なんかやりたいこと

あったんかなー。自分にとってやりたいことは、即物的なことしかなく、その場の思いつきでやってきた気がする。自分の意識は、今と結果にある。未来はあまりない。未来の何かに向けて行動するということがずっとなかった。やりたくないことをやらない、やめる、その結果がある。先々に向けて、何かをやってきた覚えがない。考えたこともない。そういう生き方、思考パターンではなかった。

だから自分にとってのやりたいこととは「今やりたいこと」で、やりたいと思ったら大体すぐやっているから、「やりたいことがある」という状態があまりない。「もう既にやってる」になる。準備段階もあまりない。今すぐできることしかやりたいと思わない。それが例えば旅行の準備といった、やりたいことに至るまでの過程だったとしたら、それはもう既にやりたいことに含まれているから、やっていることになる。

そんな思考・行動パターンだから、「やらなくて後悔」というのはまずない。タイミングを逃した、ということはあっても、行動しなかったことが悔やまれることって思い浮かばない。やりたいことは、やればいいんだから、やらなくて後悔するというのは、僕としてはけっこう理解できない。なぜやらないのか?僕なりの理解では、それはきっとやりたくないんだろう、と思う。怖いとか恥ずかしいとか面倒とか勇気が出ないからやりたくないという気持ちが、やりたい気持ちに勝ってしまう≒やりたくない。

なんかやりたいことあるかな、なんて考えたら、やっぱりないな、と思う。今じゃないな、と思うこともある。それはやっぱり僕の中で究極に強い気持ちであるめんどくさいが勝る。あとはなんかそんなやりたいこととか言い出したら、今の生活が犠牲になってしまう。例えば僕はただやりたくて外国で3年ほど暮らしていたけれど、今はそんなこと絶対できない(もうやりたいとは思わない)。

やりたいことは、なんとなくやりたいというよりは、明確な意思だったり理由があることが多い。10年ほど前、日本の生活が本当に嫌になり、環境を変えたら何か違うかもしれないと思って、外国に住んでみた。いろんな国、仕事、環境を試してみた。結果としては、ある意味で違うには違うけれど、同じと言えば同じだった。環境を変えるということは、あまり自分に影響しなかった。

なんかそういう明確にやりたいことが思いついたら、行動するかもしれない。そしてすぐ飽きてやめるかもしれない。自分にとってのやりたいことって、そんなもんだなあ。

2022年にiPhone6s

現在奥さんのお下がりの iPhone X を使っているのだけど(奥さんは12Max Pro)、昨日家の中で落とした拍子で画面に線が入るようになった。割れたとかではなく、画面内に縦線が入る。スクリーンショットを撮ると線は写らないから、液晶が壊れたのだろう。再起動などをしても治る気配がない。

これまでガラスが割れたことはあったが、こんな形でiPhoneを壊したのは初めてだ。iPhone X は2017年の商品で、今年は2022年だから奥さんと僕とで丸4年以上使ったことになる。液晶が壊れたんだったら、さすがにもう買い替えていいだろう。現行で買い換えるとしたら、最新スペックなんていらないからSEでいいやと思った。iPhone SEの第3世代をAppleのページで見てみたら、高い。6万円近くするSEなんてSEと呼べるのか。

型落ちのSE2だと、新品で4万円、中古品で2万円からあった。もともと必要のなかった出費だから、なるべく低く抑えたい。どうせケースに入れて使うんだから、もうこれは中古品でいいんじゃないかと思えてきた。外装に傷があろうとなかろうと、どうせ隠れてしまう。そう思って今ヤフオクやメルカリを見まくっている。これを買ったとして、どれだけ長く持つかわからない。

まだ購入していないけれど、買って手元に届くまでにもしばらく時間がかかるだろう。 液晶の壊れた iPhone X は眩しくて使えたもんじゃないから、急を凌ぐため以前に使っていた iPhone 6s を引っ張り出してきた。Xのデータを全て6sに移す作業をやる。幸い6sでも最新のiOSに対応している。移行手続きはスムーズだった。

iPhone6s ともなると2015年の製品で、7年前となる。データを移し替えていざ使ってみたら、バッテリーが全然もたない。バッテリーの消耗も70%と著しいが、それ以上に現行のOSやアプリが大容量バッテリーを前提とした仕様になっているため、満充電しても6s程度のバッテリーではすぐに使い切ってしまう。これをこのまま長く使い続けるのはしんどいと感じた。

型落ちを中古で買ってまでiPhoneを使おうとするなんて、おそらくAndroid勢の人からすれば狂気の沙汰だと思われるんじゃないか。僕も一時期Android機を使用していたけれど、結局iPhoneに戻った。近年では僕みたいにAndroidを使ってみたけどiPhone戻りした人も多いと思う。もちろん Google Pixel などの台頭でそのままAndroidへ移行した人も多い。特にスペック重視の人ほどAndroidへ流れている。

