ふと思ったこと

とある本を読んでいて、誰かと誰かが一緒にドラッグをキメて以降親しくなった、という話があった。よくあることだと思う。僕も実際にあった。カナダでジェシーと仲良くなったきっかけはポットの共有だった。もっと一般的な話だと、お酒の席を共にしてから仲良くなったとか、喫煙ルームで一緒にタバコを吸うことで仲良くなるとかあると思う。さらにもっと一般的な話で、一緒に食事をすることで仲良くなるということなら、けっこう誰でも経験しているんじゃないか。

ドラッグでもお酒でもタバコでも、食事でも、やっていることは根本的に変わらない。参加者同士が互いに快感を共有する、という点でそれらの行為は共通している。フェスとかライブとか、一体感のある催しも同じ。より簡易で汎用性が高い手段が、食事やお酒となる。もっと言えば性交渉。これほど直結的に快感を共有する手段も他にない。

つまり、一緒に飲みに行きたいとか、一緒に食事したいと言って誘うのは、セックスしませんか?と誘うのと同義だと思うんですよね。ややライトなだけで、やっていることは根本的に変わらない、快楽の共有。違うのは段階だけ。ここまでだったら共有できるけど、この先はちょっと、となれば、食事はできるけどセックスはできないのは、付き合えるけど結婚はできないようなもの。程度の違いこそあれ、本質的には同じ。

普段は全く意識しないけれど、食事に誘うことは、飲みに誘うことは、セックスに誘っていることとあまり変わらない。手段は違えど、いずれも快楽の共有を提案している。飲み会の後で仲良くなるのは、セックスの後で仲良くなるのとどれだけ差があるのか。ジェシーは男性だったけれど、一緒にポットでstonedしてそれ以降仲良くなった。まあそういうことだろう。

僕はだいたいそういうのに抵抗がない人に好感をいだきやすい。つまり、快楽を得る刺激に対して抵抗のない人。だから飲酒、喫煙者大歓迎だった。飲酒喫煙の習慣がある人は、だいたいにおいて刺激快楽の摂取のハードルが低いと思っていた。好奇心が強く、刺激に対して前向きになれる人。ただまあ好き嫌いはあるから、お酒が苦手、タバコが苦手、セックスが苦手、それぞれあると思う。僕は食べることが苦手だから、太っている人や食べ放題が苦手だった。

反対に、無意味に保守的で消極的で抵抗の強い人は、めんどくさいと思っていた。ノリが悪いとかっていうのとはちょっと違う。なんかその、自らの足で踏み出す好奇心のない精神性とは、付き合うのがめんどくさい。きっと刺激や快楽に耐性がなく、その分恐怖心が強いのだろう。ビールが飲めなかったり、ブラックコーヒーが飲めなかったり、辛い食べ物が苦手だったり、刺激を楽しいと思えない人とは付き合いにくかった。

それも結局は程度や分野の違いで、エクストリームスポーツをやれと言われたら、あんまり乗り気になれない。バンジージャンプやスカイダイビングだって、機会があればきっと平気だけど、わざわざやろうとは思わない。SMとかも無理だし、音楽フェスも興味ない。海外バックパック旅行は平気。それが相性と呼ばれる部分なのか、きっと違う。

好き嫌い、苦手なことはそう主張すればいいだけで。僕の言う苦手な精神性というのは、ためらったり決断できなかったり、興味はあるけど踏み出せないような、好奇心に振り切れないじれったさにあるのだろう。いろんなファックをしてきたし、ファックと意識しないファックをしてきたんだと思う。断ればいいんだから。

接客態度に文句を言うか、もしくは

面と向かって言う人もたまにいるけれど、後で愚痴をこぼす人が多い。接客態度。僕が今読んでいる本は、行く店行く店での接客態度のついての文句がよく書かれている。人からもときどき聞く。気持ちはわからんでもないと思うときもあれば、気にしすぎ、過剰に求めすぎ、期待値高すぎと思うこともある。

僕はあまり、接客態度を気にしないほうだと思う。実害を被る場合はその場でなんとかしてもらうけれど、ただの接客態度についてあれこれ文句を言った記憶はない。態度が悪いとか、そもそもあまり思う方ではない。「お客様に対してなんだその態度は!」「愛想が悪い!」などと思うようなことが、普段からあまりない。

ただそれでも不快に思うようなことはある。説明が何言ってるかわからなかったり聞き取れなかったり、長い時間待たされたり、違うものを出されたりして、もう無理かなと思ったらあきらめる。「あ、もういいです」と言って店を出る。そしてもう利用しない。よほどムカついたら★1をつけるかもしれない。やった記憶はない。

それは損切りに近い。早く切り捨てて忘れる。もともとサービスに金を払う方ではないし、必要以上、値段以上を求めることもない。期待値が高い方ではない。だから接客態度が悪かったとしても、わざわざ怒ったり愚痴ったりはしない。早々に現場から離脱して、リストから外すか、除外リストに入れるだけ。

ときどきいるのが、文句を言いながら利用する人。文句を言うなら利用しなければいいのに、それでも利用するなら文句言わなければいいのに、と思う。文句を言いつつも利用するという、その心理はなんなんだろう。代わりが効かないなら仕方がないけれど、大抵の物事は代わりが効く。ただ文句を言いたいだけなのだろうか?

