よくある感覚

今はこれといって忙しいわけではないんだけど、気づいたら時間が過ぎている。1日が終わり、一週間が終わり、無意識のうちに月日が過ぎ去っていく。特に何をするわけでもなく。毎日あれこれやっているけれど、自分の意識がついていっておらず、自覚がない。体感というか、感覚がない。その場その場で意識はあっても、気づいたらもう通り過ぎてしまっているから、忘れている。今から思い返しても、事象はもう終わっている。浦島太郎状態。それどころか、思い出すことさえできない。

気持ちの余裕がないのかもしれない。このまま、生きている感覚がないままどんどん時間だけが進んでいくような気がする。だから、くさびを打ちたいと思ってこうやって書き残している。不連続な時間を生きている気がして、その時間と時間をなにか別のものでつなぐことで、意識というか自我を保とうとしている。

自分の幸せ

自分の幸せという発想は、昔からなかった。苦しい思いをしたくない、つらい思いをしたくないという気持ちはあるけれど、幸せになりたいというのとは違う。自分の幸せのため、幸せになるために何かしようとかって思ったことがない。幸せについて、あまり考えたことがなかったのだろう。自分にとっての幸せとは何か、という像がない。どうしたいのか。希望というか、理想がなかったから、あえて考えるまでもなかった。

僕は今、人生で最良の時間を過ごしている。予想もしていなかった生活であり、目指してもいなかった。たまたま転がり込んできたラッキーだった。だから、自分の幸せは今ここにある。それまでにもあった気がする。一人のときも、不安も大きかったがそれはそれで好き勝手やっていたから、良かった。自分にとって、自分の幸せは理想を描いたり目標を定めて勝ち取っていくものではなかった。身近に存在して、実感するかしないか曖昧なもの。あまり考えなくていいもの。

「闇金ウシジマくん」で、借金した友達を助けるために、事故のあった原発で除染処理の仕事をするという話があった。おそらく、つらく苦しい思いをして、命まで失うだろう。そこに自分の幸せはあるのだろうか。自分だったらやるだろうか。誰のためだったらやるだろうか。「やる」と答える人は意外と多いと思う。そして「やる」と答える人は、自分の幸せを見つけている人じゃないだろうか。

「人に好かれなくてもいい」と言うと、信じてもらえない

らしい。らしいというのは、本当に信じてもらえないのか、僕自身はよく知らない。多くの人は「人に好かれなくてもいい」ということがただの強がりと感じるか、よく理解できないだろう、と言われる。どうやらみんな、人に好かれたいらしい。

ときどき、「なんで人に好かれたいの?」と聞くことがある。すると、「人から好かれると嬉しい」とか「自然に人から好かれたいと思う」とか、そういう答えが返ってくる。僕は個人的に、人に好かれたって厄介なことのほうが多いと思っている。だから、誰でもかんでも好かれたいとは思わない。むしろそういうことはなるべく避けようと思う。人に好かれてもいいことなんて全然ない、というのが持論。厄介な人は関わらないでいてくれたほうが嬉しい。

でも、どうやらそういう話ではないらしい。人に好かれたい人は、「人に好かれてもいいことない」などといった理由云々と関係なく、無意識に「人に好かれたい」という欲求に囚われているそうだ。何故なのだろう?僕の仮説では、一般的には人に好かれることによって、仲良くなり、助け合える手が増え、命の危険が遠ざかり、生活の安全性が増す。つまり自分を守るために無意識に「人に好かれたい」という本能が働くのではないか。ビジネスなどにおいては、人脈が広いと事を運ぶのに有利とされる。あれのもっと原始的なやつが、「人に好かれたい」という本能だと思う。承認欲求とかも多分そこからきている。認められた方が命の危険が遠ざかるから、認められると喜ぶように体ができている。

以上が僕の仮説だけど、それで僕が「人に好かれなくていい」と感じていることも説明がつく。経験上、僕は人から排除されることのほうが多かった。人に好かれようとすると返って嫌われる。安全性を上げるはずの行為が、下げる結果に陥ってしまう。「人に好かれたい」なんて思うことは、意味を成さないどころかむしろ逆効果だった。

自分の本質は人に受け入れられない。そんな自分が人に好かれようとするとマイナスに働く。どちらかと言えば人に認識されないほうが安全だった。だから自分は「人に好かれたい」と思うよりも「目立ちたくない」「他者に存在を認識されたくない」という意識が働く。安全を確保するという本能が、「人に好かれたい」という欲求に結びつかない。僕の場合は。

僕が本質的に人に受け入れられないのは、おそらくだけど共感性が乏しいからだろう。人の言っていることがわからない。人に理解されない。共感性が高い人たちの間で説明不要な輪に、自分は入れない。存在を認識されると、輪を乱す異物として排除される。人と共感できたり、共感したいと思う人は、僕の例は全然参考にならない。

僕がここで言う「人に好かれたい」とは、「不特定多数の人間から無条件に好かれたい」という感情のことを指す。そういう感情は、僕は一切持ち合わせていない。だけど僕も、特定少数の人には好かれたいと思う。対象となるのは、自分が好きな人。自分が好きな相手からは、さすがに好かれたい。そのためには多少の努力もいとわない。それ以外人は心底どうでもいい。全く好意を持たれなくていい。例えば店員とか二度と会わない人とかに、自分のことをどう思われても構わない。

人から好かれるために、自分の本質を隠して擬態する人もいる。僕も仕事上など、どうしても人に好意的な印象を持ってもらわないといけないときは、擬態するようにしている。それ以外ではなるべくやらないけど、人によってはずっと擬態したままの人もいるんじゃないか。僕はそうやって人に好かれる人間を演じるのがすごく疲れるから、なるべくやりたくない。いざ好かれても、ボロが出ないようにずっと気をつけていないといけない。そこまでして人に好かれるなんて、とてもじゃないが割りに合わない。