僕は使い勝手のシンプルさと安定性を重視して、Androidはやめてしまった。高くて低スペックでも、結局iPhoneを使っている。ブランドというよりは本当に慣れであったり、いまだにMacBookを使っているからその互換性を取ったという具合。Airdropとか使いたいじゃないですか。

「光りの墓」は爆睡映画だった

アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の新作映画「MEMORIA」の公開に伴い、アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ 2022 という催しが行われている。僕は2015年公開の過去作「光りの墓」を見に行った。

【アピチャッポン イン・ザ・ウッズ2022 各劇場 上映情報】|ムヴィオラ|note

映画館で寝るっていうことはあまりない(たまにある)。今回の「光りの墓」はとんでもない爆睡映画だった。寝てしまう映画と言うと、普通は退屈な映画を思い浮かべるかもしれない。ある意味その通りでもあるんだけど、この「光りの墓」はむしろ「寝るための映画」と言ってもいいんじゃないか。

というのも、前の席の人もどうやら寝ている。隣の人も、どうやら寝たり起きたりしている。劇場に来ている観客の全員が、おそらく上映時間のどこかで寝ている。いくら眠たい映画といえど、そんなことが実際にありうるのだろうか?いや、この映画に関しては、どう考えても意図的に眠気を誘っている。映画なのに!

僕は見る前から「眠気を誘う映画」という評判を聞いていたので、気を引き締めて見に行ったつもりが、うっかり数分寝てしまった!いかんいかん、と目を覚まし、画面に目をやるが、集中すればするほど…眠い…何じゃこの映画は。そして観客もみんな寝ているではないか。まるで集団催眠術にかかっているような、異常な映画体験。

この映画をソフトや配信で、自宅で見ようものならきっと、最後まで見続けることができなかっただろう。映像そのものは意味がわからない。長いし、単調で、どうしても途中で止めていたと思う。ただわからない映画という感想だけが残ったんじゃないかな。しかし映画館はそうはいかない。

「光りの墓」は眠り病にかかった兵士たちを寝かす病棟が舞台の映画なんだけど、画面のこちら側にも眠気が伝わりすぎて、映画と観客席との境界がなくなっている。スクリーンと客席がこれほどまでに一体化した映画館は、これまで見たことがない。しかも寝ている。

内容については、特に触れるところがない。あまりよくわからない。「ブンミおじさんの森」のほうが見やすかったから、アピチャッポン映画を見たことがない人はブンミおじさんを見ることをおすすめします。「光りの墓」を見ようと思う人は、ぜひ映画館で、絶対一度も寝ない覚悟で挑んでみてください。

ブンミおじさんの森(字幕版)

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  • タナパット・サーイセイマー
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ヒトコトへの回答㉕:大人になってからの友人

このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。

72通目:大人になってからの友人

歳を重ねるにつれて虚しさを感じたり、孤独を感じる事が増えてきた。
何度かこの「ひとことどうぞ」に投稿しているのですが、また投稿しちゃいます。

24歳男です。社会に出て、仕事柄多くの人と会ったり知り合ったりするのですが、学生の時とは違い誰とも腹を割って話して仲良くなれていないような気がしています。
その気持ちって年々強くなっていて、例えば小学生の時は無垢に他人と積極的に関わり遊ぶことが心から楽しく充足感を感じていたと思うのですが、成長するにつれ進学するにつれ新しく仲を深める友人というのはどんどん少なくなり、社会人になってからは親しくなれたと思う人は誰もいません。

職場の人の「名前」「最寄り駅」ぐらいは知っていますが、それ以外に何も知らずただ一緒に仕事を進めている”だけ”という関係性なんです。
ここ数年ずっと話す人たち皆んな、名前は知っていますがそれ以外何も知りません。 本当に人っていうのがただの「記号」であり「情報」になってるんです。

違う目線で見ると、自分も誰にも心を開いていないんですよね。 進んで自分から情報を開示したりしませんし、積極的に他人と関わろうともしていません。
もう近代化が進んで合理的になっている現代で、みんな同じようだとも思うのですが、そうやって生活していると自分がプラスチックであるような非常に無機質な存在に感じます。

幼い時はそんなことありませんでした。新鮮なフルーツのような果汁をたくさん秘めていていつも新鮮で目が輝いていたように思います。
その時の記憶や感覚が残っているからこそ、成長してしまってこの現状がとてつもなくキツく不自然に感じています。
それを寂しさや孤独と書いたのですが、川添さんは大人になってからの人との関わり方の違いを感じたことがありますか?

