2.27

「他者の苦痛へのまなざし」の問に答えはあっただろうか。「他者の苦痛へのまなざし」で書かれていたことを端折って抜き出すと、

人間は裸の写真を求めるのと同じぐらい、グロい写真(ひどい写真、傷ついている写真)を求める性質がある。アートだ、報道だと言って、惨状を写した写真が消費されている背景には、人間の「ひどいものを見たい」という欲望がある。それは一部の特殊な性癖ではなく、太古においてはコロシアムやギロチン処刑が大衆娯楽だったこと、事故現場などをつい覗きたくなる衝動など、多くの人が抱く一般的な性質として説明されている。

それでは、そんな欲求を満たすために撮られた写真、アート写真でも報道写真でも、他者の苦痛を写した写真は、倫理的にOKなのだろうか?撮っていいのか?掲載されていいのだろうか?許されるのか?セルフポートレートならいいのか?消費構造そのものに問題があるのか?それとも問題ないのか?芸術に昇華していればいいのか?報道としての意義があればいいのか?

「他者の苦痛へのまなざし」は、そのまなざしの裏にある欲望についての本だった。結論はどうだったっけ、忘れた。いずれにせよ、現実にはひどい写真、グロい写真、人が傷ついている写真であふれている。

[asin:4622070472:detail]

Googleフォト終了に伴い、いろいろ見直していた。その一つとして、Evernoteの利用を再開した。Evernoteはずっと使い続けてはいたが、アクティブユーザーと呼べるほどではなかった。Evernoteでは主にメモ代わりの写真の保管や、Webクリップを使うようになる。Googleフォトの用途とは全然被らない。

Webクリップはその昔Pocketというアプリを利用していた。しかしあまりにも溜め込んでしまい、そのうえ全く読まなくなったため、使うのをやめた。それでも最近Webクリップを再開したのは、一度読んだものを参照したくなったときに、保存していないとたどり着けなくなったから。どう検索すればいいのかわからない。たどり着いても時間が経って有料版になって全文読めなくなっていたりする。記事自体が亡くなっていることも多い。

Webクリップを有効活用するコツは、気になるもの、読みたいものをクリップするのではなく、一度読んで残しておきたいと思った内容のみクリップすること。一度読み終えても残しておきたい記事のみ、クリップしよう。Evernoteは現時点で月60MB分なら無料でアップロードできる。ストレージの上限はない。最近クリップしたのはこちら。

他にもGoogleフォトの代用を探さないといけない。保管場所としてはdropboxももうちょっと容量が残っているため、写真などを入れていこうと思う。Googleフォトを無理にやめなくても、使いたい人は利用料を支払って使い続ければいいと思う。

Evernote

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「花束みたいな恋をした」を見に行く予定

前評判を聞いた限りでは、自分の感性とあまり合わないかなーと思いつつ、やたらと話題になっていたからお祭り映画として見に行くことにした。

内容に乗れるかはともかく、自然な演技が評判いいです。そして、この映画を見ることの本当の意義は、話題に乗っかれること。そういう意味において、この映画はお祭り映画だと言える。先々週のアトロクは花束の話題で一週間持ちきりだった。一週間ずっと同じ映画の話題が続いて、別冊でネタバレトークが特集されるのはテネット以来。

宇多丸さんがオープニングトークで各曜日パートナーにこの話を振るから、毎日それぞれの回答が聞ける。

他には、いつも聞いている底辺文化系トークラジオ「二九歳までの地図」でも、パート2に渡ってのポッドキャストが公開されている。

こちらは先日Clubhouseでも花束についての公開トークが行われていたが、まだ見ていないため参加せず。唯一の機会を逃してしまった。

というわけで、来週見に行く予定です。見に行ったら感想を書くかもしれない。とりあえず、やっとこれらのコンテンツに手を出せるようになる…。既に乗り遅れた感はあるのですが、コンテンツは残るため今からでも楽しめる。僕のように乗り遅れた人も、どうぞ今から参戦しましょう。映画はまだやっています。

ヒトコトへの回答⑲:自己肯定感について

久しぶりにメッセージが来た。このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。

64通目:自己肯定感とか

こんにちは、毎回興味深く読ませていただいています。一言ではなく三つ質問です

過去の記事を見返したりしますか

かなり多くの記事を長い期間投稿していますが、見返したりする事はあるんでしょうか?
ああ、あの時はこんな事していたなとか、こんな気持ちだったんだなとか
どうでしょうか?また逆に消したくなるような恥ずかしくなった記事とかありますか?
教えてください

過去の内容は、ときどき読み返します。「この話前に書いたっけ?」と思って検索することが多いです。一度書いたことを忘れてしまうから。消したくなるような恥ずかしい内容は覚えていないけれど、表現が過激だとか警告が来て消したものはあります。消したくなると思うことは、多々あったようです。

ブログを消そうと思うこと - Letter from Kyoto

自己肯定感について

最近自己肯定感について考えています。
川添さんは幼い時から周りと比べると変わっていたという風に記事を書かれていますよね?
他者と自分を比較しての差異が嫌になる事はなかったんでしょうか?
ブログから伝わってくるのは肯定も否定もないただただ冷静に周りを見ているドライな人間像です。もし考えた事や悩んだ事があるなら聞きたいです。
どうやって自分を肯定しているのかもしくはそういうのは考えた事はない、どうでしょうか?