本当に好かれたい相手にも、擬態は使わない。それは擬態が好かれているだけで、自分が好かれているわけではないから、本質的な意味を成さない。擬態の方を好きになられても困るため、素の自分が好かれるように努力する。これがけっこうな労力を要する。そうやすやすと行使できないほどに。そしてなかなかうまくはいかない。だから滅多なことでは人から好かれたいなんて思わないし、やらない。

具体的にどうやるかというと、自己開示するだけ。まずそれができるような関係になる。それまでの段階で、自分の本質が受け入れてもらえそうなのかどうか探る。それから、徐々に自分の中身をさらけ出す。好かれるかどうかは実際やってみないとわからないが、嫌われるかどうかはだいたい分かる。嫌われそうだったら、その段階より前に進めず終了。

それ以外においては、特段人に好かれて喜ぶことがない。似たような文脈で「褒められて嬉しいか?」というのがある。僕の回答は「相手による」「分野による」。誰からでも好かれて嬉しいわけではないのと同じで、誰から褒められても嬉しいわけではない。自分より優れた人から褒められたら、それは価値ある称賛だと思う。そして自分が好きな分野、興味のある分野で褒められると喜びがある。それ以外は特に、なんとも思わない。

学校が嫌いだった

バナナムーンゴールドを聞いていたら、学校の話題だった。学生時代の思い出話みたいなやつ。それで思い出した全然どうでもいいこと。

僕は学校否定派です。学校で学んだことは本当に何もなかった。社会性とか全く身につかなかった。行きたい人は行けばいい、行きたくない人は行かなくていい制度であってほしかった。学校が好きな人や、学校で学ぶことが多い人だけ十分に活用すればいい。日本だと半分ぐらいの人が、僕と同じ学校否定派なんじゃないかな?「学校にいい思い出無い」「学校のせいで人生狂った」っていう人はけっこういると思う。

もしかしたら、僕が行っていた学校が嫌なところだっただけかもしれない。よく夏休みといった長期休暇が続くと学校に行きたくなるとか言う人がいた。僕はそういうの全くなかった。ずっと休みが続けばいいと思っていた。テストだけ受けに学校行く制度でよかった。

学校がなければ、少年時代をもっといい時間として過ごせていたのにと思う。とにかく僕にとって、学校は無いほうがよかった。義務教育って事になっているけれど、だったら試験の点数さえよければ登校免除でいいだろう。習い事をしていたから友達もいた。趣味の友達もいた。同じ年齢というだけで、他に何の共通点もない人と同じ時間を過ごすよりも、年齢も住む場所も関係なく何か同じことを一緒にやれる人と関わるほうがよほど実になる。

まあ、大学みたいな学校だったらいい。授業も関わり方も自分で選べるタイプの。小学校からずっとあの形式だったらよかったのにと思う。選べない人、右に倣えしかできない人だけ、従来の義務教育を選べばいい。もしくは試験でいい点を取れない人だけ、一律の教育を受けさせるとか。

勉強は塾で学んでいた。友達も先生も塾にいた。塾と学校の違いは、気持ち悪いベタベタした部分がないところだろうか。お金払っているだけあって、あっさりしていた。学校もそれでよかった。気持ち悪い情操教育みたいなのいらない。

集団行動が嫌いで、そういうのを全部避けたかった。避けられるものは避けていたし、強制されるものは我慢していた。そういうの、本当に全部いらない。苦痛でしかない。学校はいい思い出がなくて、嫌な思い出ばかり。トラウマも多い。先生にみんなの前で恥かかされるとか、僕の世代はまだ先生に殴られることも多かった。百害あって一利なしだと思います。

あと、社会に出れば学生時代がいかに楽だったかわかる、とか、学生時代に戻りたいって言う声も聞いたことある。僕は全く逆です。小中は特に、悪夢でしかなかった。唯一大学生の頃だけ戻りたい。金も希望も充実もなかったけれど、自由があり責任はなかったのが大学時代。自由も責任もなかったのがそれ以前、どちらもあるのが大人。

あまりに嫌だったせいで学校アレルギーになっているところはある。クラスにいた全然楽しそうにしていないやつ。呪いを散布してそうなやつ。あれが俺です。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で、爺さんが孫に学校へ行かせない方針をとっていて、素直に賛成だと思った。ただあの娘には、何らかの形で人と関わらせることはしたほうがいいと思う。横並びの世界には入らなくていいけれど、外の世界には触れたほうがいい。

けっこう前、僕は割と熱心にブログに取り組んでいた。僕の生き写しはブログと言わんばかりに、自らをそこに反映させていた。その頃の自分が書いた文は、もう今は書けなくなっている。そして今はもう、ブログへそこまで自らを費やしていない。

そういうものは他にもある。あれだけ熱心に撮っていた写真も、今はたまに撮るぐらい。当時の僕を知る人は、常に写真ばかり撮っていたイメージを持っていると思う。今は全然そんなんじゃない。熱意がなくなったとか、写真に飽きたとかではない。今でも撮るときは撮る。ただ、そんなに撮らなくなった。

旅行も全くしなくなった。コロナだからという理由もあれば、結婚したからという理由もある。ただ、前々から行きたかったところはあらかた行き尽くした。今後アフリカより遠くへ行くことは、まずないだろう。アイスランドとかロシアとか行きたいとは言ってるが、なんとなくというだけで一生いかないかもしれない。昔ほどの旅行熱はない。

本や映画は相変わらず消費している。数が減ってはいるけれど、心情的に変わらない。英語はどんどん落ちている。もともと趣味ではなかった。今、ここ1年ぐらいの間にブログや旅行、写真に取って代わったのはなんだろう?

一つはレコードだと思う。集めて聴いているだけ。これもいつまで続くかはわからない。ただ僕にとっては久しぶりの新世界だった。聴いているだけにしても、今まで全く接点のなかった音楽に触れるようになった。シティポップもそうだし、AORとかアンビエントとかが未知の世界だった。プレーヤーを買ったのが大きかった。もう一つ取って代わったのは今の仕事絡み。

自分がやっていることはそのときどきで移り変わる。それに伴っても、伴わなくとも、関わる人は時間の流れに従って大きく変わる。人付き合いがあまり続かないほうだ。ただ僕の場合は、今でも旅行が好きだし、写真も好きで、撮ったり買ったりする。ブログだってこうやって書いている。僕はころころ本流が変わる方だけど、かつて熱中していたものが、自分の中からまるごと消えてなくなったりしない。「なんであんなことに真剣になっていたんだろう?」って思うようなことには、初めから手を出さないです。それは人も同じ。

My First なんちゃらかんちゃら

僕らの若い頃には、まだ「ヤラハタ」という言葉があった。意味は、やらずの20歳。つまり、20歳で成人をむかえてもまだ童貞である人間のことを指して、ヤラハタと呼んでいた。僕らの若い頃、つまり20年ぐらい前は、童貞であることがかっこ悪いこととされていた。しかもハタチを過ぎてまだ貫いているのは、なにか人間的欠陥があるとか、そういうふうに思われていた。今はどうなんだろ、知らない。

でも多分ヤラハタなんて言葉はもう使われていないだろう。そういう風潮もなくなっていると思う。僕がヤラハタという言葉を知ったのは、マンガGTOからだった。グレートティーチャー鬼塚。今読むと、90年代末期の時代性をよく現していると思う。池袋ウエストゲートパーク(ドラマ)とかも、当時の空気感をよく現している。

グラップラー刃牙の少年編では、自衛隊のガイアが「童貞を捨てた」と言っており、注釈で※初めて人を殺したことと書かれていた。え、そんな言い方するー??と思っていた。僕らは本当に、性欲に振り回される人生だった。「僕らは」と言うのは、多分僕だけではないという確信がある。女性が毎月生理に苦しむのが呪いだとしたら、男性の呪いは性欲に振り回されることだと思う。僕の性欲が、少なくとも女性平均並であったとしたら、もっとマシなことに人生の時間を費やせていたんじゃないか。僕の人生の時間の約半分は、オナネタを探すことに費やされていた。半分は言いすぎかもしれない。睡眠とかもあるから。起きている時間の大半は、ということにしよう。

いや、それは言い訳に過ぎない。僕の性欲が人並みだったとしても、きっと僕は勉強しなかっただろうし、スポーツもやらなかった。打ち込む趣味もなかった。ただ何をすることもなく、寝て過ごしていたと思う。今と同様に。性欲がもっと乏しければどうだっただろう。本当に性欲を失ってしまった今になって思うのは、もっとまともに人と関われたかもしれないということ。人、というより女性と、性を意識せずに関われるようになったのは30代も後半になって枯れてから。

もちろん小学生の頃からずっと、意識しない対象はいた。多くいた。たくさんいた。そうではなく、今だったら対象の人であっても、意識せずに面と向かって関わり合うことができる。若い頃はそれが難しかった。女慣れとはつまり、そういうことだろう。興味の対象であっても、女性として意識せずに接することができること。性を意識しない異性の友達ができる中高生は、さぞ人生を満喫しているのではないか。

呪術廻戦でイタドリ君は、一度人を殺してしまうと境界がなくなってしまう、簡単に殺す対象と大事な人が曖昧になってしまうと言っていた。僕は同じことをセックスで思っていた。行為のための関係なのか、関係のための行為なのか、そのどちらでもないのか。これまでセックスした相手のことをどれだけ覚えているだろう?僕の場合、ちゃんと付き合った人のことは覚えているけれど、それ以外は曖昧。何人とかはわからない。名前は全くわからない。顔も曖昧。どんな状況だったかということがかろうじて思い出せるぐらい。それさえも忘れている人はいる。それがいいとか悪いとかではなく、それらが同じ行為だと思うとよくわからなくなってくる。大事なことなのか、そうでないのか。

Phaさんの「夜のこと」は読んでいないけれど、そういうことがもっとしっかり書いてあるんじゃないかなと勝手に想像している。性欲がなくなってから、本当の人生が始まる。本当の私、デビューワンデイアキュビュー

若くて性欲が溢れていた頃の自分を思うと、本当に不憫だ。15歳かそこらで性欲の使いみちがあった人は、人生踏み外しているか安定しているかのどちらかだろう。若い頃の自分には、なにもアドバイスできない。おそらく何もできなかっただろうし、大人が何言っても何も解決できないだろうから。ただ耐え忍ぶのみ。時が過ぎるのを待つばかり。

世の中を良くしたいという気持ち

先日フェミニズムに関しての話を聞いていた。その人は自分の大事な人が傷つくような社会は間違っているから、社会が良くなるように働きかけをしたいというようなことを言っていた。端的に言って、世の中を良くしたいという気持ちがあるらしい。

僕にはそれ、全く無い。世の中を良くしたいという気持ちが全く無い。そういうことをしみじみ実感した。例えばその男女差別だとか、人種差別がなくなればいいなーとは思うけれど、そういう社会を実現するために何か働きかけをしようなどとは全く思わない。その人だってもしかすると、自分の身内に関わる具体的なできごとがなければ、僕と同じだったかもしれない。

世の中を良くしようとする働きかけは、例えばデモやロビー活動、署名運動、表現活動、政治家や財界、周りの人や世の中に訴えかける活動、勉強会や講演会を行って意識の共有を図ったり、などがあるのだろうか。それをやっている人についてどうこう意見は持っていないが、自分は全く興味ないなー。

多分、世の中を変えるとか、良くするとか、そもそも世の中に対してあまり興味がないんだろうなと思う。僕はしかたなく生きているけれど、こんな世の中さっさと滅びてしまえばいいと思う。世の中が良くなることなんって、これっぽっちも期待してない。だから世の中を良くする働きかけなんて絶対にしない。

僕がこの世の中に対してあるのは、怨恨だ。世の中が僕を認めようが認めまいが、これから世の中がどれだけ良くなろうと、僕が世の中を認めることはないし、許すこともない。どちらかというと、呪っている。でもそういった姿勢を具体的な行動で示すほど、積極的でもない。ただ憎悪しかない。意識すると疲れるからなるべく無視しようと試みている。

愛されたいと思ったことがない話

奥さんがバチェロレッテを見ていて、台湾でタコを上げるくだりかなにかのときに、タコ(灯籠?)の両面に、「お互いにとって愛とは何か」を書くみたいな場面があった。スギちゃんと呼ばれる上島竜兵みたいな男性は、「花びら」と書き、バチェロレッテは「生きる」と書いていた。「花びら」とは、つかもうとしても手元に収まらず、待っていれば手元に落ちてくることもあるもの、みたいな意味らしい。「生きる」とは生きることそものもが愛みたいな意味だったかな、忘れた。

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そこで自分にとって愛を一言で表せば何になるだろう、と思った。自分だったら何て書くだろう。愛とはなにか。すぐに思いついたのは、「空気」だった。どういう意味なのか詳しく書いてくれと言われたから考えてみる。

空気と言ったのは、あって当たり前のもの、みたいな意味だったと思う。自分にとって、ということだけれど、生きていく上で愛なんてものを改めて意識することがない。空気と同じように、当たり前のようにその場に充満している。愛と誠。

愛と平和が充満していない人も環境もあるだろうとは思う。現在の地球上に、大気は無条件で充満しているけれど、月や火星がそうではないように。宇宙空間が不安と混沌に満ちているように。自分は地球環境のようなぬるま湯、ゆりかごで生きているため、愛と平和を改めて意識する必要がない。そこにある空気と同様に、目に見えず、あって当たり前、分け与えるという概念すらない、共有財産だとさえ思わない、存在を意識しない空気。息をするように愛と平和。

Zガンダムにおいてクワトロ大尉がダカールで演説を行ったときは(ダカールの日)、このように表現していた。

人は長い間、この地球というゆりかごの中で戯れてきた。
しかし!時はすでに人類を地球から巣立たせる時が来たのだ。
その後に至って何故人類同士が戦い、地球を汚染しなければならないのだ。
地球を自然のゆりかごの中に戻し、人間は宇宙で自立しなければ、地球は水の惑星では無くなるのだ。
このダカールさえ砂漠に飲み込まれようとしている。それほどに地球は疲れきっている。
今、誰もがこの美しい地球を残したいと考えている。
ならば自分の欲求を果たす為だけに、地球に寄生虫のようにへばりついていて、良いわけがない。

この後クワトロ大尉(シャア・アズナブル)は地球に隕石を落として寒冷化し、人の住めない星にしようとするんですけど、意味わからないですね。

ここから得られる教訓はつまり、なんだろう、愛に甘んじていれば空気は汚染されるということなのか。宇宙空間で暮らすスペースノイドは、空気(愛)が無条件でもたらされない環境で耐え苦しみながら生きているというのに、地球で暮らす人間たちは空気(愛)を貪るばかりで地球環境を汚染してしまっている。地球を元の姿に戻すため、一度野に返そうという話。この例え全然わからなかった。

つまり、愛と平和はあるものにとっては空気のように当たり前であっても、無いものにとっては非常に得難く、獲得、維持するために大変な苦労を要するものだということだろう。

自分は本当に、愛がどうとか考えたことなかった。愛するとか、愛されるとか自然なこと過ぎて無意識だった。もっと空気を意識して生きていきたいと思います。ありがとう空気。

人は第一印象が大事だと言います

僕は第一印象がとにかく悪いようだ。そのときは自分で気づかないため、後から人に言われると結構驚く。そんなに印象悪かったのか、と。第一印象とはなんだろうか。多分、顔とか声とか、服装とか、態度なんだろう。確かにそのあたりはどれも自信がない。人から「いい人そう」とか「優しそう」と言われたことはない。まあでも考えてみれば、普段から良い印象を持たれるように心がけていなかった。それどころかむしろ、逆を行っているところがあった。意識的にか、無意識にか、両方か。

逆とはつまり、第一印象を悪く見せているところがあったかもしれないということになる。振り返ってみれば。人から「いい人そう」「優しそう」と思われないように、顔つきとか服装とか態度を雑にしていたところがあるかもしれない。何故そんなことをするのか。それは悪ぶっているとかカッコつけているとかではない。人との関わりを避けるためだった。僕は一人でいたい。だから、「なるべく関わりたくない…」と思われるように、第一印象を下げる。話しかけられたり、何かを頼まれたり、お願いされたり、好かれたり、助けられたり、そういう面倒事を避けるために僕はずっと悪い第一印象を与え続けていたのかもしれない

ときどきはそれを意識的にやっているけれど、あまりにも染み付いてしまい普段から出てしまっているのだろう。そのせいで、何も考えないで人と接しているときでさえ、悪い印象を与えてしまっている。そして自分が認識していないところで、不特定多数からよくない印象を持たれている、という結果に至っている。それはいいことなのだろうか、悪いことなのだろうか、どうなのだろう。あまり困ったことはない。僕自身はやはり、どうでもいい人から好かれる方が困るため、好かれないのは都合がいい。

ただ、それでもさすがに、必要だと感じるときや、好かれたい相手に対しては第一印象を取り繕うことがある。特に仕事のときなどはそう。サラリーマンをやっていたときなど、めっちゃいい印象を持たれることもあった。だから全く愛想よくできないわけではない。でも普段は必要ないと思うからやらない。必要なときに必要な結果を得られたら十分だろう。

それでは僕自身が、第一印象がいい人のことをどう思うか。それは普通。話しかけやすい人は話しかけやすいし、頼み事をしやすい。第一印象がよければ当然だ。ただ、別にいい人だとは思わない。第一印象なんて薄っぺらい表層に過ぎないから、見える範囲以上のことを憶測で判断したりはしない。だから僕自身は、人の第一印象なんて全然気にしていないと言える。

第一印象なんて、それ以上のことは全く語っていない。だからそれで人間性を判断したりするのは、本当にやめたほうがいいと思う。多分間違っていることのほうが多いから、根拠のない結びつきを信じるのはよそう。そもそも人を見るときは、それぞれ個別の対象として見たほうがいいと思う。全く別の人の事例を持ってきて当てはめて判断しても、信憑性薄いと思う。

だから僕のことを第一印象で判断するのは、それはそんなに間違っていないと思う。

停滞中

気分が停滞しているのは、脳内ホルモンのバランスの問題で、脳内ホルモンのバランスが乱れていれば理由もなく盛り上がっていたり落ち込んだりする。今は特別そういうことはない。どちらかというと落ち着いている。やる気が無いのは平常運転で、その平常運転における脳内ホルモンのバランスあたりが個性だったりするのだろう。自分はあんまりそんなにアクティブな方ではない。「人生楽しまなきゃソン!!」とか言われた日には「損でいいです」と言ってしまう方。

ただまあしかし、気分の浮き沈みは体力、体調の影響も大きい。体育会系が元気なのは、鍛えているからだ。エネルギーを回転させているから、脳内ホルモンも活性化されるのか。その点においても自分はやはり停滞している。夜はなかなか寝られなくて、夜中に起きてしまい、昼や夕方は眠くてしょうがない。それは関係ないか。規則正しい生活でホルモンバランスも整うと言うではないか。

食事と運動と睡眠をほどよく行いましょう。食事だけやっていれば太ります。太ったな。本当によく太った。脳内ホルモンのバランスも乱れるわけだ。元気がない。人と会ったりすると、自分はもっと持て囃すことができたはずだ、なんて思う。その気概を失っている。酒でも飲まないと無理です。今日無理だなーとか、この頃ちょっと無理だなーってときは、もうなるべく人に会わないようにしてしまう。そうやって付き合いも交流も途絶えていく。

人との交流は前のめりすぎてもダメで、放ったらかしすぎてもダメ。程よい距離間で関われる相手を見つけるのが肝心。あと、社交辞令いらない。本当に全然いらない。社交辞令は害悪だから本当になんとかしてほしい。

時間が有限だというのは、カウントするからだ。時間は無限にある。一つずつ順番にこなしていけばいい。時間が無限にあったら何をするか?手元にある音楽を片っ端から聴く、映画を見る、本を読む、せいぜいそのへん。今だったら国内旅行を視野に入れつつ、ラジオを聞いたり、こうやって日記に落とし込んだり。ひとりでやることだったら、時間は無限に使えた。焦らなくていいや。漫画読みたい。酒飲みたい。

目指していきたいっすねーインターネット離れ

今でもついTwitter開いたりはてブ見たりしてしまう。悪い癖っすねー。社会と繋がってしまったインターネットからは、なんとなく身を引きたい。そういう思いが近年徐々に増している。こうやってみんなネット社会からいなくなってしまうんじゃないか、自分もその一人になれたら、そんな思いを巡らせている。

インターネット、ネット社会と関わらずに、自分の身の回りの世界だけで生きていきたい。インターネットに繋がっていなければ、それだけで今よりも平穏な日々が過ごせる。今はネット慣れしているから脅かされないだけで、摂取しなくてもよかった情報を取捨選択して、自身に堪えそうなものは受け流している。そういう行為自体が本来不毛なことだ。だいぶ荒んでいる。フィルターはすごく汚れているんじゃないか。世渡り下手な世間知らずとして、無垢な時間を過ごすのが理想ではないか。取り込んで受け逃して、時には傷つけ合い、その先にある束の間の平穏なんてまがい物ではないか。知らぬが仏。

これは生き方にも通じる。絶海の孤島で、自然の恩恵と身の回りの支え合いのみで生きていけるなら、海から外へ出て荒波に飲まれ、競争社会を渡り歩いた末の守られた人工都市なんて目指す意味はないんじゃないか。そうやってみんな都会を捨てて田舎暮らしに走るのか。もっと狭い世界に生きて、ニュースを取り入れないことは大事だと思います。ミュートやリムーブは積極的に活用していきましょうよ。よく反対意見をフォローするのも大事とか言われてますけれど、別にいいっしょ。広い視野とか広い世界なんてもういらない。自分と関わりのない人のことを考えるのはやめる。切磋琢磨なんてもう飽き飽きだ!ぬるま湯を沸かし続けることだけがんばりたい。

その点近頃のブログは閉じてしまって楽ですよね。人目につかなくなった。以前は人目につくことを目指していたにも関わらず、元あったところに戻りつつある。僕にとって内輪のような繋がりはないんだけど、ある人はそれで十分。閉じた世界、閉じたコミュニティ。世の潮流から逃れてきた草木も生えぬ大地。良し悪し、正誤もなく思いつきだけで成り立っているこの場。ネットの海の果でありがとう。世界は密から疎へ。

話がインターネット離れではなく、インターネットの中央離れになっている。どちらでもよい。見知った人達同士の、手の届く範囲の、生活圏のことを考えていたい。自分はワールドワイドな人間ではない。世界へ発信して世界の反応なんかうかがわなくていいんだ。あっても遮断すればいい。世界史における日本の鎖国思想バンザイYES。閉じたコミュニティのカッコ悪さを笑うことなかれ。僕らは流行を知らない老害なんだ。外へ出てはいかんな。あちいなーコンチクショー

結婚生活の話

結婚生活について書いてほしいと言われた。パートナーについてはこれまでにもここに書いてきたから省くとして、結婚後の我々の関係であったり、生活?について。となると何を書いていいやら。

僕とパートナーはもともと友人だった。その関係性は、結婚後もほとんど変わっていない。友人のような関係のまま結婚して、1年経った今もそのまま続いている。付き合う前の友人期間が1年あり、彼氏彼女期間が半年で僕らは結婚となった。友人期間のほうが長く、付き合い始めたからと言ってお互いの態度が変わるようなことはなかった。彼氏だから、彼女だから、結婚したから、立場が変わっただけで態度を変えたりすることに僕は違和感があり、そういうことをお互いやってこなかった。態度が変わっていくとしたら、立場によってではなく親密度によってグラデーションのように変化していくものだろう、と僕は思っている。「ハイ、付き合いました」「結婚しました」という号令だけで態度を急変させるのは不自然だ。中身は何も変わっていないのに。

だいたい僕自身は彼氏彼女関係、婚姻関係に対して願望をいだいたことがない。だから「彼氏とはこういうもの」「結婚とはこういうもの」といったイメージがなく、その立場になってああしたいこうしたいとかも一切ない。むしろそんな型に囚われたくない、こだわりたくないという気持ちのほうが強い。だから籍を入れなくてもいいと言っていたし、パートナーの方の姓を選んでいいと言っていた。そういう表面上のことは、僕にとって些事であった(結局相手の希望で僕の姓になった)。

立場によって態度を変えるとか、表面上のことを繕うのは、プライベートではなくパブリックな場においてだけだった。例えば双方の親の前だとか、パートナーの仕事上の付き合いや、事務手続きの場においてのみ僕らは婚姻関係のロールを演じ、対応することが求められるから仕方なくやる。そしてプライベートではこれまで通りという感じ。結婚生活ごっこをやるのは表向きだけでいい。

単純な生活という意味では、僕は結婚諸々のために帰国したため、大きく変わった。僕が僕自身のためだけに生きる時間は終了した。今は全てパートナー中心の生活をしている。もともと僕は夢も希望のなく、かろうじてあった自分のやりたいことは、今までの人生でほとんど全部やってきた。今はまさに、結婚してパートナーのために生きるという生活をやっている。

といっても僕には経済力がないため、働くという面では家庭に一切寄与していない。パートナーに頼り切りである。その点においてパートナーからすれば、一人増えようが同じという塩梅。ただそれではあまりに申し訳ないから、経済的にも寄与できるように努力はしている。パートナーはそれについて「どうでもいい」と言っている。このあたりは男性が家計を支える家庭と根本的に違う。

経済力でないならば、一体どういう形で僕がパートナーを支えているのか。大まかに言えば、パートナーの経済以外の負担を軽減している。心労であったり雑用であったり、厄介事であったり、人手であったり、いてくれると助かると言われるよう日々務めている。パートナーは元々一人で何でも出来る人だから、能力は全部僕より高い。実際のところ僕はいなくてもいい。ただ、「いたほうが楽」と言われる程度の役割を担っている。

同様に、僕自身もパートナーがいなくて困ることはない。お互い30代後半まで誰も必要とせず、一人で生きてきた。あえて結婚する必要もなかった。そういうときにお互いが「してもいいんじゃないか」と思える相手だったから、今のようになった。僕はその「結婚してもいいんじゃないか」と思われる対象であり続けるように努めている。

僕に関して言えば、生活の主体が自分ではなくパートナーに移ったため、生活様式は大きく変わった。パートナーと僕とでは生活の基準が何もかも違う。ほぼ全部向こうに合わせているが、至らないところは多々ある。ただ特に無理したり我慢したり、頑張って合わせているということはない。禁煙は多少つらかったところもあるが、強要はされていない。

基本的にはパートーナーの生活スタイルに、僕が合わせる形になっているが、逆にパートナー側から僕に合わせてくれていることはなんだろう?と思って聞いてみた。以下が返ってきた答え。

うーん言葉にするの難しい
私は家族も含めて世間体を気にする性格やから、普通こうするやろって行動が川添さんにとって普通ではないことを受け入れるという部分は合わせてるかな… こっちに合わせてほしいことはちゃんと毎回伝えるけど、どっちが正しいとかそういうのは無いという意識改革というか

なるほど、そんなに変か俺。でもこういうことは、付き合う前から言われていた。まず最初に相手(僕)が普通じゃないこと、常識の外側にいる人であることを認めるところから始めた、といったようなこと。生活の上で具体的に合わせているところは「しょうもない話を聞かされているところぐらいかな…」という回答だった。向こうから求められることもあるけれど、それ以上にめっちゃ話すからなー。

僕の結婚生活はそんな感じ。もっと具体的な話をするなら、朝猫に起こされて、朝食を用意して、それぞれ仕事をして、夜には帰ってきて、夕食はパートナーが用意して、洗い物は食器洗い機がする。掃除洗濯は僕がやったり向こうがやったり。猫の世話も僕がやったり向こうがやったり。同居、分業という感じです。食事をしながらNetflixやAmazonプライムを見たり、お互い都度今日あったことを話したり、たまに外食したり映画館へ行ったり、そんなもん。友人っぽいでしょ?

そんなに映画が好きじゃないのかなあって

子供の頃から、小学校に入る前の幼児期から映画を見ていた。映画館によく通っていた。数を見てきた方ではないけれど、ずっと映画好きだと思っていた。少なくとも平均よりは。ここにもよく映画の感想とか書いたけれど、自分はあまり批評的な見方をしたくなくて、それは映画に限らず小説とかも同じで、批評は人の話を聞く分にはおもしろいから、それで十分かなあと。映画批評も文芸批評も、読み物としておもしろい。文庫の解説とか必ず読んでしまう。ただ自分では、そういう見方をしたくないだけ。だって映画の批評しようと思ったら、少なくとも2回は見ないといけない。同じ映画を何度も見るのは、本当に好きな作品でないとつらい。小説も同じ。あと、批評的な見方だったりおもしろさをやり始めてしまうと、もう気楽に鑑賞できなくなるというか、低俗な娯楽として消費するのが困難になってしまう。

それはともかく、映画があまり好きじゃないと思ったのは、最近全然見ていないから。ひろゆきが「毎日1本映画見ろって言われても全然平気」と言ってたが、僕は無理だった。今はそれぐらいの時間があるのに、週1本も見ていない。好きな人は1日に何本も見ている。僕にはそんな体力がない。映画好きか否かは数ではないとも思うけど、時間があるから「じゃあ映画見よう」となっていないのは、そんなに好きじゃないからなのかなー。かと言って、他に何するでもない。ドラマも見ていなければ、本も読めていない。アニメを時々見るのは、何も考えなくていいアニメだけで、自分はとてもじゃないがアニメ好きとはいい難い。写真も撮っていないしなー。外出を控えているからってのもあるけど。

大学生の時とか、あと3年ぐらい前の時期は、1日に2本とか映画見ていた。小説も、毎日読んでいる時期はあった。今はそういうタイミングじゃないだけなのかもしれない。映画好きかっていうと、まあそこそこ好き、ぐらいは言えるか。

じゃあ自分は一体何が好きなんだ。今の時期、ひとりでも喜んで、前向きに取り組めていることってなんだ。毎日時間を費やしても飽きないことは。そんなもんはなかった。そこそこ好き、以上に好きなもんなんて何もない。

お題「#おうち時間

目標を立てずに、候補を立てる

なにか一つの仕事なり決まりきった物事を達成するために、計画を立てたり目標を立てたりすることはある。けれど、個人的なことついては、そういうことをやらない。やったことがない。いつもなんとなくやってきた。

たとえば、去年に禁煙を始めた。今11ヶ月続いており、もうすぐ丸1年になる。きっかけは健康診断を受けるためだったかな。もう少し込み入った事情はあったけれど、大したことではない。禁煙を始めるにあたり、少しずつ減らしていったり、禁煙するための本を読んだりセラピーに通ったり、代替嗜好品を用意したりするわけでもなく、ある日突然やめた。それが今まで続いている。

どうしてもやめないといけない事情はなく、いつ再開してもおかしくない状況だった。タバコを吸っている夢を何度も見た。タバコ吸いたいと思うことは何度もあり、その都度どうするか考えた。最初のうちは、お酒を飲むと喫煙を誘発するためお酒を控えた。そしてタバコを吸わない分、食べて気を紛らわすことが多くなった。喫煙の機会がある場所や、喫煙者と会うことを避けた。禁煙がつらいことを意識しないでいい環境を作るよう心がけた。そういう場当たり的な対応を続け、今のところうまく行ってる。

今となってはお酒も飲むし、人が隣でタバコを吸っていても平気だ。レコードを仕入れている市場はおじさんばかりで、喫煙率90%ぐらい。常に誰かがタバコを吸っている。禁煙を始めた当初にここへ来ていたら、きっともたなかった。すぐ喫煙を再開していたに違いない。でも禁煙が数ヶ月続いた後に通い始めたおかげで、喫煙が誘発されることなく今に至っている。

これはもう意志の力とか、習慣の力ではない。場当たり的な対応のみ。まあ、スケジュールを決めて禁煙する人なんていないと思うけど、とにかく計画や目標みたいなものを意識せずに何かするほうが、自分には向いている。アレをやろうって決めて取り掛かるのは、僕には無理だ。勉強や筋トレ、ダイエットとかもそう。目標を立てて計画的にやろうとすると失敗する。

人生計画も、今まで全く考えたことがなかった。受験の半年前に理系から文系へ移った。就職は、やりたいことがないから年間休日が多い会社を選び、片っ端から受けた。業界も職種もバラバラだった。12月頃から始めて6月頃に終わった。それらがうまくいったかというと、必ずしもそうではない。

ただ自分は人生において、およそ夢らしきものを持ったことがないから、現実として目標を立てることもかなわない。仕事のように人に与えられた目標だったら、もしかすると計画を立て、実行できたかもしれない。けれどそんなものはやりたくないし、人に与えられた目標を追いかける人生なんて、自分の人生とは言えない。よく、人の喜ぶ顔が見たいとか、人に喜ばれるのが好きっていう人がいて、そういう人は誰かが喜んでくれるだけで頑張れるのかもしれない。僕はそうじゃない。誰が喜ぼうと自分には関係ない。

年間の目標、今年の目標といったものも、多分立てたことがない。気の向くままに、思いついたことがしたい、場当たり的に過ごしたい。準備に時間がかかることって、あんまりやってこなかったな。何年も勉強して資格を取るとか、そういうことに興味が持てなかった。目標設定をせず、計画も立てないまま何年も続けることはあり、そっちのほうが向いている。効率悪いけど。

計画的に物事こなして目標をクリアしていく楽しさ、っていうのがあるんだろう。そういうの楽しめる人はやればいいと思う。僕は時間が経つと飽きる。あと共同作業だったり、自分一人で行わない場合において計画や目標があったほうがお互いやりやすいと思う。情報の同期がしやすくなる。でも僕はそういことはやらない。

サラリーマンを辞めてから今まで、30歳で退職したから6年になる。その間、計画や目標というよりは、候補を立てて過ごしてきた。何をするかの候補。辞める時点でカナダ、オーストラリアへ行くこと、ボランティアへ行くことは候補にあった。とりあえずビザを取ってカナダへ行き、途中で延長して次のオーストラリアのビザを取り、帰国してからはボランティアを受けたけど落ちて、受かって、帰ってきたら6年過ぎていた。ボランティア中、帰国してから店を始めることを候補に入れていた。今やっている店だ。

他にいくつか考えた候補もあった。

  • カナダで進学する→勉強が嫌すぎてパス
  • オーストラリアで長く働く→やりたくなくてパス
  • 日本で就職する→やりたくなくてパス
  • 日本でシェアハウス兼ゲストハウス→糸口が掴めず保留
  • 東京に引っ越し→アテがなくてパス

残った候補を選んで今に至る。基準は興味があるかどうか、実現性があるか。去年の11月に、オーストラリアで知り合った子が店に来てくれた。彼女はもともと日本で働いていたが、今はシドニーの大学で学んでいる。僕と知り合った頃は、大学入学へ向けてお金を貯めていた。彼女は向こうの大学で学ぶことがめちゃくちゃ楽しいと言っている。勉強も海外生活も、何一つ負担とは思っていない。

僕はオーストラリアが好きになれず、勉強が嫌だからそういう候補を立てなかった。もし彼女のような心持ちであれば、向こうの大学へ進学することも可能だったのかな。興味がない難しい。それだけでなく、現実として楽な方へ楽な方へ行っていることは否めない。さして努力が必要ない候補を選んでいる。

結婚についても、僕は全く目標も計画性もなかった。結婚するっていう選択がもともと自分にはなかったから当然なんだけど、まさに場当たり的に結婚したと言える。1年経ったが、特に何も変わっていない。

