読んだ本を買う

ときどきある。資料ではない、既に読み終えた本を買うということ。読んだら終い、の逆。読んでから買う。たとえば今年の春頃、図書館で借りて読み終えた本を、後日Amazonで買った(絶版で本屋には置いてなかった)。

一度読んだのになんで買うのかって、そりゃあ何度も読むため。通して読むというよりは、部分的に読み返す。漫画だとそういう読み方は、けっこう普通というか、当たり前だ。今は漫画雑誌を買っていないけれど、子供の頃は雑誌で読んだ上、単行本を買っていた。漫画は何度も読む。音楽だって、繰り返し何度も聞く。映画だって、何度も見るためにDVDを買う。配信はいつなくなるかわからない。

本を買うのも同じ。例外ではない。繰り返し何度も読むため。何度も読まないなら、また、参照するために引っ張り出してもこないなら、買わなくていいし売ってしまってもいい。わざわざ買うことの意味というか、所有することの価値はそこにあると思う。ただ持ってるだけで満足というのも全然いいんだけど、いつでも手にとって読み返せるのが買った本のいいところ。

ただまあ現実は…買ったのに読み終えていないどころか、表紙すらめくっていない本が何冊も積み上がっている。図書館で読み終えた本を買い直している場合ではない。

「週末アジアに行ってきます」を読んだ

一ヶ月以上前に読んだ本だからざっくりと感想を述べます。著者は下川裕治。僕の印象だと格安航空券のおっさん。ヒゲのおっさん。今も現役で旅行ライターをされている。

一昔前、週末海外という言葉が流行った。土日や三連休を利用して、気軽に海外旅行へ行くやつ。僕が会社員だった頃だから10年ぐらい前の話になるけれど、当時の先輩なんかも週末に香港や台湾、タイなどに行って、買い物、マッサージ、屋台めしを楽しむという旅行をしていた。

しかしまあ、バックパッカーはそういう消費旅行を求めない。下川裕治さんは、バックパッカーを卒業して日本社会に戻っていったかつての仲間たちから「今も旅行ができて羨ましいですね」と言われたそうだ。仕事でバックパッカーができるなんて。だったら彼らのために、バックパッカー向けの週末海外も模索してみようではないか。というのが本書の狙いだった。

結論から言うと、無理があった。この本ではアジアのいくつかの旅先と、そのルートや手段、日程が紹介されている。そのどれもが「そんな旅行誰がしたいの?」というような内容だった。ほとんどの時間が移動に費やされる。しかも現地の足を使うから不正確で、間に合うかどうかわからない。行った先には何もない。一泊か二泊して、また必死の移動で日本まで帰国する。誰もやらないだろこれ…。

バックパッカーは時間制限がないからこそ、楽しめた旅行スタイルであることを実感する。スケジュールとは極めて相性が悪い。ここで紹介されている旅行プランは、帰国の翌日に会社員としての日常が待っている人には、とてもじゃないが決行できない。飛行機に乗り遅れるリスク高すぎ。そんなことを心配しながら旅行しても全然楽しくない。

バックパック旅行の醍醐味が移動にあることは知っているけれど、長時間の悪路を移動して帰ってくるだけの旅行なんて、さすがのバックパッカーもゴメンだと思う。試みとしてはおもしろいのだけど、無謀な挑戦だった。それを真面目に紹介しているから…まあ読み物としては、奇書の部類に入るんじゃないか。読み終えると、当分旅行なんていいやと思える一冊でした。

どんな旅行が紹介されているのか気になった人は、買って読んでみてください。

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「Distance わたしの #stayhome 日記」はなんとも言えない感情が込み上げてくる

「Distance わたしの #stayhome 日記」を買った。今日マチ子というイラストレーターの人が、去年の緊急事態宣言からTwitterに上げていたイラストと文をまとめた本。Twitter上では見たことなかったから、本が出るまで存在を知らなかった。購入に至ったいきさつは、本屋のTwitterアカウントで入荷の告知を見て、気になったから。

イラストと文を見て、すごく若い視点のように思えた。今日マチ子さん、学生ぐらいの人かな?と思ったら、自分と同じぐらいの歳の人だった。実際に若い人が見たらどう思うのかはわからないけれど、いろんな年代の人が見て、それぞれの視点から思うところがあるんじゃないだろうか。

