「家をせおって歩く」を読んだ

最近ネタ元がアトロクばかりだけど、「家をせおって歩く」を買った。村上慧さんという人が、発泡スチロールで作った家を背負って日本中を歩きまわった体験を絵本にしたもの。日本全国を1年ほどかけて周り、その後スウェーデンや韓国にも進出している。

まず、どういうこと?と思う。ビジュアルを見てみるとわかりやすい。犬小屋の底から足が突き出たような外見をしている。2枚目が写真。

発泡スチロール製である理由は、軽いことと断熱材として優秀だからだそうだ。この家は村上さんが自分で作り、歩く経験の中でつぎつぎと改良を加えている。これで1年かけて日本全国を歩き回ったって、やっぱりどういうことなんだろう?この外見を見て真っ先に思い起こすのは、安部公房の箱男だ。箱男を地で行っている。

村上さんが何をやっている人かというと、これが本職です。武蔵野美術大学を卒業した芸術家であり、この「家をせおって歩く」は、文字通り歩く現代アートなのだ。箱男のようなホームレスではない。いや、どの程度違いがあるのか、コンセプトの違いが大きい。村上さんは家をせおって歩きながらも、芸術家として生計を立てている。海外進出は、確か芸術祭に参加するためだった。

冗談ではなく、村上さんはこの「家をせおって歩く」をかなり真面目に、己の活動として実践されている。絵本では絵と写真をまじえて、1年の生活がどのようなものであったか、どんな場所でどう過ごしたか語られている。非常に興味深い、やりたい、できない、かっこいい。ここに思い至ったのがそもそもかっこいい。

ラジオでもその内容に軽く触れられています(音源あり)。

絵本は買って読んだけれど書籍の方は未読です。今はいったい何をされているのだろう?

http://satoshimurakami.net/

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https://ours-magazine.jp/borrowers/murakami-01/

KAWAZOI - 読書メーター

コーヒー好きには絶対オススメしたいアレ

英語には"coffee snob"(コーヒースノッブ)という言葉があって、「コーヒーにうるさい人」とかそんな意味らしい。今回僕がオススメしたい対象である「コーヒー好き」とは、コーヒースノッブのことではない。もっとライトな層。家でもコーヒーメーカーで飲むぐらいのコーヒー好き。特別なこだわりは無いけれど、日常的に飲む人。でもインスタントやドリップバックでは満足できない人。

そんなコーヒー好きに、僕が絶対的にオススメしたいのは…

電動ミルです。

持っている人なら「わかる!」と言ってくれるはず。電動ミルがあるとめっちゃ快適に一段階おいしいコーヒーが飲めます。手回しのミルって、持ってないんですよね。わざわざ買うほどの物でもないし、微妙に高いし、買ったら買ったでコーヒー豆を挽くのは結構大変。時間も労力もかかる。おまけにうるさい。ミル買ったはいいけど使わなくて、毎回店で挽いてもらってるって人も多いんじゃないだろうか。

「手回しで豆を挽く時間や感触、音までも楽しむ」っていう人は自由にやってください。そういう人こそ"coffee snob"(コーヒースノッブ)という言葉が当てはまる。僕らはそうじゃない。自分でわざわざ挽くのはめんどくさいし、時間かかるから店で挽いてもらうよ。

ところがどっこい、店で事前に挽いてもらって、下手すれば1ヶ月ぐらいかけて一袋のコーヒー豆を消費するのと、毎日飲む直前に挽くのとでは、素人にもわかるぐらい味が違う。やっぱりコーヒー豆は、飲む直前に挽いたほうがおいしいに決まっている。でも…手動のミルを買ってまで毎回わざわざ挽く気にはなれない。

そこで電動ミルなんです。全てを解決してくれる。時間も労力もかけず、自宅にて一瞬でコーヒー豆を挽いてくれる。めっちゃ快適に毎日おいしいコーヒーを楽しむことができる。

今となっては、手回しミルで時間と体力を使ってガリガリ挽いていた時間がなんだったのかと思える。もしくは店で挽いてもらって手間を省いた分、本来味わえていたはずのコーヒーのおいしさを失っていたことがもったいない。もう電動ミルなしのコーヒーライフには戻れない…。

しかも電動ミル、実はお手頃価格で、安いものだと2千円ぐらい。ちょっとした手動のミルのほうが高い。もうちょっと良いものを…と思ってイギリスの家電ブランドであるラッセルホブスを見ても、3千円台。