僕だったら、文句を言いたくなるような相手とはもう関わりたくないと思うんだけど、繰り返し関わっては文句を言うのは、そのやりとりそのものが楽しいからだろうか。憂さ晴らし?

おもしろい人

おもしろい人ってなんだろうな、と思う。自分の好みでしかなく、他の人が言うところのおもしろい人と、自分にとってのおもしろい人は全然違うという前提で、それでも自分が、誰をどういう基準でおもしろい人認定をしているのか、はっきりしない。考えてみよう。

最近「この人おもしろいんじゃないか」と思った人は、note経由で見かけた人だった。フォロワーとか全然少ない人。このあたりはポイントかも知れない。おもしろい人はフォロワーが少ない(多くない)。メジャー認知度は低い、大衆受けしない。

その人はnoteひとつあたり2万とか3万字書いており、こんなの誰が読むんだよと思う。研究成果とか、論文に近い内容。無料だったり有料で公開している。どうやら本業は別にあり、趣味のようだ。かなり力が入っており、きっと膨大な時間が割かれている。これは楽しいのだろうか?おそらくこういう作業に慣れているのだろう。

僕はそういう文章を書くことに慣れていないから、2千字程度でひーひー言ってる。かつてはてなブログで頻繁に更新していた頃も、更新作業はとても大変な思いをして、時間をかけていた。楽しいかって言うと、大変なことのほうが多い。特に報われるわけでもない。他にやることがなかった。

だから意味もなく無益な文章を平然と2,3万字書かれているのを目の当たりにすると(それは実にしっかりした文章なのだ)、論文とかたくさん書いてきて慣れてるんだろうなーとか、もしくはこの人はいったい何をやっているんだろう?と軽く狂気じみたものも感じる。

「趣味が高じて」とか「好きの発露」とか「熱量」なんて全然感じない。淡々としている。よくまとまっている。しかしはっきり言うと、読んでいてもそんなにおもしろくない。エンターテインメントらしき痕跡はない。ただそれでも、この人はおもしろいんじゃないかという予感がする。まだ確度は低い。

単に、自分ができないことを平然とやってのける人に、憧れや関心を抱いているだけなのか。まあでも自分からすると、その人がどういう姿勢でそんなことをしているのか、興味がある。でも普段から言ってることが難しすぎるから、おそらく理解できない。

おもしろくない人

こんなことはわざわざ書かなくていいんだけど、対比としておもしろくない人。タイムラインを眺めていて、この人本当におもしろくないよなーと、つくづく思う人がいる。それは当の本人も自覚しているようで、もしかしたらそういう扱いにも慣れてるかもしれない。

言い訳するようだけど、その人は直接の知り合いで、5年来の付き合いになる。長らく会っていないが、お互いのタイムラインは見ていてときどきやりとりすることもある。仲が良ければいい人。ただ決定的におもしろくない。話していてもつまらない。

何がそんなにおもしろくないんだろうと考えてみたら、とにかく中身がない。表面的なことしか言わない。あとすぐに人の意見であったり、人の話が出てくる。自分の意見は?自分の頭で考えるということを知らないんじゃないかと思う。もしくは、考えた末に何も出てこないか。自分の意見を表明したり、言語化するのが苦手、というよりも、空っぽな感じがする。意見が元から何もない。

僕も全然興味がない分野の映画を見たりして、おもしろいつまらないどころか、なんにも感想が持てないことがある。なんだったのこれ、自分にはピンとこなかった、って僕なら言う。でもその人は「おもしろかった」などと言う。この人のおもしろいって言葉はなんなの、と思う。

その人は、好きなものが全然見えてこない。感動とか本当にするのかな?僕は何度か泣いている場面に遭遇したことがあるんだけど、なんていうか、他人がこういうふうに言うのは本当によくないと思うんだけど、涙が軽い。徳光和夫か、探偵ナイトスクープやってた頃の西田敏行かと思う。

その人は勉強ができて、仕事もできる。運動もできる。見た目もよく、友達も多い。けれど壊滅的につまらない。自分を肩書や属性で語ろうとする。何かそういうわかりやすい属性がついていると、自分のアピールになると思っているのかもしれない。でもよく話してみると、深みがない。その分野、本当に興味あるの?と思ってしまう。ノリと雰囲気しか感じない。もしくは箔がつくと思っていたのか。まさに箔でしかなかったようだ。

または、自らの能力を生かして、役割で自分を語ろうとする。僕なんかよりよほど有能で、得意不得意はあれど、どの現場でも何らかの形でだいたい重宝する。個人としての面白味には欠けるけれど、人脈もあって役に立つ人間だ。だから初対面なんかでは、この人はきっとプライベートでもユーモアがあって魅力的な人なんじゃないか、と勘違いされる。人の悪口が長くなってきた。

おもしろい人除外認定は、わりとはっきりしている。虚勢を張る人は、まず除外される。雰囲気だけの人とかも除外される。おそらく世の中には、実態や本質よりも「〜風」が重視される場があるのだろう。それは飽くまでおもしろ風でありおもしろい雰囲気であって、おもしろくはない。傾向として、何事もおもしろいおもしろい言う人ほど全然おもしろくない。

個性というか、本人性を感じない人も除外される。その人の要素を感じないということは、別の人、もしくはロボットのような物体と会話をしていることとそんなに変わりがない。世の中には薄味が好きな人もいるだろうし、だいたい人に対しておもしろさなんか求めていない、それこそ役割や能力重視っていう人だっているだろう。僕がそうじゃないというだけで。