2009年の新型インフルエンザについても触れられていた。"あのときよりも今のほうが悲観的ではある"と書かれている。新型インフルエンザが流行したとき、日本にはなかなか入ってこなかったけれど、当時、海外から迫りくる恐怖のような悲壮感がすごかった覚えがある。メキシコかどっかだっけ。何も対策できなくて、人がどんどん死んでいくニュースを見ていた。

去年の4月ごろ、コロナ初期にもそういう、海外から迫りくる未知の恐怖、みたいな感覚が強かった。2021年の今のほうが変異株も蔓延して、感染者数も死者数も病床使用率もよほどひどいんだけど、どこか恐怖に慣れてしまったところがある。ワクチンという希望も大きい。去年の春のあの感じは、あの当時にしかなかった。当時の感覚が、イラストと文から蘇ってくる。あの頃の心情、考えていたこと。

来年(2022年)にはおそらくワクチン接種も拡がっていて、コロナ終息宣言が出て浮かれ倒して飛行機にだって乗っているかもしれない。それまでにも多くの人が亡くなる(自分もその一人になるかもしれない)。けれど一度過ぎ去ってしまえば、去年とか、今年のこのコロナ禍を過ごしたときの気持ちは、きれいサッパリ忘れてしまいそうだ。既に忘れている去年の感覚を、このステイホーム日記を読んで思い出しているぐらい。

だからきっと、来年にこの本を読むと、また違った気持ちになるんじゃないか。5年後10年後に読むと、また全然違うだろう。あんなことあったね、なんて言ってると思う。その頃にはもう誰もマスクをしていないだろうし。ましてや来年以降に生まれた人は、コロナ禍を知らずに育つ。このステイホーム日記に書かれている多くのことが、意味わからないだろう。彼らにとってリアリティのない、歴史上の資料になるんじゃないか。

東北地震や原発もそうだった。騒いでいたのはあのときだけ。僕は当事者じゃなかったから、教訓もなにもない。あれから世の中は、少なくとも僕にとっては何も変わっていない。コロナには今のところ感染していないけれど、今回は世界中の誰もが、同時期に、当事者だった。経験したこと、思ったことがたくさんあったはずだ。きれいサッパリ忘れてしまいたくない。

僕は戦争も体験していないから、戦時体験を自分のリアルとして受け取れない。いくら重要だと言われても、歴史上の資料としてしか見ることができない。でもコロナ禍は、今を生きる誰もが当事者だから、この先も当事者性を持って向き合えるはずだ。「Distance わたしの #stayhome 日記」は、それぞれの今を未来に残す、当時の気持ちをこの先もずっと呼び起こしてくれる、貴重な一冊になると思う。

※公式ストアではサイン本やグッズが販売されています

「本の読める場所を求めて」を読んだ

読みやすく、おもしろい本だった。内容を一言で言えば「本を読むのに適した場所がない!」と嘆く著者が、自ら試行錯誤を重ねて理想の店を作った話。理想の店とはどんな店か。渋谷と下北沢にある「本の読める店」だそうだ。

前半は、本を読むのに適した場所がなくて困り果てる著者が、ここでもないあそこでもないと街をさまよう姿を延々と描いている。自宅、ブックカフェ、図書館、喫茶店、一見読書しやすそうなところはいくらでもあるのに、どれもこれも全部、何かが違う。場所を変え変え行けども行けども、それらがいかに本を読むことに適していないか、そしていかに読書をする人が世間で冷遇されているか、体験談を踏まえて語っている。その体験の恨みつらみは、声高な煽り芸で主張されている。

その内容は「言われてみれば」と思うこともあれば、「神経質すぎるだろ」と思うこともある。同意できる点、できない点は人によって違うと思う。この内容をおもしろく読める人もいれば、このスタイルに苦手意識を感じる人もいるだろう。僕は単純に読みやすいと思った。ブログ的な文章だなと。