イタリアのデロンギだって5千円台からある。この価格帯だったら、投資に対するリターンがめちゃくちゃ大きい。キッチンに置いても意外と場所を取らず、デザインだって悪くない。

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僕は結婚祝いとして電動ミルをもらって以来、誇張ではなく毎日使っている。これまではミルを持っていなかったから、カルディやコーヒー店で挽いてもらっていた。今ではもう、豆で買う以外考えられない。コーヒー豆は飲む直前に挽いたほうがいい、でも時間も労力もかけてられない、そんな人にうってつけなのが、電動ミルです。手軽でそんなにお金もかからず、コーヒーライフが一段階上がります。

「国境なき医師団」になろう!を読んだ

医師も看護師も若い人も年配の人も、みんな自分の国にいたらもっと快適な生活がおくれるはずのなのに、治安も住環境も給料も条件の悪いところにわざわざ来て。気温40℃や50℃が当たり前で、美味しいものなんてなくて、そんなところに半年とか一年とか住んで。 P188

朝早く、チームは宿舎からオフィスまでばらばらと歩いて向かいます。重たいリュックを背負って一歩一歩、前を歩く仲間たちの背中を見ながら思ったんです。よくやるな、と。肌の色、目の色、髪の色、ばらばらの人たちがMSFの名のもとに集まって、緊急人道援助が必要な人たちのために働いている。自分がその一員であることを忘れるくらい見惚れてしまって、MSFはすごい組織だなとつくづく感心しました。 P189

国境なき医師団に入りたいわけではないけれど、どことなく小さな憧れがあった。ただでさえ人を助け命を救う医者という職業の人が、被災地や紛争地に出向いて自らの危険を顧みず活動している。

普通の医者として日本で働いていれば高給取りにもなれるのに、国境なき医師団はそんなにお金がもらえない。地位も約束されていない。見返りなく前線に出て人の命を救う人たち。わかりやすいヒーロー像だ。ある種別世界の人間である。

TBSラジオ・アトロクにゲストとしてきていたいとうせいこうが、「国境なき医師団」になろう!という自著の話をしていた。「なろう」とは?国境なき医師団のメンバーは、実はその半分近くがノンメディカル(非医療従事者)なのだ。つまり、医者や看護師、助産師、臨床心理士、薬剤師といった医療に関わる専門家ではなくても、国境なき医師団になれる。

ラジオ放送では現場を見てきたいとうせいこうが、わかりやすくおもしろく解説している。

  • どんな人がいるのか
  • どういう動機で参加するのか
  • 「国境なき医師団」になろう!を読もう
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「さよならわたしのおかあさん」を読んだ

奥さんの母親の具合がよくなくて、奥さんは今も実家に帰っている。自分は京都に残って猫の世話をしたり、自営業の店にいたり、洗い物をしたり洗濯したりしている。帰ってくる前に掃除機をかけないとな。

奥さんが実家に帰る前、ハリウリサ(ハリウクオリティ)の浜田雅功モノマネが似てないと騒いでいたら、呆れられた。

「これを読んでくれたら、今の私の状態がわかる」

と言われ、吉川景都の「さよならわたしのおかあさん」を渡された。短いエッセイ漫画。内容としては、母親がガンにかかり、2年の闘病生活を経て他界する。その間の生活の移り変わりだったり、お母さん子だった作者の心情を描いている。奥さんが風呂に入っている間に、すぐに読み終わった。

この漫画はほとんどが、お母さんと自分と自分の娘のことで占められている。父親や旦那さん、妹のことは少ししか触れられていない。漫画の主人公である作者は、情緒不安定に取り乱す人だ。僕から見るとかなり無防備で危うい。まるで、自ら傷つきに行っているようで、見ていられないところがある。奥さんとこの漫画の作者は全然違う。性格も、状況も。けれどそれでも、今一番共感する立場なのだろう。

僕にできることは、京都の家で猫を見張っていることぐらいだ。母と娘、少しでも長い時間過ごせることを願うけれど、漫画では世の中にありふれた現実を示していた。作者は母親の死から3年経ち、落ち着いたところでエッセイにしたそうだ。仕事をして、日常生活を営んでいる。それでもまだ母親の死から立ち直れていないと、あとがきには書かれていた。