私の性格上、どっちかというと1人で本読んだり物思いに耽ってるのが好きなんですけど、それでもこの感じている他人との関わり合いのギャップに酷く寂しさを感じ、年々酷くなっているように思います。まだ20代なのでこの先人生まだまだ長い、これはキツイなと思い、勢いで書かせてもらいました。

何度かもらってるそうです。どの投稿でしょうね。

今回の内容は「大人になってからの人との関わり方の違いを感じたことがありますか?」という質問だった。子供の頃とは違う、醒めた人間関係に物足りなさを感じている様子。なるほど、確かに仕事を通じて知り合ったり関わったりする人は、どうしてもビジネスフィルターがかかる。僕も仕事を通じて知り合った人と、プライベートな友人になるってことはほとんどなかった。同じ職場の人だって、同期入社だった人も、今は全く連絡取っていない。

僕がわからないのは、大人になってからの人間関係が無味乾燥としていて寂しいと言いつつ、なぜ自らその状況を維持しているのか。「心を開かず積極的に人と関わらないから、かつてのような人間関係を築けない」という原因が分かりきっているなら、打開すればいいのに、それをやらない。なんでだろう?

職場の人間関係がめんどくさくなるなら、遊びや趣味の場、交流の場に参加するでもいい。スポーツでも音楽でも芸術でも習い事でも、なんなら読書会のような社会人サークルでもいいし英会話スクールみたいなのもある。休日のうち何時間でもそういう時間に割り当てれば、その孤独や寂しさは解消できるように思うんだけど。

僕の周りでは、社会人になってからフットサルをやっている人が多かった。バーに通って店の人や客同士で交流している人もいた。トークイベントや映画館、舞台に通って共通の趣味の人を見つけている人もいた。キャバクラなんかに行ってる人もいた。今だったらツイッターやアプリを通じても交流相手を見つけやすい。

そういう何らかの活動に参加したり、関わる相手を見つけたりするのが嫌ならば、現状に甘んじるしかない。寂しかろうと孤独であろうと、それが「行動しない」という自分の選択の結果なのだから、納得行くはず。

僕自身の話。僕は学生時代の友人とも、ほとんど連絡をとっていない。数少ない人と、連絡するとしても年に一回かそのぐらい。だから「大人になってからの人付き合い」という変化はあまりないと思う。かつての友人との縁は、それぞれのタイミングで接点がなくなり途切れた。

大学を卒業して社会人になってからも、以前とあまり変わらなかった。大人になったことがきっかけで、人間関係が無味乾燥になっていった覚えはない。腹を割って話すとか、自己開示とか、普段から平気でやっているほうだと思う。だだ自分の場合はどちらかというと、他人と関わるためではなく普段からそうなだけで、何事も一人でやることが多い。

自分がやりたいことはだいたい一人でやる。一緒にやる人がいたら声をかける。けっこう気軽に声をかける。

人はいてもいなくてもいい、人付き合いそのものが楽しいってことはそもそもあまりない、大人になる前後で大した変化もない、寂しいとか孤独とか思わないというのが僕の回答になります。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。

毎日のストレスと

日々のストレスを誤魔化すために飲酒量が増える日々、増えているのか、前々から変わらない気もする。かつては眠くなるまで酔って、酔った勢いでないと寝られなかった。酒代を節約するために、少量で酔えるウイスキーや焼酎ばかり飲んでいた。長らくボトルが家にあり、空けては買ってを繰り返していた。今は主にビールと酎ハイだから、アルコール摂取量は減っているんじゃないか?どうだろう。

禁煙を始めてから、あと2ヶ月で3年になる。かつては飲酒とタバコがセットだったおかげで、酔いが回るのも早かった。今は飲酒のみで、その分やはり酒の量は増えているだろうか。運動とかすればいいって定期的に思っているけれど、準備がめんどくさくてなかなか。食べ物の消化が遅くて取り掛かるのに時間がかかったり、酒が飲めなかったり、着替えたり余分に洗濯したりと、運動にまつわる余計なことが多い。

ストレスをやり過ごす、そういうスキルが全然備わっていない。ストレスマネジメントは、そもそもどれぐらいストレスを感じるかに大きく関わってくる。そこからさらにストレス耐性がどれほどあるか。ストレスそのものを避けることが根本的には大切で、自分の場合にはなるべくそれで対処してきた。原因を取り除けば、自分を変える努力も必要ない。これまでは手を抜いて、避けるという手段をとってきた。

日々ストレスに晒されるなかで、その多くは避けることができる。関わらなければいいだけ。もしくは、形だけ表面的に関わって、入り込まないようにする。本当に深く関わらないといけないことは、ごく限られている。今自分はそれに晒されているわけで、避けられない場合、ストレスマネジメントのいつもの手段が使えない。堪え忍んだり、酒で誤魔化すしかない。

