Dispoというアプリと、近藤さんが言っていたこと

こちらのPodcastでDsipoを知った。Dsipoとはdisposable(使い捨て)から来ており、写ルンです感覚で撮るカメラアプリのこと。ファインダー(のぞき窓)が小さく、自由な加工ができず、なおかつ撮った写真は翌日にならないと確認できない。撮った写真はロールというフイルム単位で、他の人と共有することができる。

Dispo - 写真共有SNS

Dispo - 写真共有SNS

  • Dispo, Inc
  • 写真/ビデオ
  • 無料

感覚としては、パーティーやイベント、ディズニーランドに使い捨てカメラを持ち込み、その場で写真を撮って、後で出来上がったものを仲間たちと共有する。まさに写ルンですをアプリで再現している。

なんでわざわざそんなものを作ったのか。昨今のInstagram上では、みんな「いかに映える写真を撮るか」に夢中になってしまっている。注目される写真を撮るために、人工的に絵面を作り、何度も撮り直し、加工することに躍起になり、肝心の現場が蔑ろにされている。みんなアプリ上でバズることだけを目的として、その場を全然楽しんでないんじゃないか?というような思いが創業者のデビッド・ドブリック氏にあったそうだ。

そしてパーティーで実際の使い捨てカメラの使われ方に注目し、もっと今を楽しむアプリが作れないかと思い、このDispoというアプリができあがった。Dispoは写真そのものを注目させるためのアプリではなく、メインはあくまでリアルの現場。アプリはみんなをカメラの前に寄せ合ったり、楽しい思い出を再共有するといった、メインである現場(リアル)を盛り上げるための補助ツールに過ぎない。

この、SNS上やオンライン上よりも、今この瞬間の現場を大切にする、リアル回帰みたいな発想って、まさに近藤さんがはてなを辞めてONDを立ち上げ、物件ファンなりUNKNOWNへ移行した流れにそのまま当てはまるんじゃないかと思った。WEBサービスをずっと作ってきたから、次は人の生活の場である不動産だったり、人が直接関わり合うコワーキングスペースだったり宿をやりたいみたいなことを、近藤さんは言ってたような気がする。

近藤さんがONDを始めたのは、2017年だから3年以上前。上に貼ったPodcastによると、2,3年前から若い人の間で、実際の使い捨てカメラが再び使われ始めていたそうだ。偶然にも同時期に、イノベーターと若い人が同じ発想で動いている。ネット、スマートフォン、SNSに疲れ、今あるこの瞬間、この現実を大事にしていこうという流れは、実はその頃から既に始まっていたのかもしれない。Dispoは立ち上がったばかりだけど、Instagramに取って代わるだろうか?どのような使われ方をするだろう?SNS上よりもリアル回帰という、時代を象徴するような同じコンセプトの、新たなサービスは現れるのだろうか?

最近何をしてるか

仕事とかそういうのではなく、私的なやつ。映画とか本とか音楽に時間とお金を消費するのは、もはやマイノリティなのだそうだ。マジョリティはYouTubeやソシャゲに課金?いやそれも既に10年前からあって、いま大多数の人が何に時間とお金を消費しているのかは知らない。僕がYouTubeで定期的に見ているのは、ゾゾゾと10万ボルトTVだけ。あとは音楽のビデオぐらい。ソシャゲはロマサガRSとマリオカートを惰性で続けている。ウマ娘は入れてみたけど複雑すぎて面倒でやらなかった。

  • ネットでは何を見ているか
  • 映画
  • 音楽
  • ラジオ
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ヒトコトへの回答⑳:承認欲求

このブログではGoogleフォームからご意見などを頂いております。スマートフォンでページを一番下までスクロールしてもらえば出てくるアレです。それをときどき拾って回答してたりします。

65通目:承認欲求は何故生まれた

なぜ人は承認を求めるのか、という2016年の記事を読み、感心しました。自分は、「承認欲求は何故生まれた」を調べていたのですが、その答えと更なる知識をあなたの記事から得ました。感謝します。Osaka 30歳女性

2016年の記事とはこちら。

「何故生まれた」というのはそういう欲求がどこから発生するのかということだろう。答えかどうかわからないけれど、僕はそうじゃないかという説を調べただけ。それにしても、5年前か。さすがに内容が古い。当時流行していた「嫌われる勇気」とアドラー心理学どうこうに釣られてこういう話題が盛り上がっていた。「嫌われる勇気」は結局読んでいない。承認欲求の話とは、実はあまり関係ないかもしれない。