ブログ的なもの、ブログカルチャーのようなものは死んだんだなー

Twitterはまだ生きてる。YouTubeはまだ全盛かもしれない。ニコニコ動画はずっと前から死んでるよね。で、ブログもとっくに死んでいる。いつ頃死んだだろう?僕の感覚では、2017年には死んでいたように思う。ブログはTwitterやFacebook、YouTubeと違って特定のサービスではないけれど、2度ぐらい隆盛を極めたことがあった。今やもう、誰も話題にしない。こうやってブログ死んだなって話も自明の理で、noteとか生きてるけどnoteはある意味クローズド風のブログであり、Twitter的、Facebook的でもある。noteはいつどこを見渡してもただの個人宣伝ツールで、読み物として読みたいものが全く無かった。そういう意味ではブログと全然違う。後期ブログと同じか。アフィリエイトに侵食されてからのブログはnoteとだいたい同じ。宣伝、金、PRが強すぎて、中身どうでもいい。増田読んでる方がマシ。そう思っていつでもどこでも増田を開いている。

なんていうか、このブログのアクセス数にもブログの死がはっきり現れている。最近は割と頻繁に更新している方だが、ほったらかしていた頃の1/3に減っている。うちだけじゃなくて、ブログ的なものは多分、どこもかしこも似たようなもんじゃないだろうか。アクセス云々はともかく、自分のテンションもガタ落ち。書くことがないというか、書く気が起こらないというか、書こうと思うことがない。日々の日記さえおぼつかない。それは今に始まったことじゃないけれど、書く書かないよりも、そこに対しての気持ちの落ち方のほうがひどい。気が乗らない。気が乗った文章が書けない。なんかもう、この場はどうでもいと感じる。そういう人は自分だけではないだろう。だってもう、ブログ死んでるでしょ。

ただまあ実際のところ、リセット時なんだろうなと思う。ブログを消すとかって意味ではなく、気持ちのリセット。気持ちを乗せない形でなんとなく適当に書きたいときに書く。そういう方向へ転換すればいいんじゃないか。ごちゃごちゃ考えたり思いつめて何か書くのは、もうブログでやらなくていいだろう。ここはなんか適当にキーボード叩いていればいい。もしくはメモ的にiPhoneで更新してればいいじゃないか。原点回帰と言えば原点回帰だ。ばんざい。

1917を見てきた

めちゃくちゃ見たかったわけではないけど付添という形で。でも十分におもしろかった。タイトルの通り第一次世界大戦中を舞台にした映画で、イギリス軍の兵卒が主人公。仲間の兵卒と二人に重要なミッションが与えられ、遂行するという極めて単純な話。わかりやすい。

物語は常に主人公の目線で進んでいき、景色や他の登場人物を映すときも主人公の目線、出来事は主人公を中心に起こり、見ている側としては主人公と同化して映画の中に引き込まれていく。この感覚って身に覚えあるなーと思っていた。何かというと、ゲームをプレイしている感覚に非常に近い。しかも戦争がテーマだからFPSとかTPSそのまんま。ゲームプレーヤーを意識して作られた映画なのだろうか。

この映画の特徴として、見る前からさんざん宣伝されているシームレスさがある。シームレスであることはそのまま常にカメラが主人公を追っかけることにも繋がるんだけど、シームレスであるということも非常にゲームっぽい。一つのミッションをクリアするというテーマもゲームっぽい。いつかこの規模のゲームが同じタイトルで作られるんじゃないかと思うくらい。

物語の進行も主人公を中心に描かれているから、主人公が前に進めば次から次へと何かが起こるという作りもめっちゃゲームっぽい。観客はプレーヤーの気分。ゲーム好きはけっこう楽しめる映画なんじゃないかな。トレーラーとか予告は思いっきりネタバレなんで見ないほうがいいです。ダンケルクもそうだけど映像で魅せる映画ではあるから、家庭用テレビで見てしまうとおもしろさは半減する。見るなら劇場で。

第一次対戦と言えば塹壕、毒ガス、戦車。この映画には塹壕がしっかり登場していた。塹壕にいる疲れ切った兵士、怪我をした兵士、迷路のような道、敵国側の塹壕に侵入する様子、塹壕から頭を出すということ、塹壕要素を余すところなく散りばめて、「これがあの、悪名高き第一次大戦の塹壕か…」と思わせてくれる映像だった。映像の世紀などで塹壕についての語りを聞いた人は、そこにある塹壕の姿にリアリティを感じることができるだろう。