他者と自分を比較して差異が嫌になる事、あったかな?幼い頃は、差異が嫌というより、相手を理解できないこと、自分が理解されないことが嫌だった。誰ともわかりあえないと、自分がこの世でたった一人である感覚が強く、それがつらかった。外国で自分一人だけ言葉が通じないことを想像してもらうとわかりやすい。だから周りを理解しようとしたし、自分をうまく説明しようとした。でもそのうちあきらめた。

自己肯定感について、僕の意見はまず、自己肯定感ってなんなのかよくわからない、意識したことがないというのが最初の意見です。一度臨床心理士の知り合いに「自己肯定感ってなんなの?」と聞いたことがあって「自信とか自己評価のこと」と返ってきた。「あつかましい人は大丈夫」とも言われた。

自己肯定感の話でよく言うのが、「自己肯定感って必要なの?」という疑問。僕は自分に自信なんてなく、肯定もしていない。どちらかというと自己否定側。自己肯定感なんていうフワフワしたものが、なんで重要視されるのかがわからない。誰か教えて下さい。あったらなんか役に立つの?自己肯定感という言葉に囚われているだけでは?

毎日繰り返し積み重ねている事

毎日欠かさずしている事はありますか。
一つ前の質問の肯定感に関わってくるのですが、最近自分は毎日積み上げているものがあればそれは強力に自分を支えてくれる自信になるのではという考えが浮かんでいます。
筋トレだったり走る事だったりレコードを磨くことだったり、最初は意識していてけれど気づくと毎日行っている習慣やそれをすることでの心境や生活の変化を教えてください

ないですね。習慣について、長々と書いたことがあるから興味があったら読んでみてください。

習慣について - Letter from Kyoto

自分はそもそも、日々を生きていくのに肯定感や自信は必要ないと思っている、という話はさっき書いた通りです。肯定感や自信って、あったらなんか意味あるんですか?

また日本人に生まれるとどうしても大多数の人は周りとの比較で自分を測ってしまいがちだと思っているのですが。そういった比較するヒエラルキーから抜け出すにはどうすれば自分を確立して貫き通した生き方ができると思いますか? すいません質問が4つになってしまいました。

あまり参考にならないかもしれないけれど、僕が幼い頃からやってきたことは、自分と向き合うこと。自分は何が好きで何が嫌いか、何がしたいのか、何をしたくないのか、どういう性格なのか、どういう人物なのか。自分を俯瞰的に見る。自分を観察して、考察する。人からの評価や判断、基準ではなく、自分で自分と向き合い、理解する。自分以上に自分を理解できる人はいないと思っています。自分が自分の秘書になるような感じ。

どうやるか。僕がやってきたことの一つは、こうやって文字に起こすこと。それを自ら読み返す。正直に書くのがコツです。あとは人に話すこと。自分語りの壁役になってもらう。相手が許せば。

この自己検証は、他者を理解することにも応用できるから、人を知る上でも使ってみるといいと思います。ただ他者は自分ではないから、自分と根本的に違うため形式として理解できる程度にとどまります。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。

「バーニング 納屋を焼く」を見た

村上春樹原作「納屋を焼く」の韓国映画「バーニング」を見ました。ずっと見たいと思っていた。監督イ・チャンドンも評判がよく、前から気になっていた。Netflixで配信が始まり、時間ができてようやく。

バーニング 劇場版 | Netflix

近年Netflixでも韓国ドラマが流行っていた。人からも勧められ、どんなもんかと思って見てみたけれど、いまいち乗れなかった。しかし、韓国映画は違うと聞いていた。近年ではパラサイトもカンヌ映画祭・米国アカデミー賞作品賞とダブル受賞しており、もう既に一定の評価がある。これまで全く注目していなかったから、どんなもんか気になっていた。

このバーニングは、けっこう好きなやつだった。2時間以上ある映画だけど、長さも苦痛ではなかった。僕が好きだった部分は、まず人物描写。主要人物のどれをとっても特徴的なのに、誇張というか、わざとらしさを感じない。わかりやすいんだけど「わかりやすくやってます」感が薄く、自然に受け入れられた。主人公ジョンスも、女の子ヘミも、金持ちのおっさんベンも、韓国のその辺にいそう。僕が韓国のリアルを全然知らないから、違和感なく見れた部分はあるのかもしれない。

