかがおもしろい、という昭和後期から平成にかけての文化圏で育ってしまったため、現代の価値観へ切り替えるのがなかなか難しい。「あの頃はめちゃくちゃやりましたよ」というような武勇伝を語ることがかっこいいと思われていた時代もあった。

80年代に生まれてから植え付けられた根強い意識、古い常識はそう簡単にアップデートできない。気づかないうちに「今やるとアウト」なこと言ったりしでかしている。意識はしている。努力しているつもり。だけどそんなにうまくいってない。

ただ、記事にあるような「男性の加害者性による生きづらさ」なんて表現は大げさだと思った。なんだよ生きづらさって。被害者のほうがよほど生きづらいだろ。ここで言われていることは、例えば生まれつきの殺人狂が、殺人衝動を抱えたまま市井にまぎれて、誰も傷つけずに暮らす自信がなくて生きづらい、と言ってるようなもんだ。そんなもんはお前だけの問題で、一人で勝手に悩んでろという話。

というか、大いに悩んだほうがいい。自分の中に加害性があるなら、それにどう対処するか。しっかり悩み抜いて、失敗しないように気をつけたほうがいい。だからそれを「生きづらさ」なんて呼ぶのは間違っているというか、甘えているというか。本人がどういうつもりなのかは知らないが、「生きづらさ」などと言われてしまうと、それはまるで解消されて然るべき社会的抑圧のようにとらえてしまう。そうじゃないだろう。加害性に悩むことは、自分自身の問題だ。

例えば戦国時代に武勇で名を馳せた武将が、現代にタイムスリップしてきて「現代では人を殺して名を上げることができないから生きづらい」などと言われたら知るかボケと思うだろう。なんとか時代に適応してください、としか言えない。それも自分一人で勝手に頑張れと。「生きづらい」じゃねーだろ。今の世の中とどう関わっていくか、自分自身や世の中と向き合って、よく考えたほうがいい。

人の意見を参考にするのはいいと思う。加害性を抱える自分が、現代社会にどう適応すればいいのか。学ぶことで見えてくることもあると思う。それは自分の「生きづらさ」なんてものを解消するために行うことではなく、現代社会の一員として、被害者を出さないことを目的として行ってもらいたいものです。

こんな人いるの?こっちは論外だなー。

余談:ジェンダー意識の改善に伴い、「男性にリードしてほしい」といった男性に積極性を求める風習も同時に滅びてほしい。リスクがでかすぎる。

旅行できないこんな時期にASIAN JAPANESEを読み返していた

「アジアンジャパニーズ」を初めて読んだのは、僕がちょうど旅行を始めた頃で、10年前。当時は旅行の入門書として、教科書的に読んだ覚えがある。同時期に読んだのは沢木耕太郎の「深夜特急」、小田実の「何でも見てやろう」、いずれもバックパッカーのバイブルと呼ばれる名著ばかりなので、今もバックパッカーカルチャーに興味がある人がいればおすすめです。

バックパッカーという旅行形態は、10年前の当時既に下火だった。旅行もIT化、グローバル化が進み、バックパッカーという旅行のスタイルは、誰もが楽しめるレジャーの一つとして安心安全に機能するようになった。世界一周旅行なんて、勇気がなくても英語が喋れなくても、ちょっとお金と時間があれば誰でもできるようになった時代。10年前は既にそんな感じだった。手軽であるがゆえに廃れた。そこにかつてのバックパッカーが求めていたようなアドベンチャーはなくなっていた。

この「アジアンジャパニーズ」に書かれていることは、旅行の教科書としては時代遅れであり、かつ旅行の手段については何も触れられていない。読んだはいいが、参考にはならなかった。ではなぜそれを、今になってもまた読むのか。そこには何が書かれていたのか。それは、かつてのバックパッカーの名残りであり、彼らの心の内にある普遍的な心情だった。

「アジアンジャパニーズ」という本は、会社を辞めたばかりの写真家(23歳)が、初めての一人海外旅行、それもタイのバンコクや、インドを訪れ、現地で出会った日本人に片っ端からインタビューして写真を撮らせてもらうという形式の本だ。また、日本に帰国後も連絡を取り、その後の再インタビューも何人か分収録されている。旅行そのものよりも、その当時の旅行者、アジアを旅する日本人の内面をとらえることに、焦点が絞られている。著者自身の内面も多分に含まれており、まだ旅慣れていない様子、旅行との向き合い方や、初めて出会う人種、初めて見る景色への目線がういういしい。

ここで見られるような旅行は、現代のようなLCCやインターネットが発達し、都市化したアジアではめったに見られない。この本が出たのは1995年。著者の旅は本が書かれる3年前に終わっているから、25年から30年前の話だ。本に掲載されている写真を見ると、古い。25年から30年前の、当時の日本人の姿がある。けれど、ここに記されている心情は、現在においても見られるものではないだろうか。この本に出てくるかつてのバックパッカーたち。当時の彼らが現代にいたとしても、おそらく同じことを思っていただろうという心情が書きつづられているおり、色褪せない。

