ワイヤレスイヤホン使用遍歴から5つを比較

2018年からワイヤレスイヤホンを使い始めた。最初は安いのを使っていて、最近はAirPods Proを使っている。それぞれの仕様や特徴をまとめた。ついでに奥さんが持っているのを使わせてもらったのも含め、合計5つのワイヤレスイヤフォンを使ってみたので、せっかくだから比較してみる。

  • URBANEARS Stadion
  • AVIOT TE-D01b
  • SONY WF-1000X
  • SONY WF-1000XM3
  • Apple AirPods Pro
  • 雑感
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目指していきたいっすねーインターネット離れ

今でもついTwitter開いたりはてブ見たりしてしまう。悪い癖っすねー。社会と繋がってしまったインターネットからは、なんとなく身を引きたい。そういう思いが近年徐々に増している。こうやってみんなネット社会からいなくなってしまうんじゃないか、自分もその一人になれたら、そんな思いを巡らせている。

インターネット、ネット社会と関わらずに、自分の身の回りの世界だけで生きていきたい。インターネットに繋がっていなければ、それだけで今よりも平穏な日々が過ごせる。今はネット慣れしているから脅かされないだけで、摂取しなくてもよかった情報を取捨選択して、自身に堪えそうなものは受け流している。そういう行為自体が本来不毛なことだ。だいぶ荒んでいる。フィルターはすごく汚れているんじゃないか。世渡り下手な世間知らずとして、無垢な時間を過ごすのが理想ではないか。取り込んで受け逃して、時には傷つけ合い、その先にある束の間の平穏なんてまがい物ではないか。知らぬが仏。

これは生き方にも通じる。絶海の孤島で、自然の恩恵と身の回りの支え合いのみで生きていけるなら、海から外へ出て荒波に飲まれ、競争社会を渡り歩いた末の守られた人工都市なんて目指す意味はないんじゃないか。そうやってみんな都会を捨てて田舎暮らしに走るのか。もっと狭い世界に生きて、ニュースを取り入れないことは大事だと思います。ミュートやリムーブは積極的に活用していきましょうよ。よく反対意見をフォローするのも大事とか言われてますけれど、別にいいっしょ。広い視野とか広い世界なんてもういらない。自分と関わりのない人のことを考えるのはやめる。切磋琢磨なんてもう飽き飽きだ!ぬるま湯を沸かし続けることだけがんばりたい。

その点近頃のブログは閉じてしまって楽ですよね。人目につかなくなった。以前は人目につくことを目指していたにも関わらず、元あったところに戻りつつある。僕にとって内輪のような繋がりはないんだけど、ある人はそれで十分。閉じた世界、閉じたコミュニティ。世の潮流から逃れてきた草木も生えぬ大地。良し悪し、正誤もなく思いつきだけで成り立っているこの場。ネットの海の果でありがとう。世界は密から疎へ。

話がインターネット離れではなく、インターネットの中央離れになっている。どちらでもよい。見知った人達同士の、手の届く範囲の、生活圏のことを考えていたい。自分はワールドワイドな人間ではない。世界へ発信して世界の反応なんかうかがわなくていいんだ。あっても遮断すればいい。世界史における日本の鎖国思想バンザイYES。閉じたコミュニティのカッコ悪さを笑うことなかれ。僕らは流行を知らない老害なんだ。外へ出てはいかんな。あちいなーコンチクショー

裏表のある人は何なのだろう

自分に裏表がないのかというと、ないつもりではいるが、あるのかもしれない。ある、ないというより、本心を隠すことが苦手だ。よく「顔に出ている」と言われるし、思っていることを包み隠さずはっきり口にするほう、本音が表に出すぎる方だ。だから裏表はやっぱりないんじゃないかな。そんなこと言っても、誰にでも全く同じ態度が取れるわけではない。裏表があるかと言えば多少はあることになるが、どちらかというと場に応じた役割を演じているだけに過ぎない。

よく裏表があると言われる人は、裏表が激しい人のことを指す。表の顔と、裏で言っていることのギャップが激しい人。さらに「裏表が激しい」という言葉は、大体において相手を非難するときに使われる。表でおとなしい人が、裏では激しかったり、表では従順な人が、裏では文句たらたらだったり。表向きはめちゃくちゃ嫌な人なのに、裏で実はめっちゃいい人のことを「裏表が激しい」とは言わない。

裏表が激しい人と、ときどき知り合う。普段の感情表現が乏しい人が、裏で爆発している。例えば自分の知っている人で、面と向かって話せば落ち着いているのに、LINE上でめちゃくちゃ辛辣な人がいた。彼はLINEグループで、すごくどうでもいいことに対して激怒していた。その話題にグループのメンバーは誰もついていってなかった。最初見たときは、同一人物なのかどうかを疑ったぐらい、普段と態度が違っていて驚いた。なんなんだろう一体。

その人はとにかく、普段は温厚なのにLINE上ではめちゃくちゃキレてばかりいる人だった。頭がおかしいんじゃないかとさえ思ったほど。面と向かって話すと、やんわりと返ってくる。なんなのだろうこのギャップは。意味がわからない。とにかく裏表が激しい人は、裏に激情を抱えており、それが普段表に出てこないという特徴がある。

さらに彼は、ある女性にLINEで猛アタックしていた。その女性から他の人へ相談があったらしい。これも表立ってやればいい話なのに、なぜかLINEという裏で爆発している。なぜ面と向かってアプローチしないのだろう。というか、面と向かってやってはいけないようなことを裏でやるなよ、と思う。それは裏でもダメだろ。なぜ裏なら許されると思っているのだろうか。

人目につかないところであれば、何言ってもやってもいいと思っているのか。一人で勝手に言ったりやったりしている分には構わないと思う。しかし、誰かに向けてやりとりをしたり、攻撃したりアプローチするのは、裏も表も変わらない。なぜ表では控え目で、裏で爆発してしまうのだろう。一体どういう心理なのだろうか。