ストレスだったりなんであったり、弱い自覚があるからずっとずっと強い人間になろうとしてきた。だけどあまりうまくいかなかった。ときどきモロにストレスを受けている人を見てゾッとすることがある。でも彼らは本質的に強い分、僕なんかと違って平気だったりする。事あるごとに泣き喚いたところで、平然と日常生活が送れているならそっちのほうが十分強い。

多くの時間を費やしているおかげで、それ以外のことにあまり時間が使えていない。それでも図書館で借りた「プロジェクトヘイルメアリー」を、期限までになんとか読み終えようともがいている。上下巻の上巻が終わりそうだ。この本については、事前になんのネタバレも見ないほうがいいと言われていたから、内容については伏せておこう。他の本は全然読めていない。映画はときどき、配信で見る程度。

あんまりだなあ。創作物を摂取することでなんとかかんとか、それもままならない。平穏な暮らしは続かんもんだ。

新しい MacBook Air を待ち望んでいる

先日Appleの発表があったけれど、MacBook Air の新しいデザインはなかった。僕は2016年の悪名高き MacBook 12inch ローズゴールド をいまだに使っており、その前はシルバーの MacBook Air を使っていた。現行の MacBook Air はシルバー、ゴールド、スペースグレイの3色で、あまり惹かれない。新しい色が出たら買い替えたいな、と思いながら何年も待っている。

パソコンの寿命はだいたい3年とか5年とか言われている。それは動かなくなるという意味ではなく、バッテリの保ちだったりスペックが追いつかなくなる理由から来ている。今使っているのは丸6年経ち、7年目に入った。

  • 高1からパソコンを使いはじめて(1999)
  • 大学1年でエプソンダイレクトのノートパソコンに乗り換え(2003)
  • 社会人1年目に iMac からのMac入門(2007)
  • 社会人5年目にMacBook Air(2011)
  • オーストラリアで買った今使っている MacBook(2016)

振り返っても今の MacBook を一番長く使っている。最近では「iPadで十分、iPhoneで十分」という人も多い。今の若い人はパソコンを使わない人が多いと聞く。僕はMacだからゲームはしないし、仕事でパソコンが必要というわけでもない。それでも普段遣いで、タブレットよりスマートフォンよりも長くMacを使用している。iPhone初期からの、母艦としてのMacの立場が変わらない。

そういうわけで、デザインの一新されたMacを待ち望んでいるのです!長らくウィンドウズを使っていたのに iMac を買うことに振り切ったときも、プラスチックからアルミ筐体に変わったタイミングだった。見た目から変わることで、気持ちの盛り上がりも大きい。

なぜ Air なのか。Pro はないのかというと、Proはでかくて重いから、持ち運びにくい。デスクトップは、そもそも今デスクがない。携帯性でiPadとキーボードも考えたことあるけれど、スペックの割に高く、やれることの範囲は狭い。Apple製品以外は、たまにはいいと思う。メインで使うのはできるだけ Mac がいい。

次期MacBook Airはデザイン一新、ただしM1チップ続投とのアナリスト予測 - Engadget 日本版

新型MacBook AirはM1搭載しデザイン刷新と予想〜M2とミニLED搭載されず - iPhone Mania

入院中の父に持っていった本、漫画

現在も入院が続いている。コロナではないが、コロナ禍ということもあって面会は全面禁止、病室は大部屋であっても仕切られており、患者同士のコミュニケーションがとれない。

父の入院生活は一ヶ月続いており、さぞ不安で孤独で、暇な時間を過ごしていることだろう。せめてもの暇つぶしにと思い、僕が本や漫画を持っていっている。差し入れは直接の受け渡しができず、看護師を介してとなる。

  • 父親のスペック
    • ねじまき鳥クロニクル
    • 高野秀行本
    • 風の市兵衛シリーズ
    • 独ソ戦
  • 漫画
    • ゴルゴ13
    • いちげき
    • イサック
    • チ。-地球の運動について-
    • 満州アヘンスクワッド
    • ヒストリエ
    • 狼の口 〜ヴォルフスムント〜
    • ギャラリーフェイク
    • へうげもの
    • 天地明察
    • 紫電改 343
  • 雑誌
  • 持っていってないもの
    • 戦争は女の顔をしていない
    • 東京の生活史
    • プロジェクト・ヘイル・メアリー
  • 考察:入院中のシニア世代におすすめの漫画
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寺社仏閣以外の京都観光・街歩き 2022

洛外から知人友人が遊びに来るとき、たいていオススメの場所を聞かれる。京都のおすすめ観光地、穴場スポット的なものを聞かれて答えるのは、非常に難しい。地元の人間は生活者でしかなく、普段から観光地ではない生活の場にいる。

どこにでもあるようなカフェ、雑貨店、服屋、本屋などなど、外から京都に来てわざわざ行くような場所ではない。行ったところで「お、普通やな」「東京、大阪にもっといいところがある」「地元にもある」となるだろう。

そういうのをあえて知りたいという人が、果たしているのだろうか?BRUTUS、TRANSITの京都号あたりは、そういうのも含めてけっこう網羅していた。全部が観光客向けではなかった。

「京都ケチケチ買い物案内」はマンガだけど、好きな人は好きだと思う。

おしゃれなカフェとか飲食店は全然知らないが、身の回りの行ったことあるところ、ないところ、有名なところを、聞かれたときに知ってる範囲で答える用にリストアップしておく。このリストは機能するだろうか?