この話とは直接関係ないけれど、最近「性と愛の脳科学」についての話を読んで、人が暮らす上ではつくづくホルモンとの付き合い方が大事だなーと思った。

ホルモン、なんていうの?脳内物質?神経伝達物質だって。この話は、欲とか愛とかってのはだいたい神経伝達物質の作用ですというやつ。人間の本能とか、愛情とか、感情と呼べるものは、化学物質によってもたらされる脳の信号に過ぎない。

だから、人が快適な生活を送るためには、自らの理性でもって、いかにホルモンの作用を導くか、コントロールするかにかかっている。分泌のおもむくままに行動する人は、それはそれでいいのかもしれない。けれど、悩んだり苦しんだりするんだったら、そういう道がある。仏教とかがずっとやってきたのがそれじゃないのかな。

こういうことは割と、子供の頃から意識していたほうが楽に生きられるかもしれない。例えば欲求だったり不安だったりがあれば、その原因を探る。自分はどういうときに、どういうホルモンが分泌されて、何を望んでいるのか。何が足りないのか。抑制するためには、どこにどう流していけばいいのか、満たすためには何が必要なのか。自らと向き合っていくことで、平穏な日常が保たれる、そんな気がする。

これまでのヒトコト、回答をまとめました。

特に言いたいことはなくて

流れてくるニュースを見ていると、大変だなーと思う。僕らの元にワクチンが届くのは、単純計算で3年後らしい。日本国内では供給も接種もものすごくスローなのだそうだ。3年後にはさすがに流行が終わっている気がする。それでも、どうやら今年中にオリンピックをやるそうだ。不参加確定なのは、今のところ北朝鮮だけなのかな。国外からの観客は来れないことになった。そのあたり自分はどこまでいっても傍観者であり、ただ大変だなーと思う。接触確認アプリはどうなったのだろう?

この一年について、インターネットがあってよかったと思う。スペインかぜの頃にはインターネットなんてなかった。あとはこの時期、パートナーがいてかなり救われた。日々一日たりとも孤独を感じることはなかった。いまだに友人とはほとんど顔を合わせない。仲が良かった人も今は月に一度会うか会わないかで、遠い人や普段会っていなかった人とは本当に会わなくなった。それっきりになり、この一年で望まずとも切れてしまった人との縁は少なくない。この一年の間の人間関係は、前のめりにならなければ続かなかった。お店なども、一度行ったきりになっているところが多い。

そうでもない、という人もいる。この時期も積極的に出歩き、人と会い、店に通い、コミュニケーションを交わして関係を続けている人だっているだろう。ただ僕にとっては、抜け落ちてしまったような一年だった。今後、以前のような状態に戻ったとして、でも以前のようには戻れない。その間にいくつかはなくしてしまった。いくつかはもう繋がることもかなわない。

以前よりも消費が増えた。家にいる時間が増えたからかもしれない。物も増えた。日常の雑用で日々忙しい。時間があるようでないようで。時間の使い方が下手になっている。やり残した些細なことが常にいっぱいあるような感覚。事実、ToDoリストが消化されないまま、忘れ去られて流れていく。あれもやろうとしていた、これもやろうとしていた、じゃあ自分は一体何をしているのか、何もしてないんじゃないか、ずっとそんなことばかり思っている。

今週のお題「下書き供養」

例えば村上春樹の生原稿はいくらの価値があるのか?「グレート・ギャツビーを追え」を読んだ

「グレート・ギャツビーを追え」という小説が昨年邦訳されて話題になった。著者は「評決のとき」「ペリカン文書」などのジョン・グリシャム。推理小説なのか、ミステリ作家なのか、そのあたりという程度の認識。著者の名前はさすがに知っているけれど、読んだことないし普段読まないタイプの本。

  • 「グレート・ギャツビーを追え」に惹かれた部分
  • 絵画のように売り買いされる生原稿
  • 希覯本(きこうぼん)というコレクションの世界
  • 感想
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自宅でコーヒー豆を煎る話