後半は、著者が「本の読める店を作りました!」という内容。この本を書かれた阿久津隆さんは、fuzkue(文机のことかな)という「本の読める店」を渋谷と下北沢で経営されている。2014年から始められて、今年2021年には3店舗目ができる予定みたいだ。うまく行ってるようですね。では「本の読める店」とは一体どういう店なのか?どうすることで「本の読める店」を実現することができたのか?その採算性も含め、コンセプトからルール作り、店を始めてからの具体的なエピソードと、方針の調整に基づく成功体験が記されている。

  • 前半:本を読むのに適した場所が全然ない!
  • 後半:本の読める店を作りました!
  • 「本の読める店」に行きたいか?
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「本についての、僕の本」を読んだ

こういうタイトルだけど、ここで紹介されている本はアメリカの写真集が多い。この「本についての、僕の本」を知ったのはInstagram上だった。写真の説明文としてこの本の文章が引用されており、原文を読みたいと思った。1988年のやや古い本で、雑誌ポパイで連載されていたコラムをまとめたものだそうだ。本屋などではおそらく見かけることがない。僕はまず、図書館で借りた。そして全部読み終える前に古本を購入した。

著者は片岡義男という作家。僕は全然知らなかった。作品も読んだことがない。Wikipediaによると父親が日系二世のハワイアンだそうで、アメリカ文化に精通しているのかもしれない。この「本についての、僕の本」で紹介されている本は、アメリカの文化を切り取った本ばかり。テディベアの本とかミッキーマウスグッズの本とかボーリングの本とかホットドッグの本とか、そのどれもがあまり興味の湧かない本。しかし、著者の紹介文が読ませる。一冊の本に対してわずか2ページから4ページの紹介なんだけど、実に上手くその魅力を語る。

そのバトン・ガールは、若い。躍動している。はちきれそうである。きっと美人だろう。太腿やふくらはぎが、素晴らしい。とは言え、彼女は決して特別の存在ではない。一九四〇年のアメリカのなかで、彼女のような女性をさがしたなら、困ってしまうほどにたくさんいたにちがいない。彼女は、ごく普通の人だ。しかし、まさにその普通の人として、彼女は、この写真の中で、ロススタインの写真的な力量によって、具現のようになりえている。
なにの具現かというと、アメリカの力の具現であり、ではその力とはどのようなものかというと、常に新しく自分を作り出していくことのできる力だ。そのような力に対する、信仰にも似た信念を、彼女はパレードの先端で具現している。具現することによって、彼女は、アメリカのなかで普通の人が持ちうる、あるいは持たなくてはいけない、尊厳のようなものを、端的に表現している。 P156

これはアーサー・ロススタインという人の「America in Photographs 1930-1980」という写真集の紹介文で、表紙になったパレードの写真について解説している。この紹介がなければ、この写真集のことは知らなかった。たとえ本屋で見かけたとしても手に取らなかっただろう。それが今僕はネットで注文してしまっている。見事にしてやられている。僕だけでなく、この文章を読んだ多くの読者が、全く興味もなかったはずの写真集を手にとって購入したんじゃないだろうか。この「アメリカの心がうたう歌が聞こえる」と題されたコラムは、公式サイトでも全文公開されているので、興味が湧いたらどうぞ。

この本の中では、36冊の本が紹介されている。そのうちさすがに全部とは言わないが、5冊は欲しい本が見つかった。手に入りそうにない本もある。ジョエル・マイヤーウィッツの「A Summer's Day」なんかは古本でいくつか見つかった。ルー・ストーメンの「Times Square」も、あるにはある。ただタイミングを逃せば見つからないだろう。もしくは海外からの輸入になる。ネットで海外通販なんて今どき珍しくないから、頑張れば手に入るか。送料と期間がどれぐらいかかるかはわからない。ゲイル・レヴィンの「Hopper's Places」もほしいけれど、そんなに安くは売っていない。

こういった、本が欲しくなる本は実に読んでいて楽しい。それが、聞いたこともないような本だったり、もともと全然興味が湧かなかったような本だったら、この本を読むという体験そのものが全て新しい発見になる。そして、この本を読んで欲しくなった本を買い、ページをめくるときも手元に置いておきたい。改めてコラムを読み、内容を照らし合わせて確認したい。それぐらい、「本についての、僕の本」は何度も楽しめる。