ある人は、普段会うと気さくな兄ちゃんなのにfacebook上でいつも悪態をついている。世間の風潮に対してだったり、今日身の回りで起こった出来事に対して、的はずれな文句を書いては翌日消している。何がしたいのだろう。そして彼もまた、女性に対してとてつもないセクハラLINEを送る。いわゆるクソLINEだ。彼の場合面と向かって女性にアプローチすることも多いが、LINEでは普段と違ってセクハラ全開になる。こういうことをやめれば女性とも上手くいきそうなのに、なぜLINEで暴走してしまうのだろう。

傾向として、怒りにしろセクハラにしろ、感情の暴発が見て取れる。表では感情を上手く出せていなかったり、制御したりしているのか、その分裏、すなわちSNSやLINEで爆発している。しかしそのSNSやLINEは、裏と言っても表で繋がりのある人ばかりが見る場所であり、実名であり、知っている人が誰もいない匿名掲示板ではないのだ。だから何でそこで暴れまわっているのか理解できない。人としての評判を気にするなら、裏でもそういうことはやらないでおくべきだろう。気にしないのなら、表でも同じ態度をとればいい。なぜ、裏表でこうもギャップが激しいのか。

よく「ハンドルを持たせると性格が変わる」と言われる人たちがいる。裏で暴れまわる人はもしかすると、SNSやLINEというツールを使うと感情の制御が効かなくなるのかもしれない。そういうツールが車で言うハンドル、アクセルの役割を果たしてしまっている可能性はある。とても危うい。彼らはSNSやメッセージアプリから距離を置くべきだ。周りに迷惑を掛けるという理由もあるが、それより自らの人間関係の構築を、そういう裏の顔が阻害してしまっている。

誰でも感情が昂ぶるときがあり、ヘイトや欲望を胸に抱くことはある。けれどそれを人にぶつけたりはしない。少なくとも身元が割れる形で行うことは控える。裏であろうと表であろうと、公然と人をけなしたり性欲をぶつけていれば、自らの社会的立場が追いやられる危険性がある。それが表では制御できていても、裏になった途端爆発してしまうのは、多分本人も自覚があるはずだ。どうしても感情を抑えきれないのであれば、せめてもっと慎重になったほうがいいのではないか。感情の出し方を学ぶとか。

上記の例はいずれも男性で、裏表の激しい女性とは付き合いがないため、あまり知らない。

ヒトコトへの回答⑱

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62通目:前の仕事について

59通目かなんかで仕事について質問したものです。またまた質問なんですが以前、建設関係?かなんかの営業をされていたとの事ですがもし海外にいかなかったら続けていましたか?また興味のない仕事でも割りきって仕事できていましたか??

59通目の内容はこちら。参考までに。

で、僕の前職についてはかなり前にまとめてある。

もし海外に行かなかったら続けていたかどうか。海外云々よりも、とにかく辞めたかったという気持ちが先行していたから、転職していたか、もしくは異動願いを出していたと思う。その先何年続いたかはわからない。

僕が辞めてだいぶ経ってから、電通案件以降だったかな、働き方改革などというものが始まり、会社のパソコンは8時に強制終了されるようなったそうだ。僕が働いていた頃は、2時3時まで残業して(残業代はない)終電がなくなりタクシーで帰る日もめずらしくなかったから、会社は大きく変わったんだと思う。

それでも辞めてよかったと思う。辞めてなくてもそれなりの人生はあったかもしれないが、今のほうがいいと断言できる。

興味のない仕事でも割りきって仕事できていたか。興味のある仕事なんてないから、やっている限りはそうなんじゃないかな。遊びでやることしか興味持てないです。仕事観についても、前に何度か書いた気がする。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。

結婚生活の話

結婚生活について書いてほしいと言われた。パートナーについてはこれまでにもここに書いてきたから省くとして、結婚後の我々の関係であったり、生活?について。となると何を書いていいやら。

僕とパートナーはもともと友人だった。その関係性は、結婚後もほとんど変わっていない。友人のような関係のまま結婚して、1年経った今もそのまま続いている。付き合う前の友人期間が1年あり、彼氏彼女期間が半年で僕らは結婚となった。友人期間のほうが長く、付き合い始めたからと言ってお互いの態度が変わるようなことはなかった。彼氏だから、彼女だから、結婚したから、立場が変わっただけで態度を変えたりすることに僕は違和感があり、そういうことをお互いやってこなかった。態度が変わっていくとしたら、立場によってではなく親密度によってグラデーションのように変化していくものだろう、と僕は思っている。「ハイ、付き合いました」「結婚しました」という号令だけで態度を急変させるのは不自然だ。中身は何も変わっていないのに。

だいたい僕自身は彼氏彼女関係、婚姻関係に対して願望をいだいたことがない。だから「彼氏とはこういうもの」「結婚とはこういうもの」といったイメージがなく、その立場になってああしたいこうしたいとかも一切ない。むしろそんな型に囚われたくない、こだわりたくないという気持ちのほうが強い。だから籍を入れなくてもいいと言っていたし、パートナーの方の姓を選んでいいと言っていた。そういう表面上のことは、僕にとって些事であった(結局相手の希望で僕の姓になった)。

立場によって態度を変えるとか、表面上のことを繕うのは、プライベートではなくパブリックな場においてだけだった。例えば双方の親の前だとか、パートナーの仕事上の付き合いや、事務手続きの場においてのみ僕らは婚姻関係のロールを演じ、対応することが求められるから仕方なくやる。そしてプライベートではこれまで通りという感じ。結婚生活ごっこをやるのは表向きだけでいい。

単純な生活という意味では、僕は結婚諸々のために帰国したため、大きく変わった。僕が僕自身のためだけに生きる時間は終了した。今は全てパートナー中心の生活をしている。もともと僕は夢も希望のなく、かろうじてあった自分のやりたいことは、今までの人生でほとんど全部やってきた。今はまさに、結婚してパートナーのために生きるという生活をやっている。