余談ですが、アトロクのアカデミー賞予想によると、パラサイトに並んで1917がアカデミー賞作品賞・監督賞に最も近い作品だったようだ。ただ物語やキャラクターの描き方は非常に単純だったから、作品賞とか獲るようなタイプの映画じゃないだろうなとは思った。

スニーカーを替えた

2016年に購入して以来、長いことエアフォース1を履いていた。持っているスニーカーは一足ではないけれど、紺のエアフォース1はどこへ行くにも履いていた気がする。もともと長期で外国へ行く予定があったため、底が厚く長く履ける丈夫なスニーカーが欲しくてエアフォース1を選んだ。

それから丸3年が経ち、結構限界まで履いたと思う。

具体的に言うと、靴底がすり減って穴が空き、雨の日などは水が入ってくるようになった。これはもう履き続けられない。新しいのを買おうと思った。次に何を買うか。靴も服も、なるべく定番の既製品ばかり買うようにしている。

今はもうエアフォース1のような靴はいらない。旅行をする予定はなく、丈夫で堅牢なスニーカーである必要はなくなった。もっと日常生活に根ざした、気軽に履ける靴のほうがいい。今まで履いてきた定番の靴だと、VANSのオールドスクールは履き心地がよかった。しかし、キャンバス地で雨が降るとすぐ浸み込んでしまう。できれば水の浸み込まないレザーの靴がいい。

スーパースターはレザーだし歩きやすかったが、内側のかかと部分がすぐに破れた。

オニツカタイガーのアリーがほしかったが、近くで売ってない。靴はなるべく試着をして買うようにしている。さてどうしよう。そう思いながらネットでスニーカーを見漁っていたときに目に入った。ジャックパーセルにしよう。今まで履いたことがなく、履いてみたいと思っていた。デザインも落ち着いていて申し分ない。そうと決まれば休日に早速靴屋へ向かった。

ゴアテックスのジャックパーセルもあるということで、雨を気にする身としてはこれ幸いと思い試着してみた。小さい。足の指が収まらない。ハーフサイズ上げると在庫がない。いずれにせよサイズを上げてしまうと前が長すぎる。ゴアテックスはあきらめ、普通のレザーを試着してみた。7がちょうどだった。購入した。

買ったばかりでまだ硬く、これから履いて馴染ませよう。ジャックパーセルは何年履けるかな。

「家族を想うとき」感想・評価

京都みなみ会館で、「家族を想うとき」を見てきた。怒りを込めて社会問題を見せつけるケン・ローチ監督の最新作。アトロクでも29tizuでも話題になっていたからずっと見たかった。ケン・ローチ映画で描かれている世界=現実はひどすぎて目を背けたくなると聞いていた。映画館に行く数日前にダニエル・ブレイクを見て、確かにとてもつらく、いろいろと考えてしまうものだった。

しかし、この「家族を想うとき」はダニエル・ブレイク以上だった。何がダニエル・ブレイク以上なのか。少なくとも僕にとってはダニエル・ブレイク以上に深く突き刺さる映画だった。どちらも希望がない、救いがないという点では同じ。ただダニエル・ブレイクにおいては良くなる兆しのようなものがあった。今回の「家族を想うとき」に全く無いです。つらさ、苦しみのスパイラル。生き地獄。

物語はイギリス、ニューカッスルで新たに宅配便のドライバーとして働く一家の父親と、その家族の生活を描いている。リーマンショックの時期に勤めていた建設会社が倒産して以来、仕事を転々としてきた父親。「生活保護は?」と聞かれると「俺にもプライドがある」と答え、自らにできる仕事を探し行き着いた先が宅配会社のドライバーだった。しかし、雇用関係はない。あくまでフランチャイズと個人事業主の業務提携であり、日本でいうところのコンビニ店長やUberEats、Amazonの配達をしているデリバリーパートナーズが同じ形態で仕事を提供している。

この会社のフランチャイズ契約のルールは非常に厳しいもので、1日14時間、週6日が勤務時間として拘束される。GPSで位置情報が管理され、トラックを2分離れるとアラームが鳴る。ドライバーはトイレに行く暇もなく、1Lのペットボトルをトイレ代わりに車に積んでいる。業務に穴を開けることはできず、与えられたノルマをこなせなければ罰金、保険のかかっていない荷物を紛失しても罰金、荷物を管理する端末を壊しても罰金という下手すると罰金地獄が待っている。