先日増田でも見かけた、コーヒー豆の焙煎。自分でも記録しておこうと思った。

2年前にこのブログ経由で結婚祝いに生豆をもらって以来、何度か焙煎を試みている。

  • 手網で失敗した
  • フタ付き鍋がよかった
  • ガスコンロでやっている
  • 生豆が買えるところ
  • 自宅で焙煎してみて
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資本主義人生ゲームに興味ない人もいるだろ

これを読んで、自分はどうしていたかなーと思い返していた。僕が就職したのは小泉内閣の時代だった。学生時代に、この日本社会でどう生き抜こうか考えた末、自然に(横並び的に)新卒採用の波に僕は乗っかった。地獄の就職活動を乗り越えて就職し、サラリーマンになった。自分には夢もやりたいことも目指す目標もなかったから、生活とやりたいことの天秤をかけて、みたいな選択はなかった。ただ学生時代が終わり、この先どうすれば生きていけるのか不安で、その解消の手段として就職を選んだだけ。

根底にあったのは「生存」と「不安」だけだったと思う。「自己実現」とか「幸福追求」なんてものは一切なかった。もちろん「成功」も「モテ」も「結婚」もどうでもよかった。望んだことがない。世の中でそういうのを競うゲームが行われていたとしたら、なんとか波に乗るだけ乗って、争わないのが自分だったように思う。表面上はなんとか合わせようとする。けれど本当は興味がない。

この波が資本主義なのだとしたら、それに乗らないことには生存そのものが脅かされる。今生き残るためには本当は興味がなかろうと、就職活動と同じでとりあえず乗らざるを得ない。競争する気がなくても勝ち残るつもりがなくても、ゲームが楽しくなくても、資本主義から降りることは実質不可能だ。

サラリーマンをやめたからといって、どこかで経済活動が必要になってくる。究極的に資本主義から逃れようとすれば、どこかに隠遁して自給自足生活を送るしかない。そんなサヴァイヴ能力があればやっただろうけど、それよりはこの資本主義社会という波に乗っかったほうが簡単だった。心の底から乗っかれなくても、今もそうしている。これは言うならば偽装だろう。生存のため、資本主義社会に生きる一般市民のフリをしている。

僕はこの資本主義人生ゲームがクソゲーだからおもしろくないわけじゃない。ただ興味がなくて、遊びたくない。サッカーでもバスケットでもゲートボールでも、好きなゲーム、やっていて楽しいゲームと、そうではないゲームがあるだろう。僕は「自己実現」「幸福追求」「成功」「モテ」「結婚」といった項目が含まれる資本主義人生ゲームが単純に好きじゃなかったというだけ。その点については、事例に挙げられている『弱キャラ友崎くん』の世界観に全然出てこないのではないか。

実際は僕みたいに、負けるからつまんないとかゲーム性がアンバランスだからおもしろくないとかいった理由は抜きにして、純粋に「資本主義人生ゲーム興味ない」と思っている人は多いと思うんですよね。でも生きるために仕方なく、資本主義人生ゲームに加担せざるを得ないだけの人。そういう人は帝国的生活様式を享受できなかったとしても、決してアンチフェミ・インセル・表現の自由戦士にならない。なぜならそんなものには元々興味がないから。

(僕は結婚したけれど、結婚がしたかったわけではない。一緒にいる手段として結婚しただけで、婚活なんてしたことないし誰とも競争していない。)

個人的な旅行の行く末

最近、といってもここ1年の間に、この自分のはてなブログを読んでいる(読んでいた)という人3人ぐらいと話した。話した相手は、緊急事態中にTwitter経由でZOOMで話した人、東京からこっちに出張で来ていた人、去年からたまたまこっちに住んでいる人。3人それぞれ、時期も経緯もきっかけも異なる。ただ、そんなに長く話し込んだわけでもないけれど、みんなと僕とひとつ共通の話題があった。それは旅行、みんな旅行する人だった。僕が行ったイスラエル、チェコ、アフリカのどっかに行ってる人もいた。セネガルだったかな、忘れた。このブログは旅行の印象が強いのだろう。自然とそういう話になった。せいぜいそれしか目立つコンテンツがなかったというか。

僕自身はもう全然旅行しなくなった。今は外国に行けないけれど、アフリカから帰ってきてからは、新婚旅行へ行ったきり。国内旅行はそれから二度した。国内だったら今後もときどき旅行するだろう。外国となるとなかなか目処は立たないが、行くとしてもこれまで一人でしていた旅行とは全く違ったものになる。バックパックでホステルに泊まるなんてことはもうない。奥さんはそういうのに興味がない。もっと普通の旅行だったら、これからもあるかもしれない。