  • カフェ
  • ラーメン屋
  • 和菓子
  • 本屋
  • レコード屋
  • 映画館
  • 京都国際マンガミュージアム
  • 鴨川ジョギングコース
  • 2022年時点
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最近欲しい物 2022.02

買っていない欲しい物。そのうち買うものもあるかもしれん。ないかもしれん。あまり物を買う余裕がないから、欲しい物をただ並べるだけ。僕の代わりに買ってください。

  • レコード
    • 冥丁 - 古風 II
    • The Weeknd - Dawn FM
    • Grouper - Shade
    • 地球の歩き方 ムー
    • 私の文学渉猟
    • 新訳 ナイン・ストーリーズ
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ただ生きるだけのことが

最近は大変なことがあって、つくづく何で生きてるんだろうなと思う。生きていてよかったとか、生まれてきてよかったと思ったことは一度もない。ただ生まれたから生きているだけで、仕方なく生きている。自ら死のうとしたことはないけれど、死のうと思って死んだ人には「わかるー」と言いたい。いや、僕の痛みや苦しみなんてちっぽけなものかもしれないけれど、それでも。

生きていく上で避けられない苦しみがあり、飢えや困窮、人間関係、病気、戦争、災害、差別などなど、人によって違うけれど、なぜそういう苦しみを受けないといけないのか、何のために、と思う。それはある種、原罪のようなもので、生まれたときから避けがたく背負っている。例えば、死に至る恐怖や痛み、苦しみは、程度は人によるが、誰しもが避けられない。

世の中にはそういうものばかりがあって、つまり、生きていく上で痛みや苦しみばかりがあって、なぜそんなつらい思いをしてまで人は生きているのか、僕には全くわからない。その「なぜ」に興味があり、これまで人の苦しみを読んだり伺ったりしたこともあった。人がなぜ苦しまないといけないのか、なんのために。その苦しみの上で、どうやって生きているのか。どう乗り越えているのか。

結果的には、その答えみたいなものは見つからなかった。ただそこに苦しみがあるというだけ。そして人によってはそれが乗り越えられるたぐいのものであり、程度によっては一生癒えない心の傷になり、自ら命を絶つ人や、精神を患う人がいる。困難に意味はなし。痛み、苦しみに意味はなし。生きていける人はそれでも生きていける。何らかの形で壊れる人が脱落する。ただそれだけ。

生きていて、いいこともなくはない。でも苦しみの量、質と比べると、とてもじゃないけど割に合わない。

自分はこれまでそんなにひどい目に遭ったことはない。戦争も災害も経験していない、重い病気や怪我や障害も、いじめも差別も拷問も飢餓も何もない。ただそれでも、誰しもが経験するような苦しみで、つくづく生きることが困難に感じる。なぜこんなにつらい思いをしないといけないのか。きっとホルモンのバランスが悪いのだろう。セロトニンあたりが出にくいのかもしれない。

こんなに苦しいのであれば、僕は本当に生きていたくないわけで、でもなんでこう、生きるということが必然的に苦しむ構造になっているのかが、まったくわからない。そういう人と、そうじゃない人がいる。僕はたまたまそういう人だった。ただ生きることが苦しい。ときどき、こんなに苦しいんだったら人類みな滅亡したほうがいいんじゃないかと思うけれど、世の中にはそんなに苦しくない人がいて、そういう人生エンジョイ勢にとってみれば、滅亡なんていい迷惑なのだろう。

それよりは安楽死・尊厳死などという議論のほうが、まだ現実的だ。安楽死は、自分でできれば一番いいんだろうな。ただの自殺とどう違うのか。手段の違いだけ。周りのことなんて考えなくていいと思う。ただ人の手を借りるといろいろややこしいから、自分で行使できるのが理想だ。集団自殺とか、全員が全員真剣なんだったら、別にいいんじゃないかと思う。

この手のことを、十代の頃からずっと思っていた。ここ1年は人生の苦難みたいなものを遠ざけていたから、最近また現実の痛みを実感しており、昔からこんなことばかり考えていたことを思い出した。ただ生きていることがつらく、苦しい。人間の生なんて、絶対に肯定できない。