飲酒喫煙外交

今思えば、酒の席で人と仲良くなることが多かった。打ち解けるというか、認知されるというか。自分はお酒に弱いため、飲んでしまうと結果的に羽目を外すことが多かった。それで失敗したり怒られたこともあったが、どちらかというといい結果の方が多かった。次の日に知らない人に顔を覚えられていたり、名前を呼ばれたりして、こちらは全然記憶にない、ということがけっこうあった気がする。

飲み過ぎると記憶をなくすから、誰と仲良くなったか覚えていない。自分の振る舞いさえ覚えていないことがときどきある。それがよくないなーとは思いつつも、飲む前より飲んだ後の方が、周りの僕に対する印象が良くなっていることが多かった。何故か。おそらく、普段は物静か、大人しい、無口、話しかけづらい、イライラしている雰囲気なのが、酒の席では多弁で気安くなるのだろう。酔っ払ってタガが外れて、実は明るい人、愉快な人、みたいに思われるんだと思う。

いや、まあなんつうか、そんなことあったなあという思い出です。今はどこにも所属しておらず、そういう機会がない。お酒を飲むのはだいたい家で一人か、奥さんと飲むだけ。お酒は、もともとずっと、毎日家で一人で飲んでいた。人と飲む機会はときどきあったぐらい。進んで参加したり開催したり人を集めたりするようなことはなかった。自分にとっての飲酒は習慣みたいなもんだったんだけど、人と飲むときは外交手段として役に立っていた。

タバコも同じ。2年前に禁煙を始めて、今で2年と2ヶ月続いている。タバコをやめてよかったと思うことはない。タバコがきっかけで人と話すことは多かった。特に、団体で活動するとき。昨今では喫煙者も少なく、喫煙スペースも狭いため、必然的に距離が近くなる。タバコを吸っていなければ、顔も名前も知らず、話すこともなかった、という人はたくさんいる。それはお互いがそうだ。

喫煙所でタバコについて話すことは滅多にない。タバコを吸う人が喫煙所に来ているだけで、タバコが趣味だとか特別タバコに思い入れがある人たちではない。喫煙所では、ただタバコを吸うついでに、日常の雑談をするだけ。そういう機会というのが、普通に生きていると意外と少ない。滅多に無い。休憩しているときに話しかけたりしない。食事をするときは、見知った間柄の特定の人としか行かない。喫煙所には本当に、そこでしか接点の無い人たちがたくさんいて、そこでしか広がらない会話があった。

だから、喫煙外交はうまくいっていた。喫煙外交に失敗したという人の話をきいたことがない。誰にでも開かれた機会が、喫煙所にはあった。今の僕にはそういうのがなくなったんだけど。

今思い返してみれば、場の影響によって無意識のうちに、人と打ち解けていた。人とのつながりを広げようとか、人と仲良くなるために、そういう意図というか野心を持って、酒を飲んだりタバコを吸うようなことはなかった。団体に所属しなくなり、飲酒喫煙外交の機会もなくなり、人と打ち解ける必要もなくなった。

謎の独立国家ソマリランドによると、ソマリランドではカート宴会というカート(麻薬の一種)を貪り食う集まりが社交場の役割を果たしているそうだ。飲み会や喫煙スペースのなくなった日本社会には、人と人が打ち解ける機会はあるのだろうか。むしろ酒もタバコも呑まないという人は、一体どうやって不特定の人と仲良くなるんだ。スポーツとかか。

コロナ定期

コロナコロナ言い出してから、1年と3ヶ月ぐらいか。さすがに今の状況に慣れてしまった。数字がどう変わっても、もうあまり心が動かない。今はデルタ株が大変で、去年よりも年始よりも感染しやすい状況かもしれない。でもあんまり、なんとも思わない。やれることがない。

今まで通りマスクをして、人に会ったり外食を控える、そんだけ。何も変わっていない。初期に比べると、映画館といった感染リスクの低そうなところには、多少なりとも出入りするようにもなった。そのあたりは変化かもしれない。再生産数に応じて、外出の頻度を調整している。

早くワクチンが回ってくればいいなと思う。接種券は届いているが、まだ予約はできないのかな?案内がよくわからない。集団接種会場は8月以降のようだ。

イスラエルやイギリスといったワクチン接種が行き届いた国でも、感染数はまた増えている。第5波だって。しかし、重症化する数が極端に減っており、ワクチンの効果があったという認識みたいだ。だから我々もただ、ワクチンを待つのみ。

生きた証を残したいか?

ときどきこういう話が出てくるので思ったことを。

先日、「されどわれらが日々ー」という本を読んでいた。1964年の古い小説で、人生の無意味さに絶望して生きる気力を失い、自殺する人物が出てくる。もう一人、自分の人生を取り戻すために結婚を断って自活する女性が登場する。主人公はまた別にいて、何にも感動することのない、空虚な人生を自覚的に生きる人。

他にも何人か登場するが、主題となるのはこの三人、主に最初の二人だった。

1.人生に絶望して自殺する人
2.人生を取り戻すためにやり直す人

彼らは生きる意味であったり、生きがいのようなものを求めていた。この小説では「死に臨んで、自分は何を思い出すか」というテーマが鍵となってくる。

これからどんなに努力をして、地位や名誉を築き、幸せな家庭に恵まれたとしても、死ぬ間際に思い出すことは「自分が裏切り者だ」ということ。そのことに絶望して、1.の人物はこれからの人生を生きる気力を失う。