人物描写といえば、韓国映画でもドラマでもとにかく見ていて引っかかるのが、めちゃくちゃ性格の悪い登場人物たち。リアルなんだろうけど、見てられない。そういうメンタルの人物描写をとにかく視界に入れたくなくて、韓国モノを遠ざけていた部分があった。しかし今回見たバーニングはそういう心配をする必要がなかった。前に見た『新感染』には昔ながらのわかりやすい性格悪い人が出ていて、韓国映画全部が性格の悪い人物描写をやめたわけではない。

主人公のジョンスというキャラクターは、現実にこんなやついる感じがすごかった。失業率が高い韓国社会。兵役を終え、定職につくのも難しい中バイトで生活をしている。父親が傷害事件を起こしてしまったため、実家に戻ることになった。特に優れた人物ではなく、特徴のない普通の人物。普通の人物が普通に抱える問題、挫折、感情を映画の中でそのまま表現している。普通の人が、普通じゃないけれどよくあるような事件に遭遇したときの、反応。よく出ている。

人物描写に続いて好きだったのが、生活感。特に家がよかった。ちょっとした田舎にあるプレハブ小屋のようなジョンスの実家も、坂の上にあり日当たりも悪くめちゃくちゃ狭いヘミの部屋も、実に生々しい。現実の家をそのまま使ったような生活感だった。ベンの金持ち部屋は、あーいう生活を知らないからよくわからない。

生活描写をリアルに描いた映画が好きだということを、しみじみ実感する。外国の映画だと、リアルとファンタジーの中間のようなところがいい。どこかに確実にある別世界を体験している感覚。比較的最近に見た映画だと、パターソンなんかが生活映画。ローマとかも生活映画だった。生活映画LOVEです。

内容については若干ネタバレになるため、見ていない人は先に見ることをおすすめします。

結末まで見て、たけしの映画にすごく似ていると感じた。こういう方向で締めるのかと。ベンがやたらとジョンスに絡んでいたのも、自分の本質にまでたどり着いてくれる、自分を理解してくれる、自分を殺してくれるのがジョンスだということを見抜いていたからだろう。最初の方はずっと、ベンもヘミも一体なんなんだろうと思っていたが、そういう話だということを最後まで見てやっとわかった。アニメPSYCHO-PASSにも似ている。ベンは僕がこれまで見た中で、もっとも爽やかな快楽殺人者だった。

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1/31

足が縮む。今日は準備をおこたった。用意していなかった。わかっていたのにどうにかなると思った。どうにかなったにはなったが、時間はかけなかったから、通り過ぎた。

昔の記録、まんべんなく、今日も感想と行ったり来たり集中していた。全体を把握したかった。最後は、光明に向けたものなんじゃないか。これまでの系譜を踏まえ、男女の証明を残したかったのではないか。これこそが「愛のかたち」だったように思う。生まれてきた証。僕はそういうふうに感じたし、そう思って振り返るとよくわかる。嘘偽りではなく、並べ替えの妙。認識の齟齬。

はて、自分自身が追い詰める側、追い詰められる側にならないかという懸念は、杞憂だとわかっている。よく似ているところがある。性格。事例としては何があっただろう。典型的なものがあった気がする。追い詰めて、形にするといった。題材にしてしまう。ダルマの目を入れるとは、わかりやすい例えだった。

トイレから聞いたシャンソンは違うものだったからそのまま捨てた。偶然に期待するのはよくない。自ら見つけていく必要がある。同じ部分を払拭したい。本当はわからない。望んだわけではない。いや、望んでいたようにも思う。甘んじて受け入れるつもりはなかった。いまでも葛藤がある。おそらく、これからもずっとなくなることはないだろう。あきらめや予言ではなく、数学。

閉まっていた。二軒閉まっていた。足が縮んだ。もう一件は終わっていた。最後も終わりかけだった。入れ違いで驚いていた。罪悪感を医者に診てもらうべきか。

#Clubhouse に触れてみて雑感

既に語られていることばかりだと思うけれど、個人的な雑感。Clubhouseとは、といった基本的な機能の説明は端折ります。

オンライン・コワーキングスペース

Clubhouseをどう利用するか、ということについて考えたとき真っ先に思い浮かんだのが、コワーキングスペースの代用だった。このコロナの時代、現実にあるコワーキングスペースを利用するのは多少気が引ける。利用時間や利用形態、会話が制限されることもあり、少なくとも従来通りの形では利用できないだろう。

Clubhouseを利用することで、自宅がコワーキングスペースのようになる。Zoomと違うところは、まずはビデオカメラがないところ。さらにZoomのように招集をかけるのではなく、ルームというまさにコワーキングスペースのような場に集まる点。