それは一体どんな心情か。一言で言えばモラトリアム。あのモラトリアムだ。バックパッカーはよく「自分探し」などと揶揄されるが、じゃあ彼らは一体どういう立場で、どういうつもりで放浪の旅などを行っているのか。それは同じアジアを放浪するバックパッカーと言えど、人によって結構違う。数ヶ月の旅で終わる人もいれば、4年続いた人だっている。30代の人だって意外といる。66歳のモラトリアムもある。帰国後に美大生になる人、陶芸家になる人、また旅に出る人、自殺する人、帰国しない人、一様には語れない。考え方もそれぞれ違う。ただし、誰もが何か思うところあって、アジアに逗留している。その間は、多くの人がやはりモラトリアム期にいる。

モラトリアムとは先延ばしと訳され、海外ではギャップイヤーなどがモラトリアム期にあたるのだろう。日本にはギャップイヤーがないから、日本人がモラトリアムを体験しようとするなら、自らモラトリアム期と場所を設けなければいけない。時期はさまざまだが、そこにアジアを選んだ人たちを、著者が取材している。同時に著者自身も、アジアでモラトリアムを体験している。著者は同じ旅行者として旅に寄り添っている。撮影した写真は帰国しても机にしまいっぱなし。当時文章はなく、本にする予定もなかったそうだが、後にこういう形になった。

アジアを旅する日本人の中には、いくつか共通するテーマを持っている。全員ではないが、そのうち最もポピュラーなテーマが、「日本社会に組み込まれることとどう向き合うか」である。日本から離れることにより、日本とそこにいた自分を客観的に見ることができるようになったと、多くの人が言う。今そこにいる土地には日本のシステムも常識もなく、日本の形や構造が外から明確に見える。いかに整っているか、いかに歪んでいるか、どんなスピードで動いているか、どんな色をしているか。日本社会に一度組み込まれた人も、これから組み込まれる人も、組み込まれることを拒絶する人も、アジアから日本を見つめ直している。これから自分たちが、日本社会とどう対峙していけばいいか、アジアで模索している。

これは僕にも経験のあることで、とてもおもしろかった。一度外に出て、外の常識に染まってしまってからでないと見えてこない日本の姿は確かにあった。外からの目線とは、日本の国内で、日本人としか付き合いがなく、日本の文化と常識にどっぷり浸かってしまっていれば決して得ることのできない目線だ。みんな一度は体験したほうがいい。特に「日本が嫌なら出ていけ」と言うような人たちにこそ、一度外国に住んでみてほしい。海外生活もいいもんですよ。

今でもそんな事を考えながら旅行する人はいるのだろうか。海外は結構外じゃなくなってしまっていて、いつでも日本と繋がっており、内側に組み込まれていってるような気もする。インターネットで日本と繋がったままでは、もしかすると外側からの目線は得られないかもしれない。外国にいても日本語を話し、日本人とばかり接している人は大勢いるから、それでは日本社会の外に出たことにはならないだろう。

そういう海外で自分と向き合うとか、日本社会を見つめ直すとかって、今となってはめちゃくちゃ懐かしい感覚だ。この本はめちゃくちゃ青臭いことばかり書かれていて、恥ずかしような笑いだしたくなるようなセリフだったり心情にあふれているが、そういうのを僕は、若気の至りだと言って軽視したくない。また、ただ懐かしむだけでなく10年たった今、もう一度見直したかったのだと思う。

ここには顔写真とおそらく実名も記載されており、日本に帰国してから芸術家を目指した人たちのその後をGoogle検索したくなった。

コロナ・ギャンブルの時代

世界中で第二波が押し寄せる中、各国では再びロックダウンが行われている。日本社会は目先の経済を重視して、コロナとともに日常生活を営む方向に切り替えたみたいです。Go toキャンペーン然り、ついにそういう方向に舵を切ったかという感じだ。もう感染症対策をすることはあきらめた。withコロナってそういう意味だったのか。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/07/100-65.php

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/07/2-262.php

今の日本の状態が、初期イギリスの姿勢、現在も続くスウェーデン、ブラジルの方針とどれだけ違うのか。放ったらかし推奨。かつてはそれらの国々のやり方を批判していたが、やっぱり日本はヨーロッパみたいに国民の生活を保障することができないため、それぞれ独自でやってください、注意喚起はするけどね、という方向性に開き直ったという印象。もう緊急事態宣言はやらないだろう。保障がない状態でやられても、誰も聞けないだろう。

国民の方も大方それで納得している。国が保障できないなら自分たちの食い扶持を自分たちで稼ぐしかなく、コロナ以前と同様満員電車に乗り、今日も日夜あくせく皆様働いてらっしゃいます。ご苦労様です。それについて僕は批判的ではなく、仕方ないと思っている。そういう政府を選んだのは僕らなんだから、今の政府のやり方には僕らの意思が反映されている。ただ、今後どうなるのだろうか。