言いにくいんだけど、知り合いに人生プランを全部考えている人がいる。20歳で何をして、30歳で何をして、っていうのを死ぬまで全部計画を立てるやつ。あれは昔孫正義がやってたことで話題になり、飛びついた人たちがこぞって真似をした。孫正義なら80歳までの自分が考えたプランに沿って行動したり、計画を修正しながら実行できるかもしれないが、他の人はどうだろうか。というか、今でもやってる人はいるのだろうか。

計画を立てることが無意味だとは思わない。有用性はこの文章の中にもいくつか挙げた。ただ自分は、自分の人生において、目標も計画もうまく扱えないという自覚がある。自分にとっては無意味どころか、やりもしない出来もしない目標・計画を立てることが、かえって妨げになることのほうが多い。そういう僕みたいな人間は、早く目標・計画型の手法から外れたほうがいいのではないか。

世の中において、目標を立て、計画的に行動することが、絶対正義のように扱われている。というか、やって当然、アタリマエのこととして。世の中全体を良くするためには最も効率的であり、汎用性も高く、必要なことなのだろう。ただ僕にとってこの手法は功を奏したことがない。合わない手法だ。だから僕は、目標を立て、計画的に行動することが善とされる環境で生きていけない。僕は目標や計画ではなく、候補を立てて場当たり的に過ごしてきた。

目標を立てても達成できず、計画を立てても実行できないまま、失敗の感情や、無力感、無能感をつのらせ、ストレスで自棄になるぐらいだったら、始めから立てないほうがいい。目標も計画も、絶対正義などではない。

自分がない人

ときどき「川添さんは自分を持っているから〜」などと言われることがあって、自分を持っているってなんだ?と思う。いわゆる「自分を持っている」という言葉の意味として、自分の意見があるとか、自分の主義主張があるとか、自分なりのやり方があるとかそういうことなのは理解できる。「他人の意見に流されない人」とかそういう意味で言っているのだろう。

「自分の信念を持って行動する人」って言い方をするとなんか持ち上げられているような気もするが、「融通の効かない人」とか「人の意見を聞かない人」といったとらえ方もある。自分を持っていることが、一概に良いことだとは言えない。

じゃあ「自分を持っていない人」とはどんな人なのか。自分を持っていないとは、人の意見に流されやすく、自分の意見が乏しい人、ということになる。もしくは自分の意見があったとしても、裏付けに乏しく、コロコロ変わる人とか。確固たる思想体系がなく、首尾一貫していない人が、自分を持っていない人にあたるのかもしれない。良く言えば臨機応変。こだわらない人ってことになるのか。

僕自身はこだわらない人間であろうと努力しているつもりなんだけど、それが既にこだわっていることになるのかな。臨機応変は確かに苦手だ。柔軟性もなく、頭は固い。でも自分では影響受けやすい人間だと思っている。影響を受ける分野や方向性が限られているのかな。だったらやはり融通が効かないのか。

知り合いの「いいねいいねそれ採用」とよく言ってる人は、同時にこだわりも強い人であるように見えて、臨機応変かつ自分を持っていると言える。真逆のことを採用したりはしていないってことなのかな。意見を変えつつも、根拠がしっかりしていれば「自分がある」と言えるのかもしれない。

僕が個人的に思う、「自分を持っていない人」とは、自分が何を良しとするか、何が好きで嫌いなのか、自分はどうしたいのか、しっかり把握できていない人のことだと思う。自分のことは自分でわかっているはずなんだけど、整理が行き届いていないから、ときどき自分とは違う意見を取り込んだり、迎合したりすることもある。

自分の意志や好みがあるにはあるんだけど、それをクリアにしてこなかった、つまり、自分に向き合ってこなかったことが、「自分がない」と評価を受ける理由なのだろう。

そういう話を奥さんにしていたら「自分に向き合えない人も多い」という答えが返ってきた。「自分に向き合わないことで自我を保っている」という意味だそうだ。例えば、自己矛盾に向き合ったり、なぜ自分がそうなっているのか核心に触れてしまうと深く傷つくから、防衛的にあえて自分に向き合わないようにしているとか。

「自分がない」とは、言い換えれば「他人がある」ということだ。自分よりも他人を優先して、他人のために尽くせるんだったら、それは素晴らしいことなんじゃないか。

「自分って何だ」というよりは「自分はどう思うのか」なのだろう。子供の頃、先生や大人に怒られたときによく「自分はどう思うの?」と聞かれた。例えば、誰かとケンカして泣かせてしまったときとか、悪いことをしたときに反省の色を伺うために「君は今どう思っているのか?」というような質問をされる。

ここで正直に「うるせえなと思う」などと答えると、反省の色なしと判断されて余計に怒られてしまう。でもここで本当に「自分はどう思うのか」を答えられる人は「自分がある」人だ。もしくは、めんどくさいから反省しているフリをして「悪いと思っている」と答える人もちゃんと自分がある。本当に悪いと思っている人は、そもそも「君は今どう思っているのか?」なんて聞かれない。既に反省の色が出ているからだ。

じゃあ自分がない人はどう答えるのか。もちろん「悪いと思っている」と答える。同じ「悪いと思っている」と答えた、「めんどくさいから反省しているフリをしている人」とは何が違うのか。それは、動機が違う。反省しているフリをしている人は、「めんどくさい」が動機だ。しかし、自分がない人が「悪いと思っている」と答える動機とはなんなのか。それは、訊ねた人へのご機嫌取りである。「他人がある」のだ。自分の意志よりも、他人のご機嫌が尊重され、選択され、採用されるから、結果的に「自分がない」人になる。

では彼らがなぜそんな選択をするのか。それは他人に気に入られたいからだろう。「自分」よりも「他人」に気に入られたいため、「自分」よりも「他人」の意見を優先する。結果、「自分」は「他人の意見」によって塗り固められた存在になり、「自分の意見」がないがしろにされる。なぜそんなに他人に気に入られたいのか、その他人とは一体誰なのかは知らない。

僕が「自分を持っている」などと言われるのは、人の評価に疎いからなのだろう。「自分がない」と言われる人は、いろんな人から好かれやすいんじゃないかな。