ルームという特性

このルームがまさに、Clubhouseの一番特徴的な部分だと思う。会話の場を用意しておくだけ。もちろん人を呼んだり集めることもできるけれど、どちらかというと人が自主的に集まる場を設けて、その場で会話をするという設計になっている。この「部屋がある」という仕組みにより、会話のある場に気軽に出入りすることができる。

誰でも出入りできる部屋、フォローしている人だけ出入りできる部屋、呼んだ人だけ出入りできる部屋の3種類がある。

仲間内で使うのがベスト

Clubhouseを利用するには、今のところ誰かから招待してもらうのが一番早い。招待してもらった人は、新たに2人招待することができる。では、Clubhouseを利用して誰と会話するのかというと、招待してくれた人や招待した人、つまり仲間内で会話するのが僕はベストだと思う。

知らない人と会話したり、有名人の部屋に行ったりすることもできるんだけど、僕はあまりおもしろいと感じなかった。普段話している人と、オンラインで気軽に集まって会話するツールとして使うのが一番楽しい。

だから、Clubhouseを使うためだけに全然知らない人から招待してもらったり、メルカリで招待を買って参加しても、話す相手がいない。Clubhouseを楽しむためには、誰かが招待してくれるのを気長に待とう。意外とすぐに招待がくる。招待されてもいないのに無理矢理アカウントを作って、全く面識のない人と会話をしたり、知らない人同士の会話を聞いても僕は楽しくなかった。招かれていないパーティーに参加する気分。

フォロー、フォロワーを増やしまくってる

今現在見かけるのが、フォロー、フォロワーを増やしまくってる人。僕の個人的な利用の仕方では、あれはやらないほうがいい。ノイズが増えるだけ。さらにClubhouseはシステム上電話番号と結びついているから、素性が不確かな人とフォローを交わしても、無駄なリスクが増えるだけじゃないだろうか。

僕のように知人と交流するために利用するのではなく、あくまでオーディエンスに徹するというなら、芸能人をフォローしまくって追っかけ回すのもいいかもしれない。

ヤフーボイスチャット

Clubhouseに一番似たサービスは何か。それは往年のヤフーボイスチャットではないだろうか。ルームという構造は全く同じ。違うところは、当時スマートフォンなんてなかったからパソコンでしか利用できなかったところ。

当時のヤフーボイスチャットは、2ちゃんねると大差なかった。荒れ放題。Clubhouseがそうならないことを祈るばかり。

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学校が嫌いだった

バナナムーンゴールドを聞いていたら、学校の話題だった。学生時代の思い出話みたいなやつ。それで思い出した全然どうでもいいこと。

僕は学校否定派です。学校で学んだことは本当に何もなかった。社会性とか全く身につかなかった。行きたい人は行けばいい、行きたくない人は行かなくていい制度であってほしかった。学校が好きな人や、学校で学ぶことが多い人だけ十分に活用すればいい。日本だと半分ぐらいの人が、僕と同じ学校否定派なんじゃないかな?「学校にいい思い出無い」「学校のせいで人生狂った」っていう人はけっこういると思う。

もしかしたら、僕が行っていた学校が嫌なところだっただけかもしれない。よく夏休みといった長期休暇が続くと学校に行きたくなるとか言う人がいた。僕はそういうの全くなかった。ずっと休みが続けばいいと思っていた。テストだけ受けに学校行く制度でよかった。

学校がなければ、少年時代をもっといい時間として過ごせていたのにと思う。とにかく僕にとって、学校は無いほうがよかった。義務教育って事になっているけれど、だったら試験の点数さえよければ登校免除でいいだろう。習い事をしていたから友達もいた。趣味の友達もいた。同じ年齢というだけで、他に何の共通点もない人と同じ時間を過ごすよりも、年齢も住む場所も関係なく何か同じことを一緒にやれる人と関わるほうがよほど実になる。

まあ、大学みたいな学校だったらいい。授業も関わり方も自分で選べるタイプの。小学校からずっとあの形式だったらよかったのにと思う。選べない人、右に倣えしかできない人だけ、従来の義務教育を選べばいい。もしくは試験でいい点を取れない人だけ、一律の教育を受けさせるとか。

勉強は塾で学んでいた。友達も先生も塾にいた。塾と学校の違いは、気持ち悪いベタベタした部分がないところだろうか。お金払っているだけあって、あっさりしていた。学校もそれでよかった。気持ち悪い情操教育みたいなのいらない。

集団行動が嫌いで、そういうのを全部避けたかった。避けられるものは避けていたし、強制されるものは我慢していた。そういうの、本当に全部いらない。苦痛でしかない。学校はいい思い出がなくて、嫌な思い出ばかり。トラウマも多い。先生にみんなの前で恥かかされるとか、僕の世代はまだ先生に殴られることも多かった。百害あって一利なしだと思います。