いずれにせよ、自分の中で旅行は一区切りついた。大陸で言うと南米、南極は訪れていないが、惹かれる何かがあるわけではない。行きたいところは大体行って、それなりの体験ができたと思う。全く心残りがないと言うと嘘になるが、これ以上のコストとリスクと人生の時間を費やしてまで旅行にのめり込んでいるわけでもなく、ほどほどに終了、お疲れ様といった感じです。だから、今後ここに旅行について書くことがあったとしても、極めて普通の内容になる。これまでも普通っちゃ普通だったが、もっと観光色が強くなる。

そうではない海外旅行、僕が20代から30代にかけて行っていた海外旅行はもはや、「あの頃」になってしまった。映画「あの頃」は見ていないが、彼らがモーヲタだった時代を懐かしむように僕はバックパッカー時代を懐かしみ、バックパックで長期旅行はもはやエモ思い出と化してしまった。ここ最近は90年代からゼロ年代の旅行本を読んでは、あの頃はあーだこーだと思い出しながら自分の旅行も振り返って感傷に浸るのが年老いた趣味となっております(僕が旅行していたのは2010年代なんだけど)。

僕が旅行を始めた頃は、iPhoneはギリギリあった。Googleマップもあったけど、行き先ナビなんかはなかったし、スポットもそんなに登録されていなかった。日本にはSIMフリーのiPhoneなんてなく、街中のフリーWi-Fiを探していた(カフェかホテルぐらいにしかなかった)。だから、iPhoneはあっても実質海外では使えなかった。まだ地球の歩き方が現役だった頃の話。僕は付録の地図を破ってポケットに持ち歩いていた。

「人に好かれなくてもいい」と言うと、信じてもらえない

らしい。らしいというのは、本当に信じてもらえないのか、僕自身はよく知らない。多くの人は「人に好かれなくてもいい」ということがただの強がりと感じるか、よく理解できないだろう、と言われる。どうやらみんな、人に好かれたいらしい。

ときどき、「なんで人に好かれたいの?」と聞くことがある。すると、「人から好かれると嬉しい」とか「自然に人から好かれたいと思う」とか、そういう答えが返ってくる。僕は個人的に、人に好かれたって厄介なことのほうが多いと思っている。だから、誰でもかんでも好かれたいとは思わない。むしろそういうことはなるべく避けようと思う。人に好かれてもいいことなんて全然ない、というのが持論。厄介な人は関わらないでいてくれたほうが嬉しい。

でも、どうやらそういう話ではないらしい。人に好かれたい人は、「人に好かれてもいいことない」などといった理由云々と関係なく、無意識に「人に好かれたい」という欲求に囚われているそうだ。何故なのだろう?僕の仮説では、一般的には人に好かれることによって、仲良くなり、助け合える手が増え、命の危険が遠ざかり、生活の安全性が増す。つまり自分を守るために無意識に「人に好かれたい」という本能が働くのではないか。ビジネスなどにおいては、人脈が広いと事を運ぶのに有利とされる。あれのもっと原始的なやつが、「人に好かれたい」という本能だと思う。承認欲求とかも多分そこからきている。認められた方が命の危険が遠ざかるから、認められると喜ぶように体ができている。

以上が僕の仮説だけど、それで僕が「人に好かれなくていい」と感じていることも説明がつく。経験上、僕は人から排除されることのほうが多かった。人に好かれようとすると返って嫌われる。安全性を上げるはずの行為が、下げる結果に陥ってしまう。「人に好かれたい」なんて思うことは、意味を成さないどころかむしろ逆効果だった。

自分の本質は人に受け入れられない。そんな自分が人に好かれようとするとマイナスに働く。どちらかと言えば人に認識されないほうが安全だった。だから自分は「人に好かれたい」と思うよりも「目立ちたくない」「他者に存在を認識されたくない」という意識が働く。安全を確保するという本能が、「人に好かれたい」という欲求に結びつかない。僕の場合は。

僕が本質的に人に受け入れられないのは、おそらくだけど共感性が乏しいからだろう。人の言っていることがわからない。人に理解されない。共感性が高い人たちの間で説明不要な輪に、自分は入れない。存在を認識されると、輪を乱す異物として排除される。人と共感できたり、共感したいと思う人は、僕の例は全然参考にならない。