といっても僕には経済力がないため、働くという面では家庭に一切寄与していない。パートナーに頼り切りである。その点においてパートナーからすれば、一人増えようが同じという塩梅。ただそれではあまりに申し訳ないから、経済的にも寄与できるように努力はしている。パートナーはそれについて「どうでもいい」と言っている。このあたりは男性が家計を支える家庭と根本的に違う。

経済力でないならば、一体どういう形で僕がパートナーを支えているのか。大まかに言えば、パートナーの経済以外の負担を軽減している。心労であったり雑用であったり、厄介事であったり、人手であったり、いてくれると助かると言われるよう日々務めている。パートナーは元々一人で何でも出来る人だから、能力は全部僕より高い。実際のところ僕はいなくてもいい。ただ、「いたほうが楽」と言われる程度の役割を担っている。

同様に、僕自身もパートナーがいなくて困ることはない。お互い30代後半まで誰も必要とせず、一人で生きてきた。あえて結婚する必要もなかった。そういうときにお互いが「してもいいんじゃないか」と思える相手だったから、今のようになった。僕はその「結婚してもいいんじゃないか」と思われる対象であり続けるように努めている。

僕に関して言えば、生活の主体が自分ではなくパートナーに移ったため、生活様式は大きく変わった。パートナーと僕とでは生活の基準が何もかも違う。ほぼ全部向こうに合わせているが、至らないところは多々ある。ただ特に無理したり我慢したり、頑張って合わせているということはない。禁煙は多少つらかったところもあるが、強要はされていない。

基本的にはパートーナーの生活スタイルに、僕が合わせる形になっているが、逆にパートナー側から僕に合わせてくれていることはなんだろう?と思って聞いてみた。以下が返ってきた答え。

うーん言葉にするの難しい
私は家族も含めて世間体を気にする性格やから、普通こうするやろって行動が川添さんにとって普通ではないことを受け入れるという部分は合わせてるかな… こっちに合わせてほしいことはちゃんと毎回伝えるけど、どっちが正しいとかそういうのは無いという意識改革というか

なるほど、そんなに変か俺。でもこういうことは、付き合う前から言われていた。まず最初に相手(僕)が普通じゃないこと、常識の外側にいる人であることを認めるところから始めた、といったようなこと。生活の上で具体的に合わせているところは「しょうもない話を聞かされているところぐらいかな…」という回答だった。向こうから求められることもあるけれど、それ以上にめっちゃ話すからなー。

僕の結婚生活はそんな感じ。もっと具体的な話をするなら、朝猫に起こされて、朝食を用意して、それぞれ仕事をして、夜には帰ってきて、夕食はパートナーが用意して、洗い物は食器洗い機がする。掃除洗濯は僕がやったり向こうがやったり。猫の世話も僕がやったり向こうがやったり。同居、分業という感じです。食事をしながらNetflixやAmazonプライムを見たり、お互い都度今日あったことを話したり、たまに外食したり映画館へ行ったり、そんなもん。友人っぽいでしょ?

無意識にハラスメントやってるけど、「生きづらい」はちょっと違うような

これを読んでいた。ハラスメントの問題が社会で持ち上がるようになってから、自らの男性的な暴力性に気づいて落ち込んでいる人たちの話。「加害者性に苦しむ男性たち」という副題がついている。

1980年代生まれの自分は、ジェンダー意識の移り変わり、それにまつわる社会常識の変容について、ここ10年は特に大きかったように感じる。常識が変わり、意識が変わり、自らの過去の行動や、過去の社会常識に囚われた現在の考え方など、反省することも多い。男性として、女性を一方的に傷つけたり、尊厳を蔑ろにしていたこともあるだろう。

職場ではないが「それセクハラですよ」みたいに言われることもあった。如何にゲスな言動で相手を引かせるかがおもしろい、という昭和後期から平成にかけての文化圏で育ってしまったため、現代の価値観へ切り替えるのがなかなか難しい。「あの頃はめちゃくちゃやりましたよ」というような武勇伝を語ることがかっこいいと思われていた時代もあった。

80年代に生まれてから植え付けられた根強い意識、古い常識はそう簡単にアップデートできない。気づかないうちに「今やるとアウト」なこと言ったりしでかしている。意識はしている。努力しているつもり。だけどそんなにうまくいってない。

ただ、記事にあるような「男性の加害者性による生きづらさ」なんて表現は大げさだと思った。なんだよ生きづらさって。被害者のほうがよほど生きづらいだろ。ここで言われていることは、例えば生まれつきの殺人狂が、殺人衝動を抱えたまま市井にまぎれて、誰も傷つけずに暮らす自信がなくて生きづらい、と言ってるようなもんだ。そんなもんはお前だけの問題で、一人で勝手に悩んでろという話。

というか、大いに悩んだほうがいい。自分の中に加害性があるなら、それにどう対処するか。しっかり悩み抜いて、失敗しないように気をつけたほうがいい。だからそれを「生きづらさ」なんて呼ぶのは間違っているというか、甘えているというか。本人がどういうつもりなのかは知らないが、「生きづらさ」などと言われてしまうと、それはまるで解消されて然るべき社会的抑圧のようにとらえてしまう。そうじゃないだろう。加害性に悩むことは、自分自身の問題だ。

例えば戦国時代に武勇で名を馳せた武将が、現代にタイムスリップしてきて「現代では人を殺して名を上げることができないから生きづらい」などと言われたら知るかボケと思うだろう。なんとか時代に適応してください、としか言えない。それも自分一人で勝手に頑張れと。「生きづらい」じゃねーだろ。今の世の中とどう関わっていくか、自分自身や世の中と向き合って、よく考えたほうがいい。

人の意見を参考にするのはいいと思う。加害性を抱える自分が、現代社会にどう適応すればいいのか。学ぶことで見えてくることもあると思う。それは自分の「生きづらさ」なんてものを解消するために行うことではなく、現代社会の一員として、被害者を出さないことを目的として行ってもらいたいものです。