あと、社会に出れば学生時代がいかに楽だったかわかる、とか、学生時代に戻りたいって言う声も聞いたことある。僕は全く逆です。小中は特に、悪夢でしかなかった。唯一大学生の頃だけ戻りたい。金も希望も充実もなかったけれど、自由があり責任はなかったのが大学時代。自由も責任もなかったのがそれ以前、どちらもあるのが大人。

あまりに嫌だったせいで学校アレルギーになっているところはある。クラスにいた全然楽しそうにしていないやつ。呪いを散布してそうなやつ。あれが俺です。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で、爺さんが孫に学校へ行かせない方針をとっていて、素直に賛成だと思った。ただあの娘には、何らかの形で人と関わらせることはしたほうがいいと思う。横並びの世界には入らなくていいけれど、外の世界には触れたほうがいい。

綿棒を何に使うか

綿棒は何に使う物だろう?

オーストラリアにいた頃、綿棒が欠かせない男がいた。鈴木だ。

彼はオーストラリアに来ても、薬局で綿棒を購入していた。日本の百均で買うような小分けの販売がなく、膨大な量を買わされていた。

彼が綿棒を何に使うか。それは、風呂上がりの耳掃除だ。厳密に言うとオーストラリアには風呂なんかないからシャワー後に、耳の中に溜まった水を吸わせて出す作業をしていた。彼はこのシャワー後の耳掃除を、まるで儀式かのように毎回決まったやりかたで行っていた。目を閉じ、口を開け、なんなら鼻も開き、今にも声が漏れそうな顔で儀式を行う。すごく嫌だった。

彼は儀式を、世界中のみんなが当たり前にやっていることだと思っていた。ある日、同じシェアハウスに住んでいた同居人が、鈴木くんに向かって「お風呂入りましたか?」と聞いた。彼はこう答えた。「見ればわかるだろ!綿棒使ってんだから」彼の中では「綿棒を使っている=風呂上がり」という等式が成り立っていた。

僕は風呂上がりに欠かさず綿棒で耳掃除をする習慣なんてない。ましてやオーストラリアに来てまで綿棒を買うようなことはなかった。彼はプールへ行ったときや、海に行ったときも綿棒で耳掃除をするのだろうか。

しかし最近になって、風呂上がりの耳に違和感を覚えるようになった。水が残っている…。指で掻き出そうとするが、なかなかうまくいかない。そしてその様子も、つまり、耳に指を突っ込んで掻き出す姿も、あまりきれいなものじゃない。しかたない、負けた、鈴木よ。綿棒を使うようになった。

綿棒でそんなにしっかり水が取れるわけでないんだけど、気になったら使うようになった。外出先にまで持っていったりはしない。それにしても、なぜ耳はこんな簡単に水が溜まる構造になっているのか。

僕の場合は、それ以外にも綿棒の使い道がある。僕はときどき綿棒を使って、鼻の粘膜にワセリンを塗っている。これは鼻バリアと言うらしい。僕はアレルギー体質で、とりわけ花粉症の季節はひどい。そういうとき、鼻の粘膜に綿棒でワセリンを塗ってガードする。これは確か、ためしてガッテンでやっていた。イギリス人はそうするらしい。僕は花粉症シーズン以外にも、ときどき鼻バリアを行っている。そのために綿棒を使う。

他に、通常の耳掃除にもときどき綿棒を使う。耳垢を取るには、耳かきよりも綿棒のほうが有効だ。耳垢が湿性の人は、綿棒を突っ込んでかき回すだけで耳垢がへばりついて取れることだろう。溜まる場所は決まっているから、コツを掴めば取りこぼしがない。さて、問題は乾性の人だが、実は耳垢が乾性の人にも綿棒が有効だ。そのまま使用するとあまり取れないから、耳に突っ込む間に、綿棒の方を適度に濡らす。これで湿性の人が綿棒を使うのと同様の効果を発揮する。なお、耳垢を残しておくと虫よけになるそうだ。

耳垢 - Wikipedia

久しぶりに

おとつい、久しぶりに郵便局へ行った。郵便局へは日常的に通っているが、その郵便局へ行くのはかれこれ夏以来だった。最近通っている郵便局は、去年の夏までずっと改装中だった。その間は久しぶりに行った郵便局へ通っていた。1年ぐらい。

郵便居の局員から「久しぶりですね」と言われた。「遠くなったから」と言った。改装が終わったから、今通っている郵便局によく行ってると。この郵便局は夏頃に移転しており、そのせいで遠くなったため、僕が通わなくなったと思われたようだ。訂正しなかった。説明する意味がない。

昨日、久しぶりに図書館へ行って本を借りた。ネットで予約しておいたやつ。

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スーザン・ソンタグ著『他者の苦痛へのまなざし』

閉館時間が変わっていた。30分だけ。30分だけ変えることで、何が変わるのだろう?