「死に臨んで、自分は何を思い出すか」2. の人物は、何も思い浮かばなかった。これまでの人生において、自分の意志を持たず、考えたり行動するよりも、周りに流されて生きていた。自分が空っぽだと思った。このまま結婚して、何もないまま生涯を終えてしまうと、きっと絶望してしまう。そう思って彼女は結婚を断り、自分の人生を生きることを決めた。

僕が誰に近いかと言うと、3番目の主人公が一番近いと思う。ただ僕はそんなに人生が空虚だとかそういうことに対して、落ち込んだことはない。もともと期待していなかった、と言ったほうが正確かもしれない。

「死に臨んで、自分は何を思い出すか」、というテーマは、自分の「生きた証」のような話かなと思った。「生きた証」がろくでもなかったり、何も残らなかったりすると不安なのだろうか。

少し前になるけれど、はてブに上がっていた不妊治療の記事を読んだ。そこには年老いていく男性の、死に対する不安が書かれていた。

「ふと……ものすごく怖くなったんです。それまで人生の終わりを意識したことはなかったんですが、生まれて初めて、自分は日一日と死に近づいてるんだと実感して。いつか自分という存在は、この世から消えてしまう。それを考えると、ぞっとしました」
夜、寝床で目をつぶると、「自分の体が暗い液体になって、闇に溶けてしまうイメージを想像するようになった」という。
「ああ、僕はここで“途切れる”んだ、と。その恐怖を回避するには、自分の次世代を、つまり子供を作ればいいと思い至ったんです」
石岡さんはその時のことを、「頭の霧が晴れるようだった」と形容した。

個人的にはこの話、すごく迷惑な話だと思った。そんな身勝手な理由で生まれたら、子供からすればたまったもんじゃない。勘弁してくれよと。僕がこの人の子供だったら、お前の勝手な恐怖心に人の人生を巻き込まないでくれと思っただろう。

この男性は、自分の肉体が衰え、いずれ死ぬことによって自分という存在が消えることに恐怖を抱いたそうだ。そして、子を持つことによりそれが解消されると思ったらしい。これも「生きた証」を残したいという話じゃないだろうか。

僕は全然そういうのない。自分が生きた証を残したい、なんて。そんなもん残してどうするんだ。自分がいなくなった後に何が残っていようと、自分はもういないんだから認識も確認もない。生きた証なんて、あってもなくても同じじゃないか。

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あれこれ理由はなくても何かを好きと言えることはいいんじゃないか

昨今のオタク憧れって、ここに尽きるのかな。何かに夢中になっている姿が羨ましいとかかっこいいとか。それはオタクみたいにめちゃくちゃ時間を費やしていたり金を落としていたり詳しかったりする必要はなくて、ただ「あれが好き」「これが好き」と言えることそのものが、なんというか人生を有意義に過ごしていることになるんじゃないか。

知識マウントとか誰かとの比較とか、あまり意味がないと思う。目的を見失っている。別に、好きだったらそれでいいんじゃないか。方向や歩み方は多様で、ある種みんな仲間だろう。

オタク趣味なんて、かつては好きと表明できるかどうかの葛藤があった。例えばマンガ・アニメ・ゲームを好きと公言すると、白い目で見られる時代があった。それが今や、打ち込んでいたり詳しい対象があること、専門分野みたいなのがあること自体が憧れの眼差しを受けている。オタク憧れが嵩じて、オタクのふりをする人まで現れる始末。

自分の友達で「三島由紀夫が好き」と言ってる人がいるんだけど、彼女は三島由紀夫を読んだことがない。「仮面の告白」も「金閣寺」も「豊饒の海」も知らない。「憂国」も「英霊の聲」も。だから彼女の「三島由紀夫が好き」は、さすがに嘘だと思った。何も知識マウントを取りたいわけではなく、作品を読まずしてどうやって好きと言えるのか。本質を欠いている。

彼らの憧れは、表面的だ。楽しそうにしていたり、詳しかったり、仲間がいたり、目が輝いていたり、そういった結果に対して憧れを抱いている。でも何かが好きな人は、対象が全てだ。楽しいのも詳しいのも仲間がいるのも目が輝いているのも、対象を好きである結果に過ぎない。周りからどう見えるかはどうでもよく、ただ目の前の好きが第一義的にある。対象を好きでなければ全てが嘘になる。

結局は、オタクのフリでもして人生楽しんでいる演出をしたいだけなのだろうか。なんのために?見栄を張るため?人から幸せに見られたいから?そんなことをしている暇があったら、何か一つでも好きなものを見つけた方がいい。

「日本を降りる若者たち」を読んだ

2007年に出た新書。一年の大半をタイ、バンコク、カオサンロードの日本人宿で過ごし、残り数ヶ月だけ日本で働いて生活費を貯めるという、当時一部で流行った「外こもり(海外で引きこもり)」というライフスタイルを調査した本。どういう人が「外こもり」の生活スタイルを行っており、どういう背景でそこに至ったか。年齢は、きっかけは、収入源は、10数人インタビューしていくなかで、その分類と傾向が見えてくる。また、外こもりの現場としては主にタイを取材しているが、カンボジアや沖縄の話も少し登場する。