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今週のお題「おうち時間2021」

「ニッポンの海外旅行」を読んだ

この本は「日本の若者はなぜ海外旅行をしなくなったのか?」という疑問に端を発し、1960年代から2010年までの50年間における、日本の若者の海外旅行傾向の推移をまとめた本だった。僕みたいに旅行が生き甲斐だった時期のある人間からすれば、非常に興味深いテーマを扱っている。それぞれの時代で若者の旅行に影響を与えた「何でも見てやろう」(60年代)、「地球の歩き方」(70年代)、「深夜特急」(80年代)、「旅行人」と「アジアンジャパニーズ」(90年代)「猿岩石日記」(それ以降)などが全て出てくる。地球の歩き方は読み物ではなくガイドブックだけど、全部読んできた本ばかりだ。

この本では序盤に「日本の若者の海外旅行が著しく減っている」「とりわけバックパッカーは昔に比べると見る影もない」といったような書かれ方をしている。実際に海外渡航数のデータを引用して、少子化を考慮したとしても著しく減少していることを示している。ただ、自分としてはあまり実感がない。昔は本当にそんなたくさん旅行者がいたのか?

身の回りでは、自分より上の世代から海外旅行をしていた、それも個人旅行を楽しんでいたなんて話を聞いたことがない。むしろ海外に行ったことがない、飛行機が嫌いというような声の方がよく聞く。身の回りの事例は実数が少なく、当てにならないかもしれない。でも自分の印象としては、自分たち世代周辺のほうが、よりカジュアルに海外旅行をしている。

だからバックパッカーが多かった時代なんて、超局所的な現象なんじゃないだろうか?と疑ってしまう。例えば東京の一流大学の学生の間でだけ流行ったとか。旅行どころか旅行本を読んでいたという人の話さえ、ほとんど聞いたことがない。でも7・80年代に若者だった人は今50代だから、単にその世代とずっと接点がなかっただけかもしれない。

この本からわかることは、日本において海外旅行がいかに「商品」であったかということ。今も昔も多くの日本人は、通過儀礼として海外旅行を行っていたわけではなく、知的好奇心・探究心を満たすために海外へ飛び立ったわけでもない。ただ単に「海外旅行」という商品が、メディアによって時代に合った形で魅力的に紹介され、若者はそれに乗っかっていたに過ぎなかった。時代を経るに連れ、その宣伝媒体が「地球の歩き方」+格安航空券から「るるぶ」+HISへと移り変わった。旅行のスタイルも、時代が変わると共に変化していった。海外旅行もバックパッカーも、大人に仕掛けられたブームという点では同じであり、当事者である若者には主体性なんてなかったんだなと実感する。

この本が出たのは2010年で、僕が旅行を始めたのもちょうど2010年頃だった。この本に書かれていない、2010年以降の話をする。当時は既に情報社会だった。海外の情報なんてそこら中に溢れかえっており、わざわざ時間とお金を費やして現地に出向く海外旅行は、その魅力を提示するのがより困難になっていただろう。海外旅行の魅力なんて、実体験がなければ共感も得にくい。にもかかわらず、体験するためのハードルが高い。海外旅行はいわゆるコスパの悪い、非効率な娯楽、ないしは趣味だった。一部の物好きしか行わない。

このあたりは現代における趣味の多様化とも関連しているかもしれない。好きな人はとことん好きだし、やる人はとことんやる。けれどそれ以外の人からは全く縁遠い。こういった現象は、現代どの趣味においても共通した現象ではないだろうか。それぞれの分野を占める人口は、多様化に伴い減っている気がする。

この本に書かれている著者の結論については、どうなんだろう?というかよくわからない部分があるけれど、バックパッカーの文化史として非常におもしろく読めた。あまり残らないタイプの参考文献をめちゃくちゃよく調べ上げ、この本ができるまでさぞ大変だったんじゃないかと思う。日本のバックパッカーに興味がある人、その文化史に思いを馳せたい人は必読です。それは例えば、「何でも見てやろう」「深夜特急」なんかをおもしろく読んでいた人のことを指す。

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例えば村上春樹の生原稿はいくらの価値があるのか?「グレート・ギャツビーを追え」を読んだ

「グレート・ギャツビーