ご自愛プラン 松竹梅

ツイッターで見かけた。生きているうえで「自分へのご褒美」みたいな発想はないものの、自分を保つための発散手段を段階別に思い浮かべてみた。松竹梅の基準は、金額の大きさとか時間の長さ。

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    • 旅行
    • 何もしない
  • 傾向
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2023.2.7

円も持ち直してきたから、ささいな額のキャッシュでもそのまま持っているのはどうかと思い、VTIに回そうと考えている。SBI証券の「米国株式・ETF定期買付サービス」というものを知り、こんなのがあったら投資信託なんか買わずとも積み立てができる。めちゃくちゃ楽だな。

米国株式・ETF定期買付サービス|外国株式・海外ETF|SBI証券

今日は1時間ぐらい歩いたんだけど、歩いている最中、ついにイヤフォンを外してしまった。最近は全然ポッドキャストなりラジオなりが聞けなくなって、人の話し声を遠ざけていた。代わりに音楽を聞いたりしていた。しかし先日も今日も、音楽さえきつくなり、イヤフォンを外して何も聞かない状態で歩いた。自然の音に耳を傾けるとかではなく、何かを聴くのがきつい。なんも入れたくない。

聴くタイミングもあるけれど、特に長い時間はつらい。本は読んでいるから、コンテンツを摂取できないとかではない。ながらで何かするのがしんどくなった。一時的だとは思う。疲れているのか、気が滅入っているのか。そういうわけで、今聞けてない番組がたまっている。

TikTokなどを見ていると、テレビの切り取り動画ばかり流れてきて、最近はテレビが復権してるのかなーなんて思った。Tverなどのおかげかな。テレビを持っていなくてもアプリが普及して、テレビ番組を見ている人が増えたのかもしれない。テレビは持ってないけれど、ポップインアラジンでTverを見るという話を最近二人から聞いた。

TverはさすがにNHKの受信料取れないだろうな。テレビ局の番組作りも配信向けがメインになるんじゃないか。

営業が苦手っていう話

今日ポッドキャストを聞いていたら、営業が苦手っていう話を思い出した。かつて日記に書いたような気もする。

自分は会社員時代に営業職のような仕事をしていた。ノルマがあったり歩合だったりするわけではない、飛び込みとかテレアポとかもしない、相談・解決がメインというような、営業っぽくない仕事だった。上司は担当そっちのけで仕事を取ってくるような営業オバサンで、事務が苦手な人だった。その人が「営業はやっぱり人だから」と言っていた。同じ商品でも、営業担当が優れていれば買うし、売れる。それは確かに世の真理だと思う。

「営業はやっぱり人」、僕はその言葉が引っかかっていた。営業担当は契約を取っても、アフターフォローはしない。僕がいた会社は引き継ぎがしょっちゅうあり、契約後の担当はコロコロ変わっていた。人で選んだはずなのに、選んだ人は契約の成果だけ取って外れていく。気づいたら別の担当がついている。そんな体制ではたして、その場の成り行きで、人で選んで契約していいのだろうか。

僕は、商品(製品)は、商品価値で売るべきだと思っていた。説明して価値がわかってくれる人に、価値を見出してくれる人に契約してほしかった。営業担当なんかで選んではいけない。ましてや人柄なんかで商品を買っていいのか。「営業はやっぱり人」という言葉の元で結ばれた契約が、モノではなく人に金を払っていることにならないか不安だった。ちゃんとモノを良いと思っているのだろうか。人で選んでも、その人は商品ではない。

僕自身も、営業担当で商品を選びたくないと思っている。モノについてよく調べ、会社の体制や評判も調べるようにしている。いくら営業担当がいい人でも、商品が合わなければ手を出そうと思わない。だからなるべく営業には会いたくないとさえ思っている。営業の良し悪しは、物を選ぶにあたってノイズにさえなってくる。優れた営業力なんてものがあるとしたら、僕にとってそれは、モノの良し悪しを正確に説明できる人になる。それはwebページにでも書いておいてくれれば事足りる。

かつて、マーケティングができれば営業はいらないと言われていた。客層は選ぶと思う。いくらマーケティングが成功しても、待ちの姿勢の人に対して営業が有効なのは変わらないだろう。人に勧められないと意思決定ができない、隠れたニーズが本当に隠れたままの人は確かにいる。かたや、自ら調べては積極的に情報を取りに行ったり、要る要らないの判断がはっきりしていて不要な営業がノイズになる人もいる。

もしくは、忙しすぎて自分から動いている余裕がない人もいる。そういう人には向こうからやってくる営業が便利かもしれない。そうなってくると結局は相性なのかな。見極めが肝心。自分は営業を避けがち。

オーバーザサンを聞いてweb日記のことを思った

1月27日配信のオーバーザサンで、ジェーン・スーが「書くことを全人類に勧めたい」みたいなことを言っていた。書くことは自分に向き合うことで、書くことによって自分の考えや悩みが整理され、落とし込める。書くことはセラピーだ、みたいなそういう話。堀井さんは最近日記本を出して、そのことに気づいたとか。

スーさんは書くことで得られるいいことを、簡単に説明していた。思考をクリアにするために、文章に落とし込む。無意識にやっていたが、確かに自分もそうだった。その過程で削ぎ落ちてしまうものがあり、それが良くも悪くもだった。思考をクリアにしたつもりが、文章に落とし込むことで凝り固まってしまう、ということもあった。書いてしまうことで、そうとしか見えなくなってしまう。

ただまあ書くことが自分に向き合うことというのは、ある意味正解だと思うけど、同時に目を背けることでもある。書かなかったことが、なかったことにされてしまう。

堀井さんは全然書くことをしてこなかったから、日記を書き始めて自分が今までいかに自分と向き合ってこなかったか気づいたらしい。「今まで何も考えずに生きてきた」というようなことを言っていた。ただ堀井さんはそういうのが好きではなく、あえて自分に向き合ってこなかったところもあるようだ。もう書き納めと言っている。自分と向き合うことにも向き不向き、好き嫌いがある。あえてフタをしてやり過ごしている人も多いのだろう。目隠ししてるから走れるというか。

スーさんが言う、書くことは人に認められたいとか人に見せびらかすためものではなく、自分のためっていう話はよくわかる。10年ぐらい前、ネット界隈ではよく自己顕示欲という言葉を目にした。web日記なんか自己顕示欲の現れだと言われていた。そういう人もいたのかもしれない。ただそうじゃない人のことは、あまり理解されなかった。おそらく、web日記程度でも書かない人にはわからないし、書いていてもわからない人がいる。人間は自分の視野枠の中でしか物事を考えられないし判断できない。

読まれるために頑張る人と、そうでない人がいて、その違いは、読む人に寄せるかどうかだと思う。僕はどちらかというと自分に寄せているから、自分の思うところを書いている。自分以外の人がどう読むかなんてわからない。人が面白がったり共感したりしても、誰がなぜ、どう作用したのか想像つかない。実際に聞いてみて、自分の思っていたのとは全然違ったこともある。人に寄せて書くっていうのは、僕は得意じゃない。自分の思ったことを、こぼしながらもただ書き留めています。

何からやればいいかわからない、投資入門のあれこれ

身の回りで「投資を始めたいが、何からやればいいかわからない」という話をよく聞く。実際何からやればいいんだろう。今言うところのいわゆる投資とは、NISAだのiDeCoだの、ってことだろう。つまり株。株式投資を始めようとしている人が、何からやればいいかわからない。そういう人に対して、何をどう伝えればいいか、考えてみた。ここでは不動産投資や商品先物、仮想通貨、NFTについては触れない。

僕は2017年にちょっとだけ始めた。当時はまだつみたてNISAもなかった。今は毎年ロールオーバーしている。そういう用語が出てくるとアレルギー反応を起こす人も多いが、僕も全部覚えているわけではない。そういうのを知るところが、スタートになる。流れとしては、

  1. 基礎知識を得る
  2. いろんなスタイルを知る
  3. 自分に合うと思ったスタイルを選ぶ
  4. 銘柄を選ぶ
  5. 銘柄を取り扱っている口座を開設する
  6. NISAなりなんなりの手続きをする
  7. 買う
  8. 持つ
  9. 売る