2021年に見た映画

「今年見た映画」というタイトルで、これまで何回かまとめていた。2021年は終わってしまい、そのままほったらかしていた。一応まとめておきます。ついでに2022年一発目は「ドントルックアップ」でした。楽しくてマジでムカつくお祭り映画。いっそこれぐらいのことが実現してほしい。ゆっくり真綿で絞め殺すような現実がつらい。

ドント・ルック・アップ | Netflix

  • 2021年に見た映画
  • 傾向
  • 特に印象的だった映画
  • 見たい映画2021
    • あのこは貴族
    • マリグナント
    • ジャングルクルーズ
    • ジャンクヘッド
    • ミックステープ
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2010年代との邂逅:ニート、ノマド、シェアハウス、ブログ、海外移住

(ミニマリストを足してもいい。僕はそんなに乗っからなかった。)

今日、文学フリマ京都があった。そういう催しがあることは知っていたけれど、これまで行ったことがなかった。会場が家から近いのと、一緒に行く人がいたことで、今回初めて足を運んでみた。京都もオミクロン株が確認され、感染者数は過去最大となり、ギリギリまで行くかどうか迷った。けれど飲食をするわけじゃないし、混んでいれば撤退しようと思って足を運んだら、けっこう空いていたから安心した。

行こうと思っていたところが3つあった。一つは最近読んだ「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する」の友田とんさんが、東京から来ているということで「『百年の孤独』を代わりに読む」を買った。もう一つは、2014年頃にブログをよく見ていた真夜中の波ちゃん(この名義で固定されたんだな)。僕が日本に帰国してからいろんな人に会ったうちの一人で、それ以来、実に5年ぶりだった。最後に、エリーツ、phaさん。phaさんは僕が一方的に知っているだけ。面識はない。今回売り手と買い手という立場で、初めて会話をした。ほとんど僕が一方的に話すだけの、他愛のない雑談。

話終わりに僕はつい、「遠いところまで来てしまいましたね」などと口にした。相手には聞こえなかったかもしれないし、聞こえたとして何のことかわからないだろう。僕がphaさんを知ったのは2011年、およそ10年前。当時phaさんは「日本一のニート」と名乗っていた。最近は毎年本が出たり、バンド活動をされたり、ジェーン・スーなどとイベントを行ったりされている。ずいぶん前からニートは名乗らなくなり、ギークハウスも解散した。もうプログラムも書いてないんじゃないだろうか。僕が知った頃のphaさんと今とでは、やってらっしゃることが大きく違う。僕も10年前と今とでは全然違う。

この10年にいろいろあった。去年読んだ記事で、ギークハウスが当時からそんなに順調じゃなかったことを初めて知った。

日本一有名なニートだったphaさんが、シェアハウスという青春から卒業して一人暮らしを選んだ理由【いろんな街で捕まえて食べる】 - SUUMOタウン

メディアへの露出が増え、活躍の場も増え、どんどんスケールアップしていくように見えるphaさんも、実は意外と思い通りにはいかなかったのかもしれない。当初思い描いていた方向とは全然違う形で、現在ある種の成功というか、落ち着きに至っているのかもしれない。

phaさんは、僕の2010年代のロールモデルだった。2010年代の新しい生き方を象徴する人だった。そして今年2022年になり、初めて本物を目の前にして、当時と邂逅してしまった。

2010年代。震災以降などとも呼ばれたから、正確には2011年以降かもしれない。2012年初頭にはこういう記事があった。当時空気感がよくわかる。

佐々木俊尚が5人の若者に聞く『21世紀の生き方』第1回「ノマド、シェア、そして家もいらないーー私たちはこんな生活をしています」(佐々木 俊尚) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)

ホリエモンですら、出所したらノマドになりたいなどと言っていた。ノマドと言っても昨年アカデミー賞を獲った「ノマドランド」みたいな話ではない。テクノロジーを駆使して場所に縛られない生き方を、10年ほど前にノマドと呼んだ。この言葉は早々に廃れた気がする。

折しも2020年よりコロナ禍となり、リモートワークが進んだことで当時言われたノマド的な生き方がより進んだ人もいると思う。リモートワークという言葉は当時からあった。海外のサービスでリモートイヤーというサービスがあり、それは1年を通して世界各国を回りながらリモートワークするというもので、ちょうど京都も拠点に含まれていたため紹介されたことがあった。それは2016年だった。

「リモートワークと旅を同時に」Remote Yearが1200万ドルを調達 | TechCrunch Japan

「会社を辞め、ブログやWebサービスなどネットから生活の糧を得て、シェアハウスに暮らす。もしくは手に職つけて、海外に移住する。もしくは二拠点生活」

そういう生き方ができるかもしれないと夢を見たのが、2010年代だった。プログラミングに手を出したこともあったが、あまりにもピンとこず楽しくなかったので早々にあきらめた。ブログはもともと書いていたけれど、当時は広告を貼って即物的なエントリーを書き、注目されることを狙ったりもしたが、性に合わなかった。シェアハウスは、コネでもないとハードルが高すぎた。普通に家を借りてシェアをしてみたが、思い通りには行かなかった。

唯一やったのが、会社を辞めること。そのついでに海外へ行った。海外へ行ったところで具体的にやりたいことはなく、できることもない。ずっとその場しのぎ、時間つぶしだった。これからもその場しのぎ(その日暮らし)の生活をするんだろうなと、ぼんやり思うようになった。それはそれで良かったと思うし、現実の自分にはそれ以外の道がなかった。2010年代に思い描いていた暮らしは、途中から絵に描いた餅だった。

「遠いところまで来てしまいましたね」という言葉は、phaさんに向けて出た言葉であり、自分に向けた言葉でもあった。僕自身の今の生活は、スリルや冒険はなくなったけれど、これまででもっとも落ちついている。決して今が悪いというわけではない。けれどあの頃思い描いていた、理想とした未来とは、全然違う形になった。それはひょっとすると、phaさんとて同じなんじゃないだろうか。そんなことを勝手に思った。

僕の会社員の頃の同期で、phaさんと友達だと言っている男がいた。もう15年以上前の話。ふとそのことを思い出して、phaさんに聞いてしまった。そんな男のことは覚えているはずもないのに。しまいには、はてな創業者の近藤さんの名前まで出してしまった。2017年に初めて近藤さんとお会いしたとき、舞い上がって「アンテナから使ってます」などとはてな古参ユーザーっぷりをまくしたてたのと同じ。ダイアリーやブックマーク、匿名ダイアリーの話をしているうちに「はてな界隈」の話になり、「ユーザー同士のことはよくわからない」と言われ、そりゃそうかと思った。

憧れていたphaさんを目の前にして、何か接点を持ちたかった。そんな困った質問をしてしまったのに、なんというか、当たり障りのない受け答えをしてもらった。なんかほんと、すみません。

僕が言いたかったのは、2010年代に理想の生き方として憧れていた人が、2022年になって初めてお会いできて、今はもう自分も向こうも当時とはすっかり変わっており、遠いところに来てしまったなと思いつつ、その瞬間に当時と邂逅したというお話でした(曖昧日記を買いました)。

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特別お題「わたしの推し

久しぶりにサリンジャーを読んだらどうしようもなく好きだった

サリンジャーの何が好きか、どういうところがいいのか、それを説明しょうとすると難しくて、今回は触れていません。

「謎とき サリンジャー」という本が去年話題になり、気になっていた。

長らくサリンジャーを読んでいなかった。「謎とき サリンジャー」を読むなら、「ライ麦畑」や「ナイン・ストーリーズ」をいっそ読み返すかと思った。本屋に行くと「謎とき サリンジャー」の隣に「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」が並んでいた。

「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」は、サリンジャーの短編集というか、選集のようなもの。新潮モダンクラシックスというシリーズから、2018年に刊行されている。

サリンジャーは1965年に現役を退き、以降新作を出していない。なのに2018年に、旧作をまとめただけの本が出た。このタイミングでなぜだろう?出た当時から気にはなっていたものの、買っていなかった。収録されている短編はどれも読んだことがない。「謎とき サリンジャー」を読むにあたって、という口実もでき、併せて買った。

  • このサンドイッチ・ハプワース
  • 謎とき サリンジャー
  • 何度も読む
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名残惜しい海外旅行ですね

最近かつての同居人が旅行していて、Instagramに写真が上がってくる。ハワイからアメリカ本土に入り、今メキシコにいるそうだ。正月はアメリカで迎えていた。

彼は40代で、金があるわけでも学があるわけでもない。同居していたのは10年ぐらい前。半年ぐらい同じ家に住んでいた。その後彼はイギリスで2年暮らし、日本に帰国後は帽子屋かなんかで働いていた。それから何やっていたのか全然知らなかったけれど、最近の動向がInstagramに上がってくるようになり、また渡航していることを知った。

彼はイギリスに行く前にも2年オーストラリアで、1年ニュージーランドで過ごしていた。そういう生活がやめられなかったのか何なのか、今具体的にはどうしているのか、なぜメキシコなのか、詳しくは知らない。ただその姿に、かつての自分を重ねる。

僕もよく旅行していた。彼の旅行とはまた種類が違うけれど、もう旅行をしていた日々が遠くなっている。旅行していた当時の日記も残っており、彼の姿を見るのと同様、当時の自分をうらやましく思う。かつての自分に戻れたら、とは思わないが、旅行はまたしたい。あの感覚を再び、とは思う。