僕がここで言う「人に好かれたい」とは、「不特定多数の人間から無条件に好かれたい」という感情のことを指す。そういう感情は、僕は一切持ち合わせていない。だけど僕も、特定少数の人には好かれたいと思う。対象となるのは、自分が好きな人。自分が好きな相手からは、さすがに好かれたい。そのためには多少の努力もいとわない。それ以外人は心底どうでもいい。全く好意を持たれなくていい。例えば店員とか二度と会わない人とかに、自分のことをどう思われても構わない。

人から好かれるために、自分の本質を隠して擬態する人もいる。僕も仕事上など、どうしても人に好意的な印象を持ってもらわないといけないときは、擬態するようにしている。それ以外ではなるべくやらないけど、人によってはずっと擬態したままの人もいるんじゃないか。僕はそうやって人に好かれる人間を演じるのがすごく疲れるから、なるべくやりたくない。いざ好かれても、ボロが出ないようにずっと気をつけていないといけない。そこまでして人に好かれるなんて、とてもじゃないが割りに合わない。

本当に好かれたい相手にも、擬態は使わない。それは擬態が好かれているだけで、自分が好かれているわけではないから、本質的な意味を成さない。擬態の方を好きになられても困るため、素の自分が好かれるように努力する。これがけっこうな労力を要する。そうやすやすと行使できないほどに。そしてなかなかうまくはいかない。だから滅多なことでは人から好かれたいなんて思わないし、やらない。

具体的にどうやるかというと、自己開示するだけ。まずそれができるような関係になる。それまでの段階で、自分の本質が受け入れてもらえそうなのかどうか探る。それから、徐々に自分の中身をさらけ出す。好かれるかどうかは実際やってみないとわからないが、嫌われるかどうかはだいたい分かる。嫌われそうだったら、その段階より前に進めず終了。

それ以外においては、特段人に好かれて喜ぶことがない。似たような文脈で「褒められて嬉しいか?」というのがある。僕の回答は「相手による」「分野による」。誰からでも好かれて嬉しいわけではないのと同じで、誰から褒められても嬉しいわけではない。自分より優れた人から褒められたら、それは価値ある称賛だと思う。そして自分が好きな分野、興味のある分野で褒められると喜びがある。それ以外は特に、なんとも思わない。

最近盛り上がっているnoteの行く末を見守っている

先週からはてな(匿名ダイアリー)で盛り上がっている、とあるnoteを追っかけています。

「かわいい人にかわいいと言うのは、僕としては結構ありえない」という目を引くタイトルから、ジェンダーと性欲を入り混ぜた内容のこのnoteは3/3に投稿され、ツイッター等で人気を集めたそうだ。僕が知ったのは十分話題になってからの3/11、はてなブックマークに上がっているのを見かけて。その場で読んで、感想をブックマークしている。

かわいい人にかわいいと言うのは、僕としては結構ありえない|安原健太|note

ここで言われるような現場に立ち会ったことない。新歓行ったこと無いからなーTikTokは一瞬でクソだと思ったし、やっぱりわざわざそういう現場に近づかない

2021/03/11 16:30

長々とした文章を一応全部読んだけれど、自分にはあまり縁がない話だなというのが正直な感想。割とどうでもいいというか、自分は当事者としてその場にいない側の人間であり、強く関心の惹かれる内容ではなかった。ただまあご時世柄もあって、この手の内容が受けるのもわからんではないと思ったぐらい。

このnoteは大いに盛り上がっているのだが、どうも様子がおかしい。それは、はてな匿名ダイアリーでの盛り上がり方だ。このnoteに対して真っ向からの反対意見ばかり。男性も女性も(自称)みんな揃って全面不支持なのだ。

"より安全にモテるための恋愛工学としてしか読めなかった"

"多分女性がぶりっ子にイラつくのと同じ感じ。"

"容姿やコミュニケーション能力が優れた人間のセクハラ発言よりキモくてコミュ力の低い俺の「昨日期限の書類の提出お願いしてもいいですか」って発言の方が100倍不快だし100倍セクハラ罪として重いわけ"

"大変申し訳ないのだけれど、例の記事は、女に同情するふりをして、実際は女は人生も自分で決められないような存在だと哀れみながら書かれたんじゃないか? とすら邪推してしまった。"