久しぶりに、インドのレコードを買った。

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ウスター・アブドゥル・ワーヒド・カーン

聞いていても退屈なやつで、聞かない用の音楽。

近所の薬局で、久しぶりに買い物をした。豆乳とマヨネーズ。成分無調整豆乳には慣れてきたけれど、いまだおいしいとは思わない。豆腐の味。ここの薬局はQUICPayが使えるため、Apple Watchで決済ができて楽だ。コンビニもQUICPayに対応している。無印も使えた。スーパーはなかなか使えないところが多い。

今日、久しぶりに雨が降った気がする。暖かい日。

久しぶりに行きたい本屋がある。けれど読み終えていない本がたまっており、まだ行かない。

「生まれてこなければよかったのか」という問いについて

反出生主義についてWikipediaを読んだり軽く記事を読んだ程度で、本は読んでいない段階。

まず、「生まれてこないほうが良かったのか?」という問いがあるらしい。自分はどうか。傷つきやすかった頃なら「生まれてこないほうが良かった」と答えた。もしくは、逃げ場がなかったり逃げる手段がなかったら「生まれてこないほうが良かった」と答えただろう。

今の自分の答えは、「どちらでもいい」になる。「生まれてこようがこまいが、大差ない」「どちらも大して変わりない」というのが、今の自分の答え。それなりに嫌なことはあったが、死ぬほどではなかった。今の今までなんとかのらりくらりと生きてこれた。かといって、「生まれてきてよかった」などとは思ったことがない。生きてきて一度もいいことがないわけではないけれど、それが「生まれてきてよかった」などと思えるほどのことではなかった。出生が、ないならないでいい。どちらでもいい。

生まれてこないほうが良かったのか? 哲学者・森岡正博さんと「反出生主義」を考える|じんぶん堂

「生まれたせいで人に迷惑かけた」とか「生まれたおかげで人と出会えた」とか、人のことは僕は割とどうでもいい。自分が人に影響を与えようと与えまいと、それは本人の問題だ。人がどうなろうが、僕は知ったこっちゃない。同時に、誰かと知り合えた程度で、自分の出生を肯定できたりはしない。自分の人生は自分だけのものだ。人との出会いで左右されることはあっても、他人に人生を明け渡したりしない。

だから反出生主義における「地球に害をなすから」とか割とどうでもいい。害であるかどうかは地球が勝手に判断すればいい。俺には関係ない。「だから子供を産まないべき」と思う人は、そうすればいい。自分はどうでもいいと思ってしまう。「生むことが暴力」だと思うんだったらやめたらいいだろう。その人の自由だ。僕自身はやはり、それは子供本人が決めることだと思う。子供が「暴力の被害を受けた」と訴えるなら「エゴでお前を作ってスマンかった」と言うぐらいのことはできるんじゃないか。それぐらいの責任は親にはあるだろう。

私たちは「生まれてこないほうが良かったのか?」哲学者・森岡正博氏が「反出生主義」を新著で扱う理由 | Business Insider Japan

出生の肯定はどうすればできるか。自分の場合「〜があるから生まれてきて良かった」などとは言えないが、生まれてきてよかったことが一つもないわけではない。経験できてよかったこともある。それも出生の肯定と言える。ただし、同時に生まれてきたせいで負った苦痛もある。それが反出生主義における出生否定の要素になるのだろうけど、僕の場合はそこまでではない。「生まれてこなければよかった」という程の苦しみ方はしていない。そもそも出生を肯定する必要なんてあるのだろうか?

「死にたい」と思うことと「生まれてこなければよかった」と思うことはまた別物らしい。「死にたい」と考えるのではなく「そもそも生まれてきたのが間違いだった」「子は残さないべき」と考えるのが反出生主義だそうだ。結果を求めるのではなく、原因を求める思想か。

僕はやっぱり、「生まれてこなければよかったのか」という問いに対して、「どっちでもよくね?」と答えてしまうなー。人に迷惑かけるとか本当にどうでもいい。

素晴らしきこの世界、と言える人は、幸福の総量が多いか感度が高い人

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入れ忘れている物はあるのか。気になって、一度全部出して確認すると、また一つ入れ忘れる。指折り数えるが、そのうちもう足りないものではなくなる。背負うのをやめ、表へ出る。すぐまた引き返す。その繰り返し。行ったり来たりウロウロしていた。そこに歩むべき道はなし、足はなし、踏み込む地面なし、摩擦の抵抗なし、すかすかと足踏み。イメージだけで空を飛ぶあひるのように、真剣に考えたことがあるのか。