こんな人いるの?こっちは論外だなー。

余談:ジェンダー意識の改善に伴い、「男性にリードしてほしい」といった男性に積極性を求める風習も同時に滅びてほしい。リスクがでかすぎる。

旅行できないこんな時期にASIAN JAPANESEを読み返していた

「アジアンジャパニーズ」を初めて読んだのは、僕がちょうど旅行を始めた頃で、10年前。当時は旅行の入門書として、教科書的に読んだ覚えがある。同時期に読んだのは沢木耕太郎の「深夜特急」、小田実の「何でも見てやろう」、いずれもバックパッカーのバイブルと呼ばれる名著ばかりなので、今もバックパッカーカルチャーに興味がある人がいればおすすめです。

バックパッカーという旅行形態は、10年前の当時既に下火だった。旅行もIT化、グローバル化が進み、バックパッカーという旅行のスタイルは、誰もが楽しめるレジャーの一つとして安心安全に機能するようになった。世界一周旅行なんて、勇気がなくても英語が喋れなくても、ちょっとお金と時間があれば誰でもできるようになった時代。10年前は既にそんな感じだった。手軽であるがゆえに廃れた。そこにかつてのバックパッカーが求めていたようなアドベンチャーはなくなっていた。

この「アジアンジャパニーズ」に書かれていることは、旅行の教科書としては時代遅れであり、かつ旅行の手段については何も触れられていない。読んだはいいが、参考にはならなかった。ではなぜそれを、今になってもまた読むのか。そこには何が書かれていたのか。それは、かつてのバックパッカーの名残りであり、彼らの心の内にある普遍的な心情だった。

「アジアンジャパニーズ」という本は、会社を辞めたばかりの写真家(23歳)が、初めての一人海外旅行、それもタイのバンコクや、インドを訪れ、現地で出会った日本人に片っ端からインタビューして写真を撮らせてもらうという形式の本だ。また、日本に帰国後も連絡を取り、その後の再インタビューも何人か分収録されている。旅行そのものよりも、その当時の旅行者、アジアを旅する日本人の内面をとらえることに、焦点が絞られている。著者自身の内面も多分に含まれており、まだ旅慣れていない様子、旅行との向き合い方や、初めて出会う人種、初めて見る景色への目線がういういしい。

ここで見られるような旅行は、現代のようなLCCやインターネットが発達し、都市化したアジアではめったに見られない。この本が出たのは1995年。著者の旅は本が書かれる3年前に終わっているから、25年から30年前の話だ。本に掲載されている写真を見ると、古い。25年から30年前の、当時の日本人の姿がある。けれど、ここに記されている心情は、現在においても見られるものではないだろうか。この本に出てくるかつてのバックパッカーたち。当時の彼らが現代にいたとしても、おそらく同じことを思っていただろうという心情が書きつづられているおり、色褪せない。

それは一体どんな心情か。一言で言えばモラトリアム。あのモラトリアムだ。バックパッカーはよく「自分探し」などと揶揄されるが、じゃあ彼らは一体どういう立場で、どういうつもりで放浪の旅などを行っているのか。それは同じアジアを放浪するバックパッカーと言えど、人によって結構違う。数ヶ月の旅で終わる人もいれば、4年続いた人だっている。30代の人だって意外といる。66歳のモラトリアムもある。帰国後に美大生になる人、陶芸家になる人、また旅に出る人、自殺する人、帰国しない人、一様には語れない。考え方もそれぞれ違う。ただし、誰もが何か思うところあって、アジアに逗留している。その間は、多くの人がやはりモラトリアム期にいる。

モラトリアムとは先延ばしと訳され、海外ではギャップイヤーなどがモラトリアム期にあたるのだろう。日本にはギャップイヤーがないから、日本人がモラトリアムを体験しようとするなら、自らモラトリアム期と場所を設けなければいけない。時期はさまざまだが、そこにアジアを選んだ人たちを、著者が取材している。同時に著者自身も、アジアでモラトリアムを体験している。著者は同じ旅行者として旅に寄り添っている。撮影した写真は帰国しても机にしまいっぱなし。当時文章はなく、本にする予定もなかったそうだが、後にこういう形になった。

アジアを旅する日本人の中には、いくつか共通するテーマを持っている。全員ではないが、そのうち最もポピュラーなテーマが、「日本社会に組み込まれることとどう向き合うか」である。日本から離れることにより、日本とそこにいた自分を客観的に見ることができるようになったと、多くの人が言う。今そこにいる土地には日本のシステムも常識もなく、日本の形や構造が外から明確に見える。いかに整っているか、いかに歪んでいるか、どんなスピードで動いているか、どんな色をしているか。日本社会に一度組み込まれた人も、これから組み込まれる人も、組み込まれることを拒絶する人も、アジアから日本を見つめ直している。これから自分たちが、日本社会とどう対峙していけばいいか、アジアで模索している。

これは僕にも経験のあることで、とてもおもしろかった。一度外に出て、外の常識に染まってしまってからでないと見えてこない日本の姿は確かにあった。外からの目線とは、日本の国内で、日本人としか付き合いがなく、日本の文化と常識にどっぷり浸かってしまっていれば決して得ることのできない目線だ。みんな一度は体験したほうがいい。特に「日本が嫌なら出ていけ」と言うような人たちにこそ、一度外国に住んでみてほしい。海外生活もいいもんですよ。

今でもそんな事を考えながら旅行する人はいるのだろうか。海外は結構外じゃなくなってしまっていて、いつでも日本と繋がっており、内側に組み込まれていってるような気もする。インターネットで日本と繋がったままでは、もしかすると外側からの目線は得られないかもしれない。外国にいても日本語を話し、日本人とばかり接している人は大勢いるから、それでは日本社会の外に出たことにはならないだろう。