一見「女性が生きやすい社会になりますように」的な内容で支持を集めた元記事。しかしそこから醸し出される、どうしても拭えない違和感について、男性も女性もそれぞれが抱いた感想と意見を述べている。全然ピンとこなかった僕も、何がそんなに盛り上がっているんだ?という感じでチェックしていた。匿名ダイアリーに投稿した人々は、元記事を大雑把に言って

  • モテ男性の非モテに対する、これでもかというマウント
  • 一見女性に優しいふりして食い物にしているだけの女性蔑視

こんな感じに捉えたようだ。ここで、挙句の果てに、爆弾怪文書が投稿された。

なんでこんなことをいま書いたかと言うと、はてブを見ていてたまたま見つけたバズっているエッセイの著者が彼だったからだ。

うーん、この先の展開はどうなるのか。行末を見守りたい。というか、これ以上の展開があるのか?件のnoteを書いた人は、3/12でTwitterの更新が止まっている。

「少女マンガのブサイク女子考」を読んで

まず第一に思ったのは、自分は容姿の美醜についてそんなに深刻に考えたことなかったなーということ。だからここで語られているように、容姿が人生を左右するかのような扱いは驚きだった。そして、それが女性にとってはあたかも常識であるかのように語られていることも。なんとなくは知っていたが、ここまでとは思わなかった。

というのも、ここで紹介されるマンガ内で、ブサイク女子は存在否定に近い虐げを受けている。ひどいものだと、親兄弟周りから生きる価値がないと罵られる。ただブサイクだというだけで。ブサイクというのはそこまで絶対的な指標なのだろうか。基準はコロコロ変わるもんだと思うんだけど。マンガによっては、特に近年描かれたものだとそこまでひどくはない。ただ一貫して、恋愛の対象外、論外、土俵に上がれない立場として描かれている。

とにかくまあ、ブサイク女子の生き様を中心に描かれた少女マンガばかり集めて解説しているのが、この「少女マンガのブサイク女子考」という本。ブサイクを侮辱したり虐げたりするのは、女性同士のほうが多く描かれている。男性はまあ、実際のところブサイク女子なんて眼中にないことが多いだろう。存在を意識しない。無視しているところがある。女性同士はなぜか、そうもいかないようだ。あとは親。ブサイク女子マンガには、よく親問題が出てくる。親はブサイク女子を人間と認めていない。そんなことって現実にあるのだろうか。

自分はどうだっただろう。思春期の頃は多少顔の造形も気にしていた。周りにはかっこいい人もそうでない人もいた。高校生ぐらいの頃は、だいたい同じレベルの人たちが固まっていたように思う。かっこいい人はかっこいい人同士、醜い人は醜い人同士。自分はどうだったか。真ん中だったんじゃないかな。

現代だとまだ、男性的な容姿の捉え方と女性的な容姿の捉え方には差があるかもしれない。それは社会的な扱いに根ざしたものなのかもしれない。女性の方が社会的権力、財力、立場が上だったら、それでも美容を頑張っていただろうか。男性が選ばれ、養われる立場だったら、男性が美容を頑張っていたこともあるかもしれない。昆虫のように。

男性だって、もちろん選ばれている。基準は容姿、財力、性格といったところか。この基準だと、明らかに財力は女性の基準と異なる。女性が選ばれる場合にあたって、財力はむしろマイナスに作用することもある。男性にそれはないだろう。金持ちだから、という理由で嫌がる女性の話を聞いたことがない。容姿については、男性の方が女性の容姿を重視すると聞いたことがある。それはまあ、女性の財力がマイナスに働くことなどと相絡まって、複雑に作用している。

マンガにおけるブサイク女子は、ブサイク女子のままかっこいい男性に好かれる。現実においても可能性はなくはないだろう。そんなに多くはない。その場合容姿がどうとかっていうことを帳消しにする魅力が求められる。ありのままの自分のままで受け入れてもらえるのは、相性が良かったときだけ。このあたりは男性も同じだと思う。

少女マンガだから、ブサイク女子でも決まってめちゃくちゃかっこいい男性にアプローチする。美人よりむしろ、ブサイク女子のほうが男性の容姿に厳しいんじゃないだろうか。どうなんだろ、現実では違うのかな?容姿にコンプレックスを抱く人間が、結局容姿の良し悪しで相手を選んでいるのは本当に皮肉なことだ。ブサイクな女子でもかっこいい男性を射止めるという夢を描きたいだけなのだろうか。現実では顔で選ばないことも多々あるのに。