こういう感じ。

  • 1. 初歩の初歩
  • 2. 投資のスタイル
    • 山崎元
    • 厚切りジェイソン
    • 投資家に学んだ
  • 3. 証券口座の開設
  • おさらい
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2023.1.26

なかなか日記がはかどらない。忙しくなくても、結局書く気が起こらない。

ポケモンは学校最強大会に2回勝って、星6のレイドに勝ったらやることなくなった。集めるのとかは、あまり気が向かない。最強レイドは気が遠くなる。準伝説は全部捕まえた。ガチ勢はきっとこっからなんだろうけど、僕は1ヶ月半ぐらい遊んだからもう十分かな。マスターボール使ってなかった。ポケモンホームまで待とうかと思ったけど、あまりいらなそう。

情緒が不安定だ。寒いからではなく、時間が経つにつれて徐々に壊れてきているように思う。元からそうだったか、もっとポンコツだったか。テレビのドキュメンタリーかなにかで、辺境の地ではまだ老人が尊敬されていた。社会が変化していない土地では、経験を積んであらゆる問題も繰り返し対処してきて冷静でいられる老人は重宝される。変化の著しい時代、土地では、過去の知識や経験が通用しないどころか足かせにもなる。経験が無用となり、それ以外のあらゆる面で衰えただけの老人は、社会の負担になっている。

きっと、時代を越えて、社会の変化を越えても有用な知識や経験はある。価値が普遍の知識や経験を活用できれば、時代の流れが早い社会でも老人の有用性は変わらない。ただその、何が有用で無用かが判断できず、埋もれていってしまう。人間の存在価値は機能や労働力だけで測れるわけではないんだけど、この資本主義社会はどうしてもそういう面で回っているため、無視して衣食住は賄えず。世知辛いとはこのことか。

歳を取ることについて思うことは、バックパック旅行の話。ワルシャワのホステルに泊まったとき、60代ぐらいの日本人がいた。その時の宿泊客の中で、おそらく最年長だった。周りの人にもオールドガイと呼ばれていた。彼は一人でホステルに宿泊していたが、後に奥さんと合流すると言っていた。早期にリタイヤして、一年のうちの4ヶ月ほど世界旅行しているらしい。節約のためにホステルに泊まっているとか。

彼いわく「みんな若いうちにしかバックパッカーできないって言うけど、そんなことない」だそうだ。確かに金と体力があれば、低予算の旅行自体は可能だろう。ただ僕はどうも、若い頃のバックパッカーと年取ってからのそれが、同じものとは思えない。若さゆえの新鮮味とかあるだろう。年老いた目で世界を見て、本当に眩しいのか。若さゆえの冒険心もある。シニアになってから無茶する自信がない。ましてや妻帯者ともなると。

旅の目的は様々だと思うけど、僕の場合一つは異文化に触れることだった。旅行先に限らず、旅行者同士の話を聞くことも多かった。僕が利用した宿泊先にはほとんど日本人がおらず、旅行者であっても外国人同士のコミュニケーションばかりだった。そこで僕がシニアだったら、彼らは果たして話しかけて来ただろうか?同じ旅行者として。

バックパッカーは圧倒的に若者が多い。若者同士だから外国人であっても、コミュニケーションに遠慮がない部分は大きい。好き好んで老人と仲良くする人もいるかもしれないが、同じ扱いはされないだろう。こちらから話しかけても同じ。きっと遠慮される。同世代に話しかけようにも、そういう場所にミドルエイジ以上はほとんどいない。僕は当時31才だったけど、それでも周りで最年長のことが多かった。

例えばボスニアに行ったとき、ホステルで同室のフランス人の女の子と朝までお互いの身の上話をしていた。クロアチアでは、ニュージーランド人の女の子に話しかけられたり、スペイン人の女の人にご飯に誘われたりした。タイでもフランス人の女の子に誘われた。カナダでも別のテーブルのカナダ人の女の子に声をかけられて合流した。こういうイベントは、40代以降になるとさすがに起こらないんじゃないか。

というか、若くない自分は、もうそういうのを楽しむ余裕がない。ケベックの、長距離バスを降りたところからホステルまで-10℃以下の中を30分歩くとか、ヨルダンの、空港に朝方着いて反対車線を走るようなタクシーを捕まえ車中でバスターミナルへの行き方を説明するとか、モロッコで、明かりがない夜の道を駅まで30分歩くとか、そういった困難や不安を楽しんだり乗り切るパワーと勢いが、もうない。若いときはそういうのが新鮮だった。