著者は旅行ライターの下川裕治。もともとは格安航空券を紹介する本で有名になった人。ガイドブックや紀行文、旅コラムのような本もたくさん出ている。この「日本を降りる若者たち」のような、ある種ジャーナリスティックというか、ノンフィクションめいた著作は、旅行本界隈では珍しいんじゃないか。楽しさや冒険、波乱万丈を描く旅行本が多い中で、「日本を降りる若者たち」では旅の裏側、現実、ダークサイドの実態調査を行っている。

ここに出てくる人、書かれていることは、ほぼ自分に当てはまると思った。全部が全部思い当たる。同時に、全部が全部自分ではない。例えば、第三章「ワーキングホリデーの果てに」に書かれていることは、ワーキングホリデーに行った人の半分ぐらいは当てはまると思う。

漠然と海外で暮らしたいと願っている若者は少なくない。そんな若者にとっても、ワーキングホリデーは都合のいい手段なのだろう。働くこともできるし、仕事がなければ英語学校に通えばいい。しかしそこで味わう生活には寂しさがつきまとうことが多い。自分から輪のなかに入っていかないと友だちもできないスタイルが欧米型の社会だ。日本人のなかにはそれが苦手な人が多い。
「前にがつがつ出ていくタイプじゃないんです。妙なところでは我が強いけど。オーストラリアでも、うまく溶け込んでいく人を見ていると、そういうこと、自分にはできないなって思っちゃうんです」
こういうタイプはやはりアジアなのだろうか。控えめが美徳であるという風土…。その言葉は肩の力が抜けるように響くのかもしれない。 P76-77

前半は、自分もそういう思惑でカナダへ行った。なんとなく海外の生活を体験したいというのが、一番の目的だった。学校も行ったし、アルバイトもした。ただまあ自分はその生活が寂しいとは全然思わなかった。話す人も、遊びに行く人もいた。現地のカナダ人、他の国から来ている人、自分と同じ立場の日本人、まんべんなく付き合いがあった。一人でも楽しかった。特に自分から前に出ていく方ではないけれど、住んだ家とかたまたま周りの環境がよかった。あと英語がある程度わかったのも大きい。

ワーキングホリデーでカナダやオーストラリアに来ている人は、半分以上が英語が全然ダメだった。僕も現地の語学学校に半年通ったから、そこそこになっただけ。ほとんどの日本人は3ヶ月とか、短い期間しか学校へ行かない。しかも最初のレベルが低い。英語が全然ダメでも、外国人と仲良くなる人はたくさんいる。そのあたりは性格に左右される。引っ込み思案で言葉もダメとなるとなかなか難しい。向こうへ行っても結局日本人とばかり一緒にいる人は、そういう人だったのかな。

ワーキングホリデーに行く人は、よくも悪くもこの本を先に読んでおいていいと思う。 #ワーキングホリデー #オススメ #ガイドブック #日本を降りる若者たち ぐらいで考えてもいい。ワーキングホリデーの前向きな情報を紹介する本やサイトはいくらでもある。この本でネガティブな側面、決してネガティブとも言い切れない側面を、まとめて読めるのは都合がいい。

他にも、自分には当てはまらないけれど留学リベンジ組や、シニアロングステイ組、鬱病回避型など、幅広い事例が紹介されている。この本が出てから10年以上経った今のバンコクでは、もう成り立たないかもしれない。ここに書かれているカオサンロードは、かつての桃源郷の姿かもしれない。旅行の文化史として読んでもおもしろいと思う。ただ僕は正直、ここに出てくる人たちのそれぞれが全く他人事ではない。

自分もこうだった、自分もこうなっていたかもしれないという身近な事例が満載で、心穏やかに読み進めることができなかった。自身が逃避先として外国に出たのは全く同じ。以前に感想を書いた本で「アジアンジャパニーズ」というものがある。「日本を降りる若者たち」は、言うならば「エモくないアジアンジャパニーズ」、「アジアンジャパニーズのなれの果て」。あの本を興味深く読めた人も、読みやすいとは思う。一見してやはり、暗いことばかり書かれている。

中には、あまり共感できなかった点もある。僕はそもそもタイやカオサンにそれほど魅力を感じなかった。僕が初めて行ったのが2011年だから、2007年当時とは様相が違うのかもしれない。東南アジアの大都市で、娯楽も観光地もある。コンビニ、スーパー、屋台、ショッピングモール、電気街、クラブ、ゴーゴーバー、なんでもある。少し移動すればタイ人だけが暮らす地域もあり、バスや電車で田舎にも行ける。便利だと思う。

でも、行ってもやることがないなーと思った。僕は観光旅行で行ったからそう思っただけで、生活の場となるとそもそもやることなんて求めないだろう。トロントもやることはなかった。単純に、タイにもタイ語にもタイ人にも特別な魅力を見出していないだけかもしれない。タイ語を学んで現地就職を目指す人のことも書かれていたが、全然やりたいと思わなかった。

もう一つ。僕は日本人宿に行ったことがない。外国へ行ってまで、あえて日本人ばかりのゲストハウスに泊まる意味がわからなかった。日本人宿のメリットは、旅行者だと情報交換ができたり旅の仲間を探せたりする、と言う。これは別に、日本人宿じゃなくてもできる。宿泊客が日本人同士で、生活習慣の違いを気にしなくていいとかもあるそうだが、僕はそういう日本らしさからの逃避で外国に行っていた。外国へ行ってまで日本の習慣なんて、まったく求めていなかった。