僕はこの映画の冒頭から既につらかった。新しい仕事を始めるつらさ。勝手がわからないところに飛び込んでいき、ベテランたちと同じ仕事を何もわからないところからスタートする不安。いたらなさ。逃げ出したくなる。それでも家族を養うために、なんとか頑張る父親。おかげで自宅に帰るのは毎日遅く、家族との接点は次第に失われていく。母親も介護の仕事で朝から夜まで拘束されており、自宅に帰ってくるのは夜9時以降。息子は両親を見て将来への希望を失い、学校に行かなくなる。娘は家族みんなを心配する余り不眠症に。

つらく、厳しいことがあってもこの家族は支え合い、力を合わせて現状を乗り越えようとする。それをことごとく打ち砕いていく社会の構造、システム。最低限の賃金で最大の労働力を得えようと、効率を最優先した資本主義社会。家庭の幸せ、国民の幸せと企業の利益は相反する。共存できるわけがない。こんな世の中はおかしい。間違っている。けれどそんな世界のルールの中で僕らが生きている。そのことを自覚しているか?というような警鐘を鳴らす映画だった。既に問題は起こっている。多くの家庭がグローバル企業に蹂躙されている。このままでいいのか?とこの映画は我々に問いを投げかける。

社会の搾取構造や貧困について考える上で、とても大切な映画であると同時に、もう一度見ろと言われると非常につらい、つらいだけの映画でもあった。こんなにもつらい映画があるのか。この映画を見るにあたっては、それなりの覚悟を持って映画館に挑んでほしい。そうでないともらい事故のように、強烈なダメージを食らって立ち直れなくなる。ケン・ローチ映画を見たのは「わたしは、ダニエル・ブレイク」に続いて2作目。過去にもカンヌ映画祭パルム・ドールを獲った作品などがあり、いくつか目を通したいと思うが、今回ばかりはさすがにちょっと時間を空けないと苦しい。

「わたしは、ダニエル・ブレイク」感想・評価

どうでもいいけど、ダニエル・ブレイクという名前はどこから取ったのだろう。007好きではないが、「ドラゴン・タトゥーの女」が好きな僕にとって一瞬ダニエル・クレイグがよぎってしまう。そんなどうでもいい話は置いといて。

  • "I, Daniel Blake"
  • 映画的じゃない映画
  • 情報弱者、ここに極まれり
  • 誰が悪いのか
  • 貧しい国の人に響くか?
  • 自分ごと
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親との関係に問題を抱える人

多いんだなー。最近聞いた話が、みんな親との関係に問題を抱えている人ばかりで、20歳を過ぎてもずっと引きずっている。Twitterで見た話では、親子関係の不和って40を越えても50を越えてもずっと引きずるもんだとか言ってた。どうやらそういうもんらしい。

これまで他人の家庭について何も知らなかったが、周りにいる人たちの話を聞いたことで、自分の家であったり、親戚関係、親子関係がいかに順調なのか気付かされた。誰の話を聞いても、親戚どこか一軒は必ず揉めていたり疎遠になったりしている。絶縁していたり。自分は両親、祖父母、叔父叔母が全員京都で、近いため交流があるから親戚同士が仲いいのだと思っていた。そうでもないらしい。みんな親兄弟や親族でそんなケンカするもんなんだな。他人の家庭に口を出すもんじゃないが、正直大人気ない。でもそんな人たちが掃いて捨てるほどいる。人間なんてあまり大したことないみたいだ。

それも僕が問題を抱えていないから言えた話で、親族間、特に親との確執に頭を抱えている人は周りにたくさんいる。中でも幼少期における親からの愛情不足が、大人になっても自らを呪いのように縛り付けているケースが多い。それは本人に自覚があるとか、原因に心当たりがあるとかないとか関係なしに、背後霊のようにつきまとう問題のようだ。女性から聞くことが多いが、男性はそんな話を人にしたがらないからだろう。男性で言えば、ハラスメント型の人が典型じゃないかなあ。家族関係とは限らないが、わかりやすく何かしらの問題を抱えている。

親子関係がうまくいっていなかった人の呪いとは、どういう形で現れるのか。人間関係に現れることが多い。一例では恋愛やパートナー、家族関係に現れている。具体的に言うと、実親から得られなかった無償の愛を、パートナーや子供に求めてしまって相手に負担を強いたり、結果的に関係がこじれるパターンである。至極単純だ。相手に過剰な期待を寄せては、得られないと激怒したり悲しんだりする。相手は疲弊して離れていくか、引き込まれて病んでしまう。