年取ってから、年取ってこその楽しみがあるように、若いときにしか味わえない楽しみが確かにある。

「逆さまの森」のネタバレ感想

今年に入ってから「彼女の思い出/逆さまの森」を読み始めて、読み終えた。最後の「逆さまの森」がひときわ印象的だった。他はもっとスムーズに、心地よく読める。以前の翻訳では「倒錯の森」というタイトルだった。読んだことがある人もいるかもしれない。僕も「サリンジャー選集3」で以前に読んでいたはずだけど、あまり記憶に残っていなかった。今回のも、翻訳が良かったんだと思う。

「逆さまの森」はひどい話だった。世の中にありふれているとまでは言わないものの、既視感のあるひどい話。まあ一言で言ってしまえば、いわゆる寝取られの話。僕はこういう話って、やっぱり吐き気がするぐらい嫌悪感が募る。オタク界隈で言うところのネトラレ属性って、まったく気が狂ってるとしか思えない。そういう人は、本当にそこまで遊び尽くして性に奔放なんだろうか?

僕が「逆さまの森」を読んで感じるのは恐怖で、世の中にこういう人が実際いることも知っている恐ろしさ、いつ自分の身の回りに現れるかもしれないおっかなさ。事故や災害、犯罪への恐怖に近い。羆嵐の事件を知った時の恐怖にも近い。ただ自分はクマがいる地域に住んでいないから、この恐怖は遠ざけられる。「逆さまの森」はいつ自分の身の回りで起こるとも知れない嫌さ。

幸いなことに、今のところそういった災害級のヤバイやつとは知り合ったことがない。周りでも聞いたことがないから、そうやたらめったらそこら中に出没するわけではなさそうだ。ただ話には聞いたことがある、それもフィクションではない事実として。この手の人物はフィクションにもよく描かれるし、実在もする。

そういう極めて不快な、恐ろしい話を怖いもの見たさで読みたければ、「逆さまの森」どうぞ。作品としてはおもしろかった。この手の人物に慣れている人は、そんなに不快とも思わず驚きもしないと思うから、僕の反応が過剰なだけかもしれない。不倫報道があるたびに、人がなぜ不倫をするのか考える。「彼女の思い出/逆さまの森」は、グラース家ともコールフィールド家とも関わりのない、それ以前に書かれたサリンジャーの短編集。

ジューン・ブライド

ブライダルのブライドで、ブライトではない。僕はずっとブライト(艦長)だと思っていた。

確か、夏至は6月だった。ジューン・ブライドはヨーロッパかアメリカか知らないけれど、6月の最も日が長くて気候がいい時期の結婚式が人気だとか縁起がいいとか気分が晴れやかとかそういうやつだったと思う。残念ながら日本は梅雨の季節で、6月に結婚式など挙げようものなら雨降るわ暑いわジメジメするわでとても晴れやかな気分どころではない。それでもジューン・ブライドという言葉を僕でも知っているぐらいだから、みんな6月に挙げているのだろうか。うちも披露宴と二次会の中間的なパーティーは6月だった。

1年のうちで一番いい季節は、ジューン・ブライドの国では6月なのだろう。カナダのトロントに2年間滞在したことがあり、確かに6月は良かった。ただ天気がいいというだけで、街中が毎日お祭り騒ぎだった。上半身裸の男性も多く見かけた。ちょっと広めの公園は、ピクニックを楽しむ市民であふれかえっていた。トロントの夏は短く、6月にピークが来て8月は既に寒い。短い夏を目一杯楽しむ習慣がある。

日本で過ごしやすい季節はいつだろう。京都は桜の季節と紅葉の季節が観光シーズンとなっている。秋は修学旅行生も多い。名所があるから仕方がないが、旅行者が多い時期は過ごしやすい季節とは言えない。それは地元の人間にとって、というだけでなく旅行者にとっても同じ。移動も観光地も宿泊先も飲食店も、とにかく混雑する。