自分が読みたいと思ったのは、「終電車」「宇宙を駆けるよだか」「薔薇のために」あたり。

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[asin:B01GIYVS66:detail]

[asin:B00WS7IKQO:detail]

ブルーブラック

先日アトロクを聞いていたら、オバマが使っているボールペンの話をしていた。アトロクでは最近オバマ元大統領の特集を行っており、これまでに2020年の音楽プレイリストや、2020年の推薦図書を紹介している。そしてついに文房具にまできた。

オバマ元大統領が使用しているボールペンは、三菱鉛筆のユニボール・ビジョンエリート・ブルーブラックだそうです!

https://www.newsweekjapan.jp/nippon/season2/2021/01/310492.php

日本の文房具!番組の解説によると、アメリカでは油性よりも水性ボールペンが一般的であり、ビジョンエリートは飛行機の中でもインク漏れを起こしにくく、飛行機によく乗るようなエリートのためのボールペンだとか。

なお、ビジョンエリートは元々海外向けの商品で、日本では廃盤になっており再販の予定はないとか。Amazonなどを探せば在庫が手に入るかもしれない。

僕が気になったのは、タイトルにしたようにブルーブラックというインクの色。PARKERのボールペンをもらったときにも、インクの色は青だった。外国にいた頃も、確かに黒ボールペンより青ボールペンが一般的だった。「黒インクは滑らかに出にくいから」と聞いたことがあったが、ブルーインクを使用するのはどうやら万年筆の名残りのようだ。万年筆で伝統的に使用されていたブルーブラックという色が、ボールペンになっても引き継がれている。

日本だと青インクのボールペンなんてほとんど使われないが、欧米だけでなくアジア圏でもよく使われているそうだ。ブルーブラック、ちょっと使ってみたいではないか。オバマどうこうは別として。

[asin:B0048DMLD4:detail]

文具ファンの間ではブルーブラックが一番人気みたいですね。これもやはり万年筆からの流れなのか。

3.7

「邦キチ! 映子さん」の1巻を読んだ。一話ごとのページ数は少ないんだけど、情報量が多く1巻読むだけで大変だった。どういうマンガかというと、映画を語る部活を立ち上げた部長のもとに、新入部員として入ってくる映子が邦画のキワモノを愛する女子だったという話。1話ごとにひとつ邦画が紹介される。知っている映画もあれば、知らない映画もある。どれも破綻した語り口で、本当にこんなクソ映画が存在するのか?という気持ちになる。

Webコミックなので、連載中の一部は無料で読めます。

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いつぶりかわからないぐらい久しぶりに、耳鼻科に通っています。おかげで今のところ花粉症の症状は、ほぼ全くない。医者に通う直前まで苦しんでいたのにも関わらず、毎日の薬と点鼻薬でピタッと治まっている。これまでいろんな耳鼻科を転々としてきて、レーザー手術もやったが全く効果がなかった。それも10年前。昨今の医療技術の進歩なのかなー。くしゃみ鼻水鼻詰まりがなくなった分、鼻の奥に膿が溜まるようになった。今はこれをなんとかしたい。

自己管理用のお薬手帳をEvernoteに作った。写真を撮って貼り付けている。

メルカリで受取評価されない

メルカリをずっと利用しているんだけど、最近受取評価をしない人が増えた。メッセージや連絡はあってもなくてもいい。でも受取評価がないと、いつまで経っても代金が入らない。買った方は物さえ届けばいいから、わざわざ受取評価をする必要がなく、放ったらかしにされる。そのまま受取評価がないと、1週間後ぐらいに取引は強制終了。お互いの評価はなし。お金は一応入るが、とにかく待たないといけない。そのうち購入者は全く受け取り評価しなくなるんじゃないだろうか。そうなると今のメルカリのシステムも破綻する。

メルカリは評価しないと取引が完了しない設計になっており、一度評価すると変更できない。自分が評価を完了するまで、相手がどちらの評価をしたか見られない。ヤフオクの評価は、取引とは別に任意となっている。後で変更も可能。ジモティーも確か同じだった。メルカリもそうなっていくのだろうか。サービス開始以来、移り変わってゆくメルカリ。評価を気にしなくていい状態にはなってほしいものだ。