コロナのワクチンはなく、重症化リスク、医療崩壊、あらゆる爆弾を抱えた上での日常となる。withコロナ、コロナ・ギャンブルの時代。感染して回復した人も多くいるが、差別や後遺症といった問題も残る。アメリカやブラジルのように100万人規模の感染拡大、5万10万人規模まで死者が増えるリスクもある。それでも日本は今日明日の生活を選んだ。今日明日の食事がままならないなら、感染症どころではない。日本はイギリスやドイツのように国が給与を保障してくれるわけではないから、仕事を休むわけにはいかない。

でも、コロナを踏んだらサヨウナラ。今僕らはそういう毎日を送っている。慎重な人は、今もなるべく出歩かない。消毒・マスクを欠かさない。人との接触を避け続けている。それは世間の目を気にしただけの"自粛"ではなく、ウイルスから避難するための本物の警戒心によるものだ。今の日本の感染者数の拡がりは、あれだけ必死に自粛をやっていた緊急事態宣言前よりひどい。当時より感染症対策が進んでいるにもかかわらず。

「大丈夫でしょー、周囲でかかった人いないし、人口中の割合でいうと確率めっちゃ低いから自分はかからない」と思っている人も多いと思う。初めからそうだった人もいれば、世間の空気に流されやすく、3月4月頃は自粛していた人が、最近は楽観的という人もいる。そのあたりはリスク管理の意識、性格によるところが大きい。情報格差も大きい。もちろん危機意識が高くとも仕事を休めない、って人だっている。

コロナ・ギャンブルの時代をどう生きるか。大当たりしたら真っ逆さま。仕事もウイルスからも、自分の身を守るってくれるのは自分だけですね!

ブックオフ愛を語ることは後ろめたかった

なぜ今ブックオフか?というと、最近「ブックオフ大学ぶらぶら学部」を読んだから。それ以降またブックオフ通いを再開している。昨日買ったのは以下の4冊。

「ブックオフ大学ぶらぶら学部」は、ブックオフユーザーに勇気とアイデンティティを与える本で、読めば必ずブックオフへ戻りたくなる。そしてブックオフで猿岩石日記とか、どうでもいい本を100円(税別)で買いたくなる。おすすめです。

この本では、意気揚々とブックオフについて語られている。それぞれのブックオフ観や利用の仕方、いかにヘビーユーザーであるか、レベルが上がると価値の高い本だけ本棚から立体的に見えてくるという話は、ブックオフヘビーユーザーのあるあるネタらしい。

しかし、僕自身はというと、ブックオフに対してそこまで前向きに語ることはできなかった。恥を忍んでブックオフ通いしていたようなところがある。このブログでも過去に何度かブックオフについて触れているが、社会現象として取り扱ったり、せどりについて触れた程度。

「ブックオフ大学ぶらぶら学部」のようにブックオフ愛を公然と語るようなことはなかった。それはやはり、自分の中で「ブックオフは恥ずかしいもの」という認識があったからだ。

  • ブックオフに通う人々
  • ブックオフの立ち位置
  • 今こそブックオフ談義
  • 僕とブックオフ
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禁煙を始めて1年経った今の心境

どうも、禁煙定点観測所です。去年の6月に禁煙を始めてから不定期に記録を取っています。これまでの記録は以下の通り。いつまで経ってもだいたい同じこと書いている。

2ヶ月

4ヶ月

半年

長らく喫煙衝動と闘ってきた。そして1年が過ぎた。禁煙は今も続いている。ジョギングは全然続かなかったのに。アクティブな活動は続かないらしい。ただ我慢するだけといったパッシブなことなら続けられるのか。そろそろ、禁煙1年が過ぎた今の心境をつづります。

  • やめられた自信はない
  • 健康になったか?
  • 禁煙が続いてよかったこと
  • 自分に向けて、喫煙者・禁煙者へ向けてひとこと
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ヒトコトへの回答⑰

このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。

61通目:婚活の話

婚活のブログ、ここまできちんとマッチングが言語化されているのを初めて読みました。悩んでたことがわかりやすく整理されていてとても感動しました。婚活するときに何度も読み返そうと思います。

婚活のブログと言われてしまった。これのことです。

奥さんに聞いた話だと、婚活がうまくいかない系の相談って大体僕が書いたような「選ばれる人間になるために、自分の市場価値を上げろ」っていう結論に収束するらしい。ここのポイントは、「自分から見て結婚したい自分」になるのではなく「相手が結婚したい自分」になること。よく「私だったら絶対自分を選ぶのに」といった自信満々の声を見かけると思うけれど、あなたを選ぶのはあなたではない、という点が肝心だと思います。「他者から見て」、は「自分から見て」と全然違うから、他人が評価する点をしっかり把握しましょう。努力してまで結婚したくないっていう人はあきらめましょう。あきらめてからが始まりです。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。