出会う者はみな笑顔を向けてくれる。目が合わない。背中の形が違う。お互いに納得する。「いい日でしたね」それを僕らは正しき伝統だと言える。やさしさだと。石の形をしたら埋まってしまうから、なるべく早く通り過ぎる。わきまえている。

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部屋の奥でなびいていた。窓の向こう側だった。肌に当たる感覚を再現する。髪が当たり、水分を奪って亀裂が走る。ついたてが必要だ。でもそのまま進むことはできないから、仕方なく全身を覆うことにする。もしくは、ショートカットする。隠してしまってなるべく視界に入らないようにする。すると空間は隔絶され、中身は4つだけになる。ミニチュアと4つ。足もとは乾いている。この乾きが、耐えられるのか心配する。猫は何事もないように寝ている。このままではいけない、このままでいる、二者択一をする。何度も行う。そのうち日が過ぎる。何日も過ぎる。空間はそのまま、そのままの空間を保とうとする。景色も変わらず。意思疎通がとれない。数字の実感が得られなくなった。なるべく意識を逸し、別のことを考える。光量が足りない。そのときのために準備をしておかなければいけない。でも、何が必要なのか、今の段階ではわからない。記して、順番に積み上げていく。項目は増えたり減ったり変わったりする。僕のせいではない。誰のせいでもない。

明日は心配ないだろうか。心配はするものであって、あるものではない。しないためには、全貌を把握しておくのがいい。明日までに時間をかけて、洗いざらい、もしくは、そのままにしておくか。とにかく、でも、一言、ひとことずつ積み上げ、形にならずとも。人の話は参考にならない。気分は、自分次第。ひっくり返してしまうと、広がり流れていってしまう。あふれてこぼれだしても、倒さないように留める。栓をしめる。そのために、距離をおいたほうがいいのだろう。少なくとも関わりの中で暮らしていない。通り過ぎていってしまうから、一人ひとり残しておくようにしたい。何もないなら、使っていきたい。

刺激的な刺激とは

知り合いが東京で、ポーカーができるバーをオープンするらしい。そういうのが流行ってるそうだ。もちろん日本ではお金を賭けられないけれど、知り合いは競技ポーカーのプレイヤーであり、ここ数年はいろんな大会に出ていた。ポーカーをやるためにオランダへ行ったりしていた。コロナ前には他にも並行して準備していた事業があったんだけど、渡航制限がかかり一気にポシャってしまった。再開するのはいつになるかわからない。

新しくバーの経営を始めるにしても、ポーカーにだけ関わっているとだんだん仕事になってしまい、うんざりしてきそうと言っていた。彼は他に何か、新しいこと、楽しいことがしたいと言う。曰く、刺激を求めているそうだ。

彼は元ゲーマーで、最近元ゲーム仲間と会ったらしい。その写真をInstagramで見て、僕はある動画のことを思い出した。この番組がなんなのかわからないけれど、フルバージョンが上がっている。1時間半近くある長い映像だ。

これはバーチャファイター10周年のドキュメンタリー番組のようだ。まだeスポーツなんて言葉がない頃に全国大会が開かれ、プレーヤーがテレビに出るぐらいの盛り上がりを見せた、バーチャファイター。映像に映る人たちは、バーチャはゲームの枠を超えた、コミュニティだと言っている。僕はこの映像を1時間半ずっと見ていた。

元ゲーマーの彼はこの映像に出てこないけれど、まさしくこの渦中にいた人だった。アテナ杯、その延長のビートライブカップ、これを超える刺激なんて、今後彼には訪れないんじゃないか。

「またゲームでも始めようかな」とも言っていた。普段からPS4などのゲームで遊んでいる彼だけど、バーチャぐらい本気でのめり込むゲームがあるのだろうか。当時の彼は、ゲームにのめり込むと同時に、シーンを作っている側の一人だった。現在の、既に出来上がったゲームシーンに、後からただ参戦して、プレイヤーとして遊ぶのではきっと物足りないだろう。

刺激って何なのかと思う。黎明期の刺激、ゼロから始める楽しさ、何もないところから人々を巻き込んでいく喜びというのがある。自分はそんなの経験したことないけれど、まだ名を知られていないものが、これから飛び出そうとしているエネルギーを感じたことは何度かあった。これから流行りそうなものを、立ち上げている側ではなく早期のユーザーとして、一緒になって盛り上がっていた。

はてなの近藤さんは創業以来webのシーンを作っていたけれど、オフラインに足を伸ばしたくなって物件ファンを始め、それから宿とレストランとコワーキングの複合するUNKNOWNを立ち上げた。同時に趣味の登山、マラソンの延長でトレイルランニングを始め、滋賀一周ラウンドトレイルという山の中を400キロ走る大会を開催した。