だから、これらカオサンの日本人宿を中心とした「外こもり文化」とは、基本的に相容れない部分も大きい。その源流となるバックパッカー文化も、乗れないところがたくさんある。それでもなお、彼らの話は一部僕の話であり、僕が憧れた部分もあり、自分がこうなったかもしれない姿だった。特に精神を患って、日本社会から脱するために「外こもり」をしている人の話では、日本で無視され続けた人間の行き着いた先にカオサンがあり、国内における社会病理の逃げ場として機能しているところなど、自分や身の回りの現実とめちゃくちゃリアリティを持って重ね合わせ、考えることができる。この本を読んでいると、思い浮かぶ顔がいくつもある。彼は、彼女は元気でやっているだろうか?同様に、僕の顔を思い浮かべる人もいるかもしれない。

「生まれてこなければよかったのか」という問いについて

反出生主義についてWikipediaを読んだり軽く記事を読んだ程度で、本は読んでいない段階。

まず、「生まれてこないほうが良かったのか?」という問いがあるらしい。自分はどうか。傷つきやすかった頃なら「生まれてこないほうが良かった」と答えた。もしくは、逃げ場がなかったり逃げる手段がなかったら「生まれてこないほうが良かった」と答えただろう。

今の自分の答えは、「どちらでもいい」になる。「生まれてこようがこまいが、大差ない」「どちらも大して変わりない」というのが、今の自分の答え。それなりに嫌なことはあったが、死ぬほどではなかった。今の今までなんとかのらりくらりと生きてこれた。かといって、「生まれてきてよかった」などとは思ったことがない。生きてきて一度もいいことがないわけではないけれど、それが「生まれてきてよかった」などと思えるほどのことではなかった。出生が、ないならないでいい。どちらでもいい。

生まれてこないほうが良かったのか? 哲学者・森岡正博さんと「反出生主義」を考える|じんぶん堂

「生まれたせいで人に迷惑かけた」とか「生まれたおかげで人と出会えた」とか、人のことは僕は割とどうでもいい。自分が人に影響を与えようと与えまいと、それは本人の問題だ。人がどうなろうが、僕は知ったこっちゃない。同時に、誰かと知り合えた程度で、自分の出生を肯定できたりはしない。自分の人生は自分だけのものだ。人との出会いで左右されることはあっても、他人に人生を明け渡したりしない。

だから反出生主義における「地球に害をなすから」とか割とどうでもいい。害であるかどうかは地球が勝手に判断すればいい。俺には関係ない。「だから子供を産まないべき」と思う人は、そうすればいい。自分はどうでもいいと思ってしまう。「生むことが暴力」だと思うんだったらやめたらいいだろう。その人の自由だ。僕自身はやはり、それは子供本人が決めることだと思う。子供が「暴力の被害を受けた」と訴えるなら「エゴでお前を作ってスマンかった」と言うぐらいのことはできるんじゃないか。それぐらいの責任は親にはあるだろう。

私たちは「生まれてこないほうが良かったのか?」哲学者・森岡正博氏が「反出生主義」を新著で扱う理由 | Business Insider Japan

出生の肯定はどうすればできるか。自分の場合「〜があるから生まれてきて良かった」などとは言えないが、生まれてきてよかったことが一つもないわけではない。経験できてよかったこともある。それも出生の肯定と言える。ただし、同時に生まれてきたせいで負った苦痛もある。それが反出生主義における出生否定の要素になるのだろうけど、僕の場合はそこまでではない。「生まれてこなければよかった」という程の苦しみ方はしていない。そもそも出生を肯定する必要なんてあるのだろうか?

「死にたい」と思うことと「生まれてこなければよかった」と思うことはまた別物らしい。「死にたい」と考えるのではなく「そもそも生まれてきたのが間違いだった」「子は残さないべき」と考えるのが反出生主義だそうだ。結果を求めるのではなく、原因を求める思想か。

僕はやっぱり、「生まれてこなければよかったのか」という問いに対して、「どっちでもよくね?」と答えてしまうなー。人に迷惑かけるとか本当にどうでもいい。

素晴らしきこの世界、と言える人は、幸福の総量が多いか感度が高い人

地方在住者だけど、ようやく知り合いに感染者が出た

「やっとここまで迫ってきたか」という印象。コロナで騒いだ2020年は、マスクをしたり消毒したり外出・外食を減らしたりしつつも、意識としてはやや傍観者的だった。なぜなら知り合いで感染した人が一人もいなかったから。コロナ禍が自分の身の回りで起こっている出来事というより、東京、大阪、もしくはロンドン、ニューヨークでのできごとであるような体感があった。

東京大阪にも知り合いはいるが、やはり感染した人はいない。知り合いの知り合い程度になると、さすがに何人もいる。直接の知り合いが感染したという話は、今回が初めてだった。それが同じ市内の人であり、「自分が感染する」という状況がかなりリアリティを持って近づいてきた印象を受ける。それでも基本的な感染対策はこれまでと変わらない。Go Toはなくなるだろうし、旅行したり外食することは減るかな。

感染のその後について、既にたくさんの事例がある。無症状のまま復帰する人、症状が出て元に戻った人、重症化して治った人、今も後遺症が残っている人、亡くなった人。日本ではこれまでに24万8576人感染し、そのうち3472人が亡くなっている。世界全体では8560万人が感染し、185万人が死亡している(1/5時点)。基礎疾患なしで死亡する例もある。若年者や30代、40代で重篤化した人、亡くなった人もいる。

自分がいつかかるか、どこでかかるか、かかったとして、誰に伝染すか、症状がどの程度になるかは全くわからない。予防はしているが、予測はできない。統計的には、基礎疾患がない若者・中年は重症化しにくい。でも重症化した事例もあり、その一人にならないとは限らない。

言い方を変えれば、運が悪ければ感染する。運が悪ければ重篤化する。運が悪ければ死ぬ。いつ誰がどうなるかはわかったもんじゃない。

唯一できることは、感染機会を減らすことだけ。コロナは人を媒介して感染しているから、人との接触、二次的な接触を減らし、感染のきっかけそのものを少なくする。それで確率は下がる。極端な話、誰とも接触しなければ絶対に感染しない。山奥で一人で生活していたら、まずコロナとは無縁の生活を送れる。現実にそういう生活ができる人は稀で、僕自身も無理だ。かろうじてできること、かつ有効な手段は、無闇矢鱈な接触を避けること。後は運次第。今までと変わらない。

これまでのコロナについての感想

酒をやめる風潮

最近けっこう感じる。まず最近の若者は酒を飲まなくなったと言うし、僕らのような中年以降にも酒をやめる風潮があるように思う。というか実際やめているという話をちらほら聞く。昔は酒も健康にいいとか、酒は万薬の長とか言ったけれど、現代では普通に体に悪いという結論で落ち着いている。

僕は15年ぐらい吸っていたタバコを昨年からやっと控えているところで、酒をやめるなんて到底無理な感じだ。ほぼ毎日飲んでいるから。しかしうちの奥さんは全然飲まなくなった。元々家では飲まない人でもあったが、こうやって周りで酒飲まない習慣に固められていくと、そのうち飲まなくなる可能性もある。タバコはまさにそうなった。

だったら酒の代替物はあるのか。タバコに関しては結局なかった。なくて苦しんでいる。もしくは食べる方向に走っている。酒を飲まなくなって、より食べる量が増えたりしたら太って健康を害して本末転倒だ。そうやってドカ食いしてドーパミンを分泌させていたら、酒であろうが食事であろうが一緒なんじゃないか。世の中には依存性の高い油、塩、糖などを控える風潮もあるようだ。それも健康のためなのか?

僕はべつに健康志向ではないから、タバコをやめたのだって健康を考えてではない。人はなぜ酒をやめるのだろう。酒での失敗をなくすため、という話も聞いたことがある。僕はだいたい自宅で飲むから、最近はあまりそういうことはない。酒をやめる必要はあるのだろうか?なんのために…

代わりに筋トレとかジョギングとかやっている人がいる。僕はそういうのやるのが嫌だから代わりにならない。

嫁呼称問題について

自分は男性だからかもしれないが、妻と呼ぼうが嫁と呼ぼうが奥さんと呼ぼうが、そこに前時代家父長制の名残りがあろうが、性差別的意味合いを含んでいようが、本人さえよければ何でもいいと思う。インディアンだって、ネイティブアメリカン、アメリカインディアン、どちらを支持する声もあるそうだから。

たまにトピックとして挙がってくるのは、誰かの奥さんを何と呼べばいいか問題。旦那さんでもいいんだけど、気にする人に向けた適当な言葉が見当たらない。旦那さん、奥さんと呼ばれるのが嫌なら、何と呼べばいいか本人から提示してもらうしかない。結局めんどくさくなって旦那さん、奥さんになる。

自分は最初、自分の奥さんのことをパートナーと表記していたが、字面が長く、意味も伝わりにくくあんまりだなーと思って使うのをやめた。今は奥さんで統一している。人の奥さんを指すときもわざわざパートナーとは言わない。本人が呼ばれたくないなら変えるが、じゃあなんて呼べばいいかは本人に提示してもらうしかない。もしくは社会的に適当な言葉を作って広めてください。統一規格となるまで。Ms.は使われてるんだよね?多分。Mrs.は死語になった。

妻、嫁、奥さん以外にどんな候補があるのか検索してみたが、今のところめぼしいものは見当たらなかった。お連れ様だって、接客ならそれでいいかもしれないけど、知り合いには使えない。他人の奥さんや旦那さんのことなんて、話題に挙げないのが正解なのかもしれない。

もう、ポンタとかでいいじゃないですか。「嫁、妻、奥様、旦那、主人、夫は明日から禁止です!パートナーのことはポンタと呼びましょう!」と菅ちゃんあたりが言えばいい。色紙に「ポンタ」と書いてテレビに出るとか。

大統領選挙だ

大統領選挙ということで、検索して前回の大統領選挙の日記にたどり着いている人がいた。

今回の大統領選挙については何も知らない。ヒラリーはもう出ないのだろうか?前回の大統領選挙でトランプの不正が疑われ、ロシア疑惑?選挙後もいろいろ訴訟などあった気がしたが、それから4年経ってしまった。今回はバイデンというじいさんだ。じいさんということ以外、どんな人なのか全く知らない。副大統領をやっていたらしい。オバマの頃だろうか。

これを書いている現在、バイデンじいさんが264票獲得しており、トランプじいさんよりリードしている。当選には270票必要らしい。トランプじいさんは「不正だ!」と発展途上国の候補者みたいに駄々をこねている。

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アメリカでは今も毎日10万人近いコロナ感染者が出ている中で、大統領選挙。テレビの映像を見ていたら、ホワイトハウスの前にめっちゃ人が集まっている。すげーっす。意外と結構マスクしている人が多い。日本人の報道の人も現地入りしていたりして、本当に命がけだなーこんな仕事嫌だなーと思うばかり。このままバイデンじいさんが大統領になるのだろうか?バイデンじいさんのことは何も知らない。

アメリカ大変そう、と思うばかり。向こうに住んでいる日本人とか、平気なのだろうか。ヨーロッパはアジア人差別が再発しているっぽいけど、アメリカはどうなんだろう。差別嫌だなーと思う。上っ面だけ取り繕った差別主義者ばかりなのだろうか。そうではない人のことも知っている。

消極的ポルノ反対論

ポルノは僕も利用するけれど、利用しておきながら、大まかに言えばポルノには反対です。娯楽としての性産業はなくなっていいと思っている。ただ実際はなくならないだろうし、自分も利用しているから積極的にポルノ反対論を展開するというわけではなく、どちらかと言えば反対、という程度。

自分事で恐縮ですが、ポルノを利用していると、ときどきポルノと現実を混同してしまいそうな錯覚に陥る。ポルノは飽くまでファンタジーなんだけど、そこには現実の人間がいて、限りなく現実に近いシチュエーションがあったりする。ファンタジーだが、客に受けるようにリアリティを追求している作品も中にはある。だから、一瞬現実と錯覚してしまう。

例えば、性風俗のサービスを受けていたとして、その行為の最中に一瞬相手が本当に自分に好意を持っているのではないか、そこまでいかなくても、行為を好意的に受け取っているのではないか、と勘違いすることは大いに有り得る。よくよく考えればそうでないことは明らかなんだけど、客がサービスにハマるのはその錯覚があるから、という場合もある。キャバ嬢に貢ぐ客のように。

例えば、中国の男性の間では「日本=AV」というぐらい日本のAVが見られていると聞いたことがある。彼らは日本の女性が皆AV女優のような女性ばかりだと誤解していないだろうか?間違った認識を与えていることはないだろうか?ファンタジーであることが正しく伝わっているだろうか?不安になる。

そういう勘違いであったり、認知の歪みであったり、錯覚を起こしかねないから、僕はポルノに反対です。例えば毎日ポルノを目にしている人が、現実の女性を目の前にして、ポルノに吐き出していた欲求をその女性にぶつけないかが心配です。ポルノが飽くまでファンタジーであり、現実と錯覚・混同することがない人間のみが、ポルノを利用してほしいと思います。

何より、身の回りの人、家族や親戚や友達が性産業に従事するのは耐え難い。本人が望んで行っているなら応援すべきかもしれないが、そうでない場合はなんとかしようとする。身内さえよければ、他はどうなってもいいとも思わない。だから、やはりポルノには反対。消極的にだけど。

先日転売ヤーについて日記を書いたけれど、転売ヤーも性産業も、買う人がいなくなればなくなると思う。買う人が悪い、とまでは言わないが、売る人間よりは買う人間のさじ加減だと思っている。欲望をコントロールできる人の割合が高ければ、転売ヤーも性産業も滅びるのではないだろうか。

転売ヤーが問題になっているけれど

最近PS5が発表され、予約の受付も開始された。11月発売だそうだ。それに向けて、転売ヤー対策に躍起になっているかと思います。ニンテンドースイッチのときも、転売ヤーが問題視されていた。転売ヤーが買い占め、高額な釣り上げ転売が相次ぎ、公正な値段で消費者の手元に届かないといった問題。

よくわからないんだけど、これって転売ヤーから買わなければいいだけではないの?転売ヤーは自分が使うわけでもないのに定価でたくさんの品を手に入れ、高額な値付けをしてメルカリ等で売りさばく。でも買い手がつかなければ転売ヤーは大損する。損すれば転売なんて行為は続けられなくなる。

なぜ高額な商品をわざわざ転売ヤーから買うのか?食料品のような生活必需品ならまだしも、ゲームなんて市場に出回るまで待てばいいだろう。大金はたいて転売ヤーを育てる行為をやめれば、転売ヤーは在庫をかかえていずれ定価もしくはそれ以下で売り払わなくてはいけなくなるし、それまで待てばいいだけではないのか?

転売ヤー対策が難しいと言われているけれど、買わない対策はダメなのかな?転売ヤーが成立するには高額で買う人の存在があって、彼らはなぜわざわざ転売ヤーから高額商品を買うのだろう。転売ヤーを育てたいのかな?

転売ヤーからは買わない、定価以上では買わない、では済まない話なのかな。必要なもんでもないでしょう。

追記。こういう匿名ダイアリーがあった。

売れてから買うから、転売ヤーにリスクはないそうだ。ただまあ、高値で買う人がいなければ成り立たないのは同じで、転売ヤーをなくしたければ転売ヤーから買わないければいい。定価以下で市場に出回るのをただひたすら待ちましょう。

また、この内容が正しければ、転売ヤーを潰したければ転売ヤーから買いまくってキャンセルしまくれば(支払いしない・返金を確保していれば)、リスク無しと思われてた転売ヤーは損しまくって自滅するんじゃないかな。転売ヤーが購入してからでもキャンセルするうまい方法はあると思うので、よく考えましょう。まあわざわざそんな労力をかけてまで転売ヤー潰しをやる人がいるとは思えないけど。