そういう海外で自分と向き合うとか、日本社会を見つめ直すとかって、今となってはめちゃくちゃ懐かしい感覚だ。この本はめちゃくちゃ青臭いことばかり書かれていて、恥ずかしような笑いだしたくなるようなセリフだったり心情にあふれているが、そういうのを僕は、若気の至りだと言って軽視したくない。また、ただ懐かしむだけでなく10年たった今、もう一度見直したかったのだと思う。

ここには顔写真とおそらく実名も記載されており、日本に帰国してから芸術家を目指した人たちのその後をGoogle検索したくなった。

コロナ・ギャンブルの時代

世界中で第二波が押し寄せる中、各国では再びロックダウンが行われている。日本社会は目先の経済を重視して、コロナとともに日常生活を営む方向に切り替えたみたいです。Go toキャンペーン然り、ついにそういう方向に舵を切ったかという感じだ。もう感染症対策をすることはあきらめた。withコロナってそういう意味だったのか。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/07/100-65.php

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/07/2-262.php

今の日本の状態が、初期イギリスの姿勢、現在も続くスウェーデン、ブラジルの方針とどれだけ違うのか。放ったらかし推奨。かつてはそれらの国々のやり方を批判していたが、やっぱり日本はヨーロッパみたいに国民の生活を保障することができないため、それぞれ独自でやってください、注意喚起はするけどね、という方向性に開き直ったという印象。もう緊急事態宣言はやらないだろう。保障がない状態でやられても、誰も聞けないだろう。

国民の方も大方それで納得している。国が保障できないなら自分たちの食い扶持を自分たちで稼ぐしかなく、コロナ以前と同様満員電車に乗り、今日も日夜あくせく皆様働いてらっしゃいます。ご苦労様です。それについて僕は批判的ではなく、仕方ないと思っている。そういう政府を選んだのは僕らなんだから、今の政府のやり方には僕らの意思が反映されている。ただ、今後どうなるのだろうか。

コロナのワクチンはなく、重症化リスク、医療崩壊、あらゆる爆弾を抱えた上での日常となる。withコロナ、コロナ・ギャンブルの時代。感染して回復した人も多くいるが、差別や後遺症といった問題も残る。アメリカやブラジルのように100万人規模の感染拡大、5万10万人規模まで死者が増えるリスクもある。それでも日本は今日明日の生活を選んだ。今日明日の食事がままならないなら、感染症どころではない。日本はイギリスやドイツのように国が給与を保障してくれるわけではないから、仕事を休むわけにはいかない。

でも、コロナを踏んだらサヨウナラ。今僕らはそういう毎日を送っている。慎重な人は、今もなるべく出歩かない。消毒・マスクを欠かさない。人との接触を避け続けている。それは世間の目を気にしただけの"自粛"ではなく、ウイルスから避難するための本物の警戒心によるものだ。今の日本の感染者数の拡がりは、あれだけ必死に自粛をやっていた緊急事態宣言前よりひどい。当時より感染症対策が進んでいるにもかかわらず。

「大丈夫でしょー、周囲でかかった人いないし、人口中の割合でいうと確率めっちゃ低いから自分はかからない」と思っている人も多いと思う。初めからそうだった人もいれば、世間の空気に流されやすく、3月4月頃は自粛していた人が、最近は楽観的という人もいる。そのあたりはリスク管理の意識、性格によるところが大きい。情報格差も大きい。もちろん危機意識が高くとも仕事を休めない、って人だっている。

コロナ・ギャンブルの時代をどう生きるか。大当たりしたら真っ逆さま。仕事もウイルスからも、自分の身を守るってくれるのは自分だけですね!

ブックオフ愛を語ることは後ろめたかった

なぜ今ブックオフか?というと、最近「ブックオフ大学ぶらぶら学部」を読んだから。それ以降またブックオフ通いを再開している。昨日買ったのは以下の4冊。

「ブックオフ大学ぶらぶら学部」は、ブックオフユーザーに勇気とアイデンティティを与える本で、読めば必ずブックオフへ戻りたくなる。そしてブックオフで猿岩石日記とか、どうでもいい本を100円(税別)で買いたくなる。おすすめです。

この本では、意気揚々とブックオフについて語られている。それぞれのブックオフ観や利用の仕方、いかにヘビーユーザーであるか、レベルが上がると価値の高い本だけ本棚から立体的に見えてくるという話は、ブックオフヘビーユーザーのあるあるネタらしい。

しかし、僕自身はというと、ブックオフに対してそこまで前向きに語ることはできなかった。恥を忍んでブックオフ通いしていたようなところがある。このブログでも過去に何度かブックオフについて触れているが、社会現象として取り扱ったり、せどりについて触れた程度。

「ブックオフ大学ぶらぶら学部」のようにブックオフ愛を公然と語るようなことはなかった。それはやはり、自分の中で「ブックオフは恥ずかしいもの」という認識があったからだ。

  • ブックオフに通う人々
  • ブックオフの立ち位置
  • 今こそブックオフ談義
  • 僕とブックオフ
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禁煙を始めて1年経った今の心境

どうも、禁煙定点観測所です。去年の6月に禁煙を始めてから不定期に記録を取っています。これまでの記録は以下の通り。いつまで経ってもだいたい同じこと書いている。

2ヶ月

4ヶ月

半年

長らく喫煙衝動と闘ってきた。そして1年が過ぎた。禁煙は今も続いている。ジョギングは全然続かなかったのに。アクティブな活動は続かないらしい。ただ我慢するだけといったパッシブなことなら続けられるのか。そろそろ、禁煙1年が過ぎた今の心境をつづります。

  • やめられた自信はない
  • 健康になったか?
  • 禁煙が続いてよかったこと
  • 自分に向けて、喫煙者・禁煙者へ向けてひとこと
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ヒトコトへの回答⑰

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61通目:婚活の話

婚活のブログ、ここまできちんとマッチングが言語化されているのを初めて読みました。悩んでたことがわかりやすく整理されていてとても感動しました。婚活するときに何度も読み返そうと思います。

婚活のブログと言われてしまった。これのことです。

奥さんに聞いた話だと、婚活がうまくいかない系の相談って大体僕が書いたような「選ばれる人間になるために、自分の市場価値を上げろ」っていう結論に収束するらしい。ここのポイントは、「自分から見て結婚したい自分」になるのではなく「相手が結婚したい自分」になること。よく「私だったら絶対自分を選ぶのに」といった自信満々の声を見かけると思うけれど、あなたを選ぶのはあなたではない、という点が肝心だと思います。「他者から見て」、は「自分から見て」と全然違うから、他人が評価する点をしっかり把握しましょう。努力してまで結婚したくないっていう人はあきらめましょう。あきらめてからが始まりです。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。

コンテンツはその気があるうちに貪り食うのが吉

いつどのタイミングでも抵抗なく食べれるコンテンツというのが、意外とない。ドラマや映画が喉を通らない季節もある。Netflixに加入した当初はドラマを見まくっていたが、今は手を出す気にもならない。映画はときどき見ている方。毎日見ていた頃もあったから、その日々に比べれば見ていない方。漫画アニメは比較的いつでも消化できる方。ただ一気に消化してしまうため、見たいコンテンツがなくなってしまう。

少し前までは、全く本を読む気分ではなかった。最近は毎日読んでいる。読んでも読んでも買ってしまうため、ストックが一向に減らない。読む本、読みたい本に左右されることもあるけれど、読み出せば続けて他もどんどん読むから、やはり内容よりも気分が大きい。気分大事。その気があるうちにどんどん消費してしまったほうがいい。

映画もドラマも今のところ、季節が巡ってきたら再び消費モードに入ることができる。けれど、そのモードがもう来ないことだってある。視力が悪くなれば、本を読むのは億劫になるだろうし、映像の魅力も半減する。耳が遠くなればラジオや音楽だって遠くなる。コンテンツへのハードルが高くなってしまえば、もういいやって思ってしまうかもしれない。ある特定の対象について、消費モードが永久に失われてしまう可能性もある。身体機能だけでなく、環境が変わったりお金がなくなったり、コンテンツそのものが失われてしまうこともある。

たまに、「老後の楽しみにとっておく」というような言葉を聞く。「アフリカと南米旅行は後の楽しみにとってある」と言っていた人がいた。旅行はコンテンツではないけれど、僕は行けるうちに行っておいたほうがいいと思う。若いうちとは言わない。行きたいと思ったとき、行けるうちに。お金とその気があれば。

楽しみは最後まで来ない可能性がある。例えばシリアは2011年まで、普通に旅行できる国だった。文化遺産もたくさんある。けれど内戦が始まって10年経った。いまだ終わる兆しがない。失われてしまった観光地もたくさんあるだろう。もしシリアに行きたかった人が、2011年以前に「後の楽しみにとっておく」をしていたら、悔やんでも悔やみきれないのではないだろうか。あの頃のシリアはどう足掻いても戻ってこない。

お金も時間も体力も意欲も、現場さえも、今そこにあることが奇跡だっていう可能性はある。やりたいことは、できるうちに。勉強とか仕事とか、お金を稼ぐとか、そういうのに時間と労力を費やすのも、本人がやりたいならそれでいいと思う。僕はそういうの全然好きじゃないからやめた。

やりたかったことはやり尽くして、もうない。自分がやりたいことのために苦労しているなら仕方ないけれど、どうでもいいことのための、ただの苦労からは早く逃げたほうがいいと思う。

やりたいと思ったことをすぐ始めている人は、例え失敗しようとも大体正解。楽しくなくてもいい。その気があるうちに始めて気が済むまで貪り食ってしまう。

ちくま新書の80%オフ(6/20まで)、図書館利用について

Kindle本のセールです。僕は4冊買いました。

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[asin:B010L23QCA:detail]

まだ読めてないんで感想は後日。

Kindle本 電子書籍 | Amazon | アマゾン

ついでに、僕は図書館をときどき利用するんだけど、紙の本やKindle本を購入することも多い。図書館で借りる本と、買う本はどう違うか。今回買った3冊だって、セールとはいえ図書館で借りたら無料で読める。図書館を日常的に利用するのであれば、わざわざ買う必要なかったんじゃないか?と思われるかもしれない。

しかし、おそらくこれらの3冊は、図書館でわざわざ借りて読んだりしない。図書館で借りたら2週間で読み切ってしまわないといけない。そういう気持ちになれないと、読まないまま返してしまう。実際のところ、図書館で同時に2冊、3冊と借りた場合、1冊は読まずに返してしまうなんてことがざらにある。本や電子本を買うことの利点として、積んでおけることが大きい。いつでも読める。どんなペースでも読める。ゆっくり読みたい本や、今回のようにセールのタイミングで買っただけですぐに読まない本はある。そういう本は、本棚やKindle内に入っていればそのうち読む。いつか読む。しかし、図書館で一度借りて返してしまった本を再び借りることはない。僕は一度もない。読まなかった本、として処理されてしまう。

今回買った3冊は、図書館では借りない。ということは、買わなければ一生読まないであろう本だ。では、図書館で借りる本とは一体どういう本なのか。まず第一に、高い本。特に、そこまで興味がない本を読みたいけれど高いときは、図書館で借りる傾向がある。次に、売ってない本。Amazonにもない本が図書館にあることは普通。絶版とか。最後に、読み返さないだろうなーっていう本。読み返す本なら図書館で借りて読んでから購入することもある。あったっけ。多分あった。

紙の本とKindle本の買い分けは以前に書いた気がするけれど、最近はまた紙の本を購入することが増えた。というか、電子化されていない本ばかり買っている。

「LOW LIFE」読んだ

グラフィックノベルと言ってしまっていいのか、マンガです。WEBコミックのMeDuというところで2年に渡り連載されていたものが、単行本になった短編作品集。

内容はタイトルの通りで、低い生活の寄せ集め。就活をせずに大学を卒業して、実家で親の金で買ったビールばかり飲むニートの話や、家庭内、世の中で浮く、クズみたいな人だったり、クズみたいな人生のヒトコマをそのまんま描いている。