知人も多分、そういう人を巻き込む何かを一から始めたいんじゃないか、新しいシーンを切り開く側で何かやりたいんじゃないかと思った。でも今のところその何かは見つからないそうだ。

ついでに僕自身はそんな大それたことは考えたことがない。手近なところで、一人、もしくは数人で細々とやるのが性に合う。人を巻き込むほどの何かをやろうとしたことはなく、誘われる魅力も実力も持ち合わせていない。だから自分にとってこの手の話は、縁遠い話だ。特に今は、何かおもしろことを始めたいっていう気持ちがない。このまま何も起こることなく、今の生活が死ぬまで続けばそれが理想、とさえ思っている。

地方在住者だけど、ようやく知り合いに感染者が出た

「やっとここまで迫ってきたか」という印象。コロナで騒いだ2020年は、マスクをしたり消毒したり外出・外食を減らしたりしつつも、意識としてはやや傍観者的だった。なぜなら知り合いで感染した人が一人もいなかったから。コロナ禍が自分の身の回りで起こっている出来事というより、東京、大阪、もしくはロンドン、ニューヨークでのできごとであるような体感があった。

東京大阪にも知り合いはいるが、やはり感染した人はいない。知り合いの知り合い程度になると、さすがに何人もいる。直接の知り合いが感染したという話は、今回が初めてだった。それが同じ市内の人であり、「自分が感染する」という状況がかなりリアリティを持って近づいてきた印象を受ける。それでも基本的な感染対策はこれまでと変わらない。Go Toはなくなるだろうし、旅行したり外食することは減るかな。

感染のその後について、既にたくさんの事例がある。無症状のまま復帰する人、症状が出て元に戻った人、重症化して治った人、今も後遺症が残っている人、亡くなった人。日本ではこれまでに24万8576人感染し、そのうち3472人が亡くなっている。世界全体では8560万人が感染し、185万人が死亡している(1/5時点)。基礎疾患なしで死亡する例もある。若年者や30代、40代で重篤化した人、亡くなった人もいる。

自分がいつかかるか、どこでかかるか、かかったとして、誰に伝染すか、症状がどの程度になるかは全くわからない。予防はしているが、予測はできない。統計的には、基礎疾患がない若者・中年は重症化しにくい。でも重症化した事例もあり、その一人にならないとは限らない。

言い方を変えれば、運が悪ければ感染する。運が悪ければ重篤化する。運が悪ければ死ぬ。いつ誰がどうなるかはわかったもんじゃない。

唯一できることは、感染機会を減らすことだけ。コロナは人を媒介して感染しているから、人との接触、二次的な接触を減らし、感染のきっかけそのものを少なくする。それで確率は下がる。極端な話、誰とも接触しなければ絶対に感染しない。山奥で一人で生活していたら、まずコロナとは無縁の生活を送れる。現実にそういう生活ができる人は稀で、僕自身も無理だ。かろうじてできること、かつ有効な手段は、無闇矢鱈な接触を避けること。後は運次第。今までと変わらない。

これまでのコロナについての感想

フィジカルを買う

昨年から確実に、本や音楽をフィジカルで買うことが増えた。映画はまだ今のところ、あまりDVDを買っていない。でもサブスク配信全盛の今だからこそ、DVDで映像作品を買う意味は大きい。これは #29tizu でも言及されていたけれど、特典映像や特典ディスク、その他初回特典なんかはサブスクでは配信されない。吹き替えの俳優も違ったりするから、DVDでしか見られないバージョンもある。映像作品はDVDからブルーレイになったり、今後も規格が変わる可能性があるため永久不滅のソフトとはならないけれど、配信はもっと簡単に終了する。あらゆる点において、フィジカルで買う意味は大きい。片っ端から買っているとお金も置き場所もなくなるのが難点ではあるため、数は買えない。見るためというより、所有するために買う。

あれほど推していた電子書籍も、去年はセールで少し買ったぐらい。それ以上に紙の本ばかり買っていた。それらの多くは電子化されておらず、今後もされないだろう。紙の本のいいところは、何より売れるところ。売れると思うと気軽に買ってしまう。実際に売っているかというと、あんまりだった本はすぐに売った。それ以外は読み終えても棚に残したまま。本にも特典がつくことがある。去年はCDが付いている本を買った。

音楽ソフトをフィジカルで買うとなると、なんと言っても、これまでに何度も書いてきたレコードになる。去年は手元にあるレコードを再生するだけでなく、自分が聴きたいものをいくつか購入した。良いか悪いかは別として、配信で聞く音とレコードの音は明らかに違う。そういう意味でも、フィジカルを所有して最もうれしいのはレコードかもしれない。CDだと少し弱いと感じるのは、CD世代だからだろうか。それともアナログメディアが持つ物体としての魅力だろうか。

最近欲しいレコードはこのあたりです。物を買うとかさばるため、そんなには買ってません。

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