彼ら彼女らは実親から十分な愛が与えられず、愛されるための努力をしたのだろう。しかし結果が得られなかった。もしくは愛されていたかもしれないけれど、うまく噛み合わなくて実感できなかった。そして恋愛対象やパートナーに対して同じことを求める。恋愛対象やパートナーに限らないかもしれない。近しい人、愛情が得られそうな人であれば誰からでも求めてしまうのだろうか。愛情飢餓って言葉があったから、そういう状態もあるのだろう。なぜか期待して当然、与えられて当然だと思っている。

このへんって学術的なまとめあるのかな。対策とかも。あまりにも似通った事例が多すぎて、一般化できそうな勢いだ。カウンセリングとかでそういう事例にぶち当たることも多いのだろう。アダルトチルドレンという言葉が昔流行ったが、あれに当てはまるのかな。機能不全の家庭で育った子供に見られる傾向ということで近いような気はするが、その昔何でもかんでもアダルトチルドレンで片付けられていたような気がするから、本当にそうなんだろうかという疑問も残る。

ただ身近な人に限って言えば、日常生活に支障をきたす程度ではない。健康な日々を営み、仕事もある程度うまくこなしている。親密な人間関係を築きにくい、同じ失敗を繰り返すという傾向があるだけ。これはアダルトチルドレン的な傾向があったとしても、カウンセリングや治癒が必要とまで言えないだろう。解決したほうがいい問題ではあるが、解決しないまま結婚なり家庭を築いている人も珍しくはなく、そのまま二次被害を引き起こしたり起こさなかったりしている。プライベートだけでなく仕事上でもあり、よくいるめんどくさい奴、困った人ぐらいにしか認識されていない。

いずれにせよこの手の悩みを抱えている人は多い。問題視も解決もされないまま事が運んでいくことも多いのが現状なのだと思う。この手の人たちは他人への期待が捨てきれなくて、無条件に褒めてほしかったり察してほしかったり認めてほしかったりする。パートナーはあなたの母親じゃないんですよ。そして、そういう人たちがこぞって言うのが、「認めてくれないんだったら、褒めてくれないんだったらパートナーなんていらない」という言葉。じゃあもう一生一人でいろよと思うが、そういう割り切りができれば万事解決。そうではなく、結局は都合のいい相手を強く求め続けている。

一般的に言う解決策は、自信を回復するとかインナーチャイルドを育てて大人にするとか。それをどうやるか具体的には一人ひとりに合わせた手段になるだろうから、一概には言えない。僕の場合は少し違った。僕、というのは、アダルトチルドレンだった自覚はないが、幼い頃に親に過剰な期待をしたこともあった。「なんでわかってくれないんだろう」とか。僕が人への愛情飢餓、過剰な期待から脱却した手段というのは、「あきらめる」ということだった。人をあきらめる。理解をあきらめる。期待を捨てる。

こういう話をするとよく、「あきらめたらもう絶望して生きていけない」と言われる。そこで死んでしまう人も本当にいるかもしれないから、安易には勧めないが、人をあきらめるということは、一人を自覚するということだ。自分が一人であるということ。それは紛れもない事実として眼前にある。しかし、彼ら彼女らはその事実が受け入れられず、存在しないものを期待して、あきらめきれずにいる。それを唯一の希望として生きている。それが感じられないと「寂しい」と言う。しかし現実は寂しいものだ。本人たちは現実の寂しさを実感しておきながらも、受け入れられない。現実逃避に走り、存在しない無償の愛かなんかを追い求め、人に期待して、要求して、関係を壊す。まるで中毒患者のように。

僕は他人(親兄弟を含む自分以外の人間)をあきらめてから、関係性にとらわれない一人の人間としての人生が始まった。だから僕が個人的に示す解決策は、自信を持つとかインナーチャイルドを育てるとかではなく、他人をあきらめる。自分とそれ以外の存在を、切り離して考えるところからスタートする。相手は私ではない。人間は孤独である。人生は一人で過ごすものだ。他人との関係は、たとえ相手が親であってもゼロから築き上げるもので、始めから期待したり、自ら期待に応えて、あたかも存在したかのように取り繕うものではない。寂しさ、絶望のその先にある現実を見据えよう。無償の愛という妄想に浸っていないで早く乗り越えてください。

※この文章が目に届く人のことは何も書いていないので、「私のこと書かれているかも!?」とは思わないでください。