2018年に、僕はアフリカのガーナにいた。「タウンの偉い人に会わせるから」と言われ、35℃の炎天下で待っていた。4時間も5時間も待たされた。挙げ句「今日は来ない」と言われた。カルチャーショックだった。時間、約束という概念が、彼らと僕とでは全然違った。また暗黙知があまりに多く、門外漢の自分には誰もルールを教えてくれなかった。明文化されているわけでもない。人によって解釈も異なる。異文化は文字に起こせないと思った。日本の文化だって、外国人が理解できるような文献、ルールブックは存在しないだろう。

なんかそういうのが、僕にとっての外国であり、旅行体験だった。通じているのかどうかわからない言葉。輪郭のはっきりしないローカルルール。そこにいることで感じる、圧倒的な異邦人感が不安で心地よかった。快適さなんて微塵もない。全てが冒険で、挑戦だった。

旅行は所詮レジャーだから、遊び感覚でそういう体験を楽しめるのがいい。移民、留学、就職となると遊び半分ではいられない、真剣なものとなる。そういうのは全然求めていなくて、頑張りが必要になるとただしんどいだけ、つらいだけ、苦しいだけになり楽しめない。頑張った成果なんて求めていない。その場限り楽しければそれでいい。

かつて机を並べた友人たちが、今イギリスやドイツの大学院に通っていることや、タイやカンボジアやモザンビークや東ティモールの企業で働いていることは、素直に応援したいし、ある意味うらやましい。でも僕が一番憧れるのは、何を頼りにしているのか、何の頼りもないのかわからない、冒頭に挙げた彼。人から見れば、ただよくわからない旅行をしているその姿。

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40歳近いということ

これを書いてから5年経った。今では30歳より40歳の方が近い。5年前と変わったこともあれば、変わらないこともある。あきらかに老けた。めっきり老けた。当時は痩せていたが、今ではすっかり中年太りを感じる。

前回書きそびれたことで、老いとか肉体の衰えに近いことだけど、感覚が鈍った。感情の振れ幅が小さくなった。若い時ならもっと喜んだり落ち込んでいたことが、あまりどちらにも振れなくなった。きっと大変なことがあれば今でもつらく落ち込む。状況が落ち着いているだけかもしれない。でも若いときはもっと苦悩していた。感覚の鈍化。

経験の影響というのが確かにあって、知っていることや既にやったことがあることには、もう驚かない。心が動かない。同じ映画を何度も見て、最初見たときのような感動が得られないように。二度目以降は、良くも悪くも対処しやすい。手に負えない感情について、手を引く対処も早い。だから長く生きればそれだけいろいろな経験をして、あらゆることが二度目以降になり、慣れ、心は動かなくなっていく。もっと年を取れば知らないけれど。

若さを保つ秘訣なんてものがあるとしたら、常に変化の渦中に身を置くことじゃないだろうか。若さとはすなわち新しいことで、更新し続けることだから、現場の最前線にいたり若い人と同じ鮮度の話をしている人は、年令を重ねても尚若さを保っているように思う。

新鮮な気持ち、反応、感動をしたければ、まだ知らない分野に手を出すしかない。もしくは既知の分野も更新し続けること。若い頃のように、身の回りのすべてが新しくて新鮮だったら、気持ちも若いままでいられるんじゃないか。僕はもう全然そういうのはない。今まで知らなかった分野に手を出してはいるものの、オヤジ趣味で全然新しくない。

ここ数年になって、人生引退した感じはすごくある。以前からあったけれど、それでもそれなりに変化に富んだ日々を送っていた。少し前までは、特に望んでもいない挑戦をしたり、挫折したり、そういうことが続いた。今はただ安定、平穏のみを志して生きている。隠居、引退したと言っていい。

今の状態がいつまで続くかはわからないけれど、もうこれまでのようにあっち行ったりこっち行ったり、新しく人と知り合ったり繋がったり拡がったり、非日常的な経験をすることはないんじゃないだろうか。ほそぼそと暮らしていけたらいいなあと思う。これまではずっと、そうはいかなかったから。

40近くになっても、何も達観したりはしない。偉くなったり賢くなったりしない。責任感が強くなったり、物事をそつなくこなせるようになったり、人に優しくなったり、理知的になったりすることはない。10代の頃の自分と、どれだけ違うのか。二次性徴を過ぎてから、人間は成長したりしない。ただ時間とともに、経験したことに慣れるだけ。

同じことを長く続けていれば、それなりに長けることもあるだろう。けれどそれも元々の能力の壁は越えられない。時間が経ったぐらいでは人間の本質は変わらない。表に出るか、出ないか。