僕自身が、この漫画の世界観に実に縁がある。底辺なんだけど、どん底というほど切羽詰まってもなく、日々何をしても生きていく意欲をくじかれ、何もする気がなくなる。クソみたいな社会の中で、クソみたいな自分が、クソ共にまみれながら、クソみたいな生活を送るLOW LIFE。生きていく上でいいこととか、希望とかはない。

やっぱ世の中クソだわーって言いたくなる。クソな人間は滑稽であり、その姿、苦しむ姿、失敗する姿、一部始終見ているだけで笑えてくる。この滑稽な姿を描いた物語は、どうみても悲劇ではなく喜劇であり、でもふざけてはいなくて、真面目に困っている。打ち砕かれている。その姿と、人々の反応が笑える。

クズ共には本当に身近な世界。たくさんの俺がいる。無職の俺が職業訓練に通っていたり、俺じゃない人もいっぱいいる。俺はそんなことしないけど、でも等しくクズだよなーって、そういう人ばかり出ている底辺生活の寄せ集め、ローライフ。僕はめっちゃ好きです。

LOW LIFE (MeDu COMICS)

LOW LIFE (MeDu COMICS)

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恋愛・結婚におけるマッチングの難しさ

去年急に結婚したこともあり、「どうすればいい相手を見つけられるか」といったことをときどき聞かれるようになった。恋愛だったり結婚だったり、相手探しに奔走している人は多いようだ。

いい人がいない

「いい人がいない」という言葉は常套句になっている。いい人とはいったいどういう人なのか。話を聞いている限り、自分の願望を満たし、なおかつ自分に好意を抱いてくれる人が、いい人という意味らしい。自分の願望を満たす人はたくさんいるけれど、既婚だったり自分の方を見てくれない。あるいは自分に好意を持ってくれる人はいるけれど、自分の求める条件を満たしていない。その結果、多くの人の口から「いい人がいない」という常套句が漏れる。

「いい人」、すなわち条件を満たしつつ、なおかつ自分に好意を持ってくれる人を見つけるために取られる手段として、とにかく数を当たるという方法がある。「いい人」という低い確率の当たり判定を、絶対数を増やすことによって実現させる。そのために世のマッチングサービスは、あらゆる形式で発展している。

「いい人」以外の二つの選択肢

しかしそれでも「いい人」に出会えなかった場合、状況を打破するためには、二つの選択を迫られる。一つは、条件を満たす人を自分に振り向かせる。もう一つは、条件を満たさないけれど、自分の方を向いてくれる人で手を打つ。相手が折れるか、自分が折れるか、いずれかを成し遂げることにより、「いい人」以外のところでマッチングが成立する。

まとめると、パターンとして3つに分かれることになる

①お互いの希望に沿う「いい人」に巡り合う
②相手を振り向かせる
③自分が妥協する

一番難しいのは、言うまでもなく①「いい人」に巡り合うことだ。

その人は本当に「いい人」なのか

「いい人」だと思っていても、そうじゃないことだってたくさんある。それを判断するのが恋愛段階だったりするが、わからないまま結婚して判明することもある。自分が相手にとっての「いい人」じゃなかった場合もある。

特に相手探しのマーケットにおいては、マッチングを成立させるために自らの条件を盛る傾向がある。条件で絞ったはずなのに、いざ親しくなってみると全然違ったってことは日常茶飯事だ。

マッチングの条件提示にはカマシ、嘘騙しが数多く存在するため、いくらでも誤魔化せるような表向きの情報はあてにならない。そういう嘘を見抜く手順だったり、ミスマッチを繰り返していると、やがて相手探しそのものに疲弊する。

そういう後々のミスマッチは、「いい人」だと思っていたパターン①だけでなく、他のパターンでも起こりうる。でもそれは後々のことだから、ここではひとまず保留する。

一番簡単なマッチング方法

「いい人」と巡り合うことを待つのに疲れ、別の方向でマッチングを成立させる人は多い。一番簡単にマッチングを成立させることができるのは、パターン③だ。自分が妥協する。言い寄ってくる人がいるなら、自分のさじ加減次第でマッチングは成立する。ただし誰からも好かれない人に、パターン③の手段は取れない。そして実際のところ、③の手段が取れない人は、パターン②の手段も取れない。誰からも好かれない人に、誰かを振り向かせることができるとは到底思えない。

まず、人に好かれるところから

パターン③の手段も取れない人は、まず自分が人に好かれる人間になるところから始めないと、スタートラインにさえ立てない。この段階にいる人は、何から始めたらいいだろうか。正直なところ、他人が自分のどこを好きになってくれるかは、人によるからわからない。まずは見た目とか性格とかお金とかそういうわかりやすい話ではなく、人として何がしかの魅力を備えたほうがいい。

僕がおすすめするのは、好きなことを見つけること。何か夢中に取り組めること、努力が苦にならない対象を見つけること。その筋の第一人者になったりプロになる必要はなく、趣味レベルでいい。上手ければそれだけで魅力的だが、何かを頑張っている姿だったり、夢中な姿というだけでも十分魅力的なものだ。何かを好きな人は、輝いて見える。

あとはその魅力が伝わる場に参加すること。競い合う場、高め合う場、共有する場。そういう場所が自然にマッチングの場となる事例は枚挙にいとまがない。マッチングそのものを第一目標としないほうが成果は出る。マッチングはあくまで副産物として、自分の好きなことを楽しむ方を重視しよう。それだけでも魅力は備わる。

それでもスタートラインに立てない、すなわち人に好かれないようであれば、何か個別の理由があるんじゃないだろうか。誰にでも何かしら、個別の特性がある。何事も程度の問題だから、個別案件はここでひとまずパスして先に進む。