日本で一番過ごしやすいのは、僕は5月だと勝手に思っている。寒すぎず暑すぎず、日も長い。ゴールデンウィークを過ぎたあたりがいいんじゃないか。晴れた日は本当に過ごしやすい。梅雨さえなければ、ジューンブライドも惜しいところだった。だからその手前の5月が、日本で一番過ごしやすい時期だと思う。世間ではちょうど、五月病と言われる時期。

五月病は、その気候の良さも影響している。世界はこんなにも素晴らしいのに、なぜ俺はオフィスにこもって仕事をしているんだ、というその反動というか、天候の良さと身の上のつらさのギャップが余計に症状を重くしているのではないか。花見的な宴会は5月のほうが向いている。桜は散っているが。

僕は長年(30年以上)花粉症を患っており、5月がいい季節だなんてとても言えなかった。花粉症のピークは3月だけど、5月になっても種類が変わるだけで症状は残っている。ここ数年は薬で抑えており、ポケットティッシュを持ち歩かなくてもたいていは困らなくなった。今やっと、5月がいい季節だと言える。

5月にもなると、夏に向けての高揚感もある。梅雨になると気持ちは下がってしまうが、その手前ではまだ盛り上がっている。夏よりも冬の寒い時期のほうが好きという人のことをレックさんは信じられなくて、「ハワイとシベリアだったらシベリア選ぶってこと?」と言っていた。暑いのや日差しが苦手な人とか、ウィンタースポーツ好きな人に冬派が多い。シベリアはなくても、ハワイよりフィンランドを選ぶ人だったいるんじゃないか。アキ・カウリスマキの映画で見たヘルシンキの街は、ひどく寂れていた。

冬に寒いところへ旅行したことが、二度あった。雪山ではなく観光旅行。カナダのトロントから、ケベックへ旅行した。あれは冬に行って良かった。国内も北海道へ行った。11月だったからまだ本格的な冬ではなかったけど、雪は降っていたし積もっていた。それ以外の旅行はだいたい夏か、暖かい土地。日が短い季節は、どこもだいたいオフシーズンだったと思う。観光客がいないから、飛行機もホテルも1年で一番安い。でもオフシーズンは店が開いていない。

大阪に対する特殊な思い入れ

一言で言えば、憧れ。大阪に対しては恋愛感情と言うよりも、憧れがある。大阪恋物語でも大阪LOVERでもなく憧れ。

大阪には合計3年住んでいたんだっけ。市内に住んでいた。街中で便利で過ごしやすかった。東京に住んだことがないから、東京の住心地は知らないけれど、大阪市内は狭い範囲に住宅も店舗もオフィスも混在している。梅田から難波まで歩いて行けなくもない。一度東京駅から渋谷まで歩いたことがあって、それより近い。

一時的に大阪を離れていたときは、大阪に帰りたくてカラオケで大阪LOVERを歌っていた。なんだろうあの感情は。大阪には気取らないかっこよさがある。

  • 大阪すなわち大阪人
  • 大阪でよく行ったところ
  • 大阪のお笑い芸人
  • 大阪憧れとは
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ヒトコトへの回答㊲:村上春樹のまとめについて

このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。それをときどき拾って回答してたりします。

86通目:村上春樹のまとめについて

はじめまして。

数えたんですね?
数えちゃったんですね?!

もう、そんなことしてくれちゃってありがとうございます。
久々にブログを読んで声を出して笑いました🤣
そして村上さんの小説の本質をきちんと書いてくださってありがとうございます。
80年代終わりからずっと読んでいる1ファンとして感謝します。

このメッセージは、こちらのまとめを読んだ感想だと思います。

5年前に書いたものだけど、ここでこの数年一番見られているのがこのまとめで、あまりにもふざけた内容だから、胸を張って誇れるわけでも なく、人に勧めることもできない。

今手元にねじまき鳥があるから、再読して追加しようと思っていた。上巻を読んだところで数ヶ月止まっている。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。

ボーイミーツガールには、素敵な出会いが必要だ

選書「彼女の思い出/逆さまの森」を読んでいた。4つ目の話「ボーイ・ミーツ・ガールが始まらない」は、ニューヨークに住む冴えない男、ジャスティン・ホーゲンシュラグの物語を書きあぐねる作家の話。ホーゲンシュラグはバスの中で見かけたシャーリー・レスターに一目惚れをする。しかし作家は素敵な出会いの場面を書くことができず、ボーイミーツガールは一向に始まらない。

これは架空の物語について書かれた短編だけど、世間でよく言う「出会いがない」ってこういうことだったのか、と思った。街を歩けば恋愛対象になる人とたくさんすれ違う。しかし出会いがないと恋愛は始まらない、という意味か。僕はずっと「出会いって何だ?」と思っていた。難しいな、出会い。出会いについて、あまり自覚的でなかった。日本語では「縁」という言葉のほうが的確かな。

恋愛的なことに上手く行っている人だったり、テクニックのある人というのは、きっとこの出会いなり縁を演出するのが上手い人だと思う。「これは素敵な出会いだ」と相手に思わせるのが上手い人。その「なにかの縁」は、巧みな相手によって作られた演出かもしれない。もともと上手い人もいれば、本を読んで試行錯誤したり、数多く失敗を重ね技術を磨き上げた人もいる。何事も経験豊富な人がその道に秀でているように。

「出会い」や「なにかの縁」をただ待っている間に、生まれ持った物や磨き上げた物が優れた人にかすめ取られた経験のある人は、少なくないと思う。待っているだけでボーイミーツガールが始まる人は、狙われる対象か、よほど運がいい人のどちらかだろう。

僕自身はサリンジャーが描くような、始まらない恋愛の話が嫌いではない。その始まらない人物に好感を持つ。共感するような「素敵な出会い未満」の経験があっただろうか。あったとしても、あったと言えないぐらい些細な段階で終わっている。若い頃は特に、誰かに好感を持ったところで、何もできなかった。技術や才能はもちろんなくて、ただ待つことさえなかったかもしれない。だから片思いの記憶というのもあまりない。

自分がこれまで恋愛的なものにこぎつけたきっかけは「素敵な出会い」によるものではなかった。今でも演出とかできない。技術もない。自分がやってきたのは、お互いの話ができる人と、接点を多く持つこと。それだけだったと思う。そこには積極的になった。でもそういう人と知り合うにあたり、「出会い」を積極的に求めていたかというと、そうでもない。身近にいた人や、たまたま知り合った人とそうなった。

だからこれまで「出会いがない」という言葉にピンとこなかった。でもこの短編を読んで、人がそういう「素敵な出会い」をきっかけに関係を進めているんだなと、なんとなく思った。それはどちらかの演出によって生まれたものかもしれないし、偶発的なラッキーかもしれない。そういえば「運命」とか言う人もいるな。「運命の出会い」までいくと、それは本当に信仰に見えて近寄りがたい。

2023.1.7

今年もレコードを買いに行った。

去年タイ音楽を調べているとき、クルアンビンを見かけた。聞いてみて、とっつきやすい音楽だと思った。欲しいと思っていたら、たまたま近くで売っていたから買った。これから聞いてみる。

年末に、暇な時間がほしいと書いていた。

暇な時間があることをどう実感できるだろうと考えていたら、一つは日記だった。暇なときは日記を書ける。こういうweb日記よりも、手書きのメモなり手帳にて日記が書けたら、それは比較的時間と気持ちの余裕がある日だ。余裕がなければ日記なんて書いてられっか、ということになる。手書きだとなおさら、生活の合間合間に時間がなければできない。

「彼女の思い出/逆さまの森」を読んでいた。一番最初に収録されている「彼女の思い出(原題:A Girl I Knew)」を読んだ。20ページほどの短編。めちゃくちゃ好きな内容だった。これもサリンジャーの戦争小説。実話がモデルになっていそうな、つまり、そのへんにありそうな恋愛小説。留学先で同じアパートの下の階に住んでいた女の子に惹かれ、お互い英語とドイツ語の練習をする。そのうち相手には婚約者がいることがわかって、友達のままの関係が続く。

前の「このサンドイッチ」もそうだったけど、センシティブな青春文学やグラース家の物語だけではない、戦争文学としてのサリンジャーを見直す形になっている。新潮モダン・クラシックスのシリーズよいですね。2つ目の「ヴァリオニ兄弟」は、変な話だった。シカゴ近郊の売れっ子ミュージシャン、ヴァリオニ兄弟の話。