「妥協」で失敗しないために

スタートラインに立ったとして、③自分が妥協する、つまり自分はそれほど好きじゃないけれど、自分に好意を持ってくれる人で手を打つというパターンが、マッチングを成立させるには一番簡単だ。とにかく彼氏・彼女がほしい、結婚したいという人は、自分を好きになってくれる人で手を打つことは珍しくない。相手に対してそこまで願望がなく、相手に言い寄られて手を打つことも、形式としてはパターン③に近い。

問題は、「③自分が妥協する」という手段が取れる人は、既にやっているケースが多いことだ。要するに、妥協できないからこそまだマッチングを待ち続けているのであり、そういう人は妥協したところで失敗を感じたり、相手に不満が出てくる可能性が大いにある。

妥協を選択するにあたっては、ただ妥協するだけではうまくいかない。その選択に対して、自分なりの納得感を持つことが重要だ。例えば、相手は自分の希望条件を満たさないけれど、自分のことをすごく好いてくれるから、日々の満足度は上がる、とか。最初の希望通りではなかったとしても、何か別の条件で上回ることができれば、妥協に納得できる。納得できていれば、後々不満もいだきにくい。

理想の人に振り向いてもらう

条件に妥協ができなくて、どうしても自分の希望に沿う人と付き合いたい、結婚したいという人は、パターン②相手を振り向かせるしかない。言い換えれば、相手に自分で妥協してもらう。何を隠そう、僕自身がとったのもこの手段だ。僕は結婚願望がなかったから、よほど自分がいいと思った相手でなければ、結婚などあり得なかった。

そもそも相手を探していなかったから、婚活的なマッチングサービスを利用したことがない。そういった相手探し市場の外で、僕は相手を見つけたことになる。仕事で例えるなら、新卒なり転職なりの採用マーケット外のところ、スカウトにあたる。スカウトは採用と違い、こちらから相手の希望に合わせていかなければいけない。結果的には、相手を納得させる形でマッチングが成立した。

結婚とかどうでもいいと思っていた僕が、この人とだったら結婚してでも一緒にいたいと思って、なんとか手を尽くしたのが僕のケースにあたる。まあ、もちろんそれ以外にも、前提としてお互い条件が合う部分はあった。

相手の理想に自分を近づける

パターン②「相手を振り向かせる」を成立させるためには、パターン③のようにただ妥協すればいいほど簡単ではない。それでもやる気があればなんとかなる。それでは、何をどうすればいいのか。相手に妥協してもらうんだから、自分が相手の理想に近づけばいい。

相手がどういう人が好きで、どういう条件で相手を探していて、どういう部分は譲れないのか、パートナーに対して何を求めているのか、それをひたすら探り、相手の理想の中で自分に当てはめることができそうな部分を、ひたすら取り込んでいく。自分を少しでも相手の理想に近づけ、相手がパターン③の妥協を選択してくれるまでに持っていく。

これをちゃんとやっている人は、うまくいってるんじゃないだろうか。というのも僕に対して「どうすればいい相手を見つけられるのか」と聞いてくる人は、この観点が全く欠けていることが多い。理想の相手に振り向いてもらおうとするのに、相手の理想に満たないそのままの自分で勝負して無残に散っている。そのままの自分では相手に求められていないことがわかっているのにも関わらず、何故か自分を変えようとしない。これはもう、やる気がないとしか思えない。

相手の理想と根本的に合わないのであれば、その相手はあきらめるしかない。どう頑張っても近づかないのなら、努力する甲斐はない。そのあたりは本当に相手のことが好きかどうかで分かれる部分でもある。そこまでするほどの相手ではない、と感じてあきらめることだってあるだろう。本当に振り向いてほしい相手なら、ただ待つのではなく努力を惜しまないことだ。

あなたは「いい人」なのか?

「どうすればいい相手を見つけられるか」と聞いてくる人には、要求ばかりの人が多い。「〜な人がいい」「〜してほしい」といった、ただ自分に都合のいい相手を求めているだけ。「それでは、あなたは対価として相手に何を与えられるのか?」と訊ねると、答えられないことが多い。また、「あなたを選ぶ相手は、あなたのどこをいいと思って選ぶのか?」と聞いても答えられない。

相手も同じ人間であり、お互いがいいところ悪いところ、許せるところ妥協できないところ、好きなところ嫌いなところ、を検証し合い初めてマッチングが成立するにも関わらず、その事が頭にない。相手も同じ立場だということを理解していないと、自分が選んだとしても相手からは選ばれない。それがわかっていない人は、あまりにも自分の武器を持たない。私と付き合えば、結婚すればこんないいことがあります、私はこんないい人です、何もないから攻め手に欠ける。そして選ばれない。

「いい人がいない」と思う前に、まず自分が「いい人」かどうか疑ったほうがいい。「いい人」でなければ、「いい人」を探すよりもまず自分が選ばれる人になるよう、「いい人」になったほうが早い。目当ての対象がいるなら、項目を絞って「その人にとってのいい人」になると、自分が望む人とのマッチング成功率は上がる。

自分の武器を増やそうとして、いわゆる「自分磨き」に精を出す人はいる。でもその多くは、やり方を間違っている。大事かもしれないが、表面的なことだけを取り繕っていることが多い。それでは根本的に選ばれない自分は変わらない。モテない人がパーマを当てたり服に凝りだしても、決してモテないのと同じ。

人からよく見える自分、ではなく、人に良さを提供できる自分へ、武器を増やしていくのがいいと思います。例えば、簡単なところで、男女関わらず料理とかはいいんじゃないですか。料理ができる自分、ではなく、相手が喜ぶ料理を気軽に提供できる自分になることが肝心です。頼れるあなた、心強いあなた、知識や経験豊富なあなた、優しいあなたを好きになる人は、それが発揮できる現場に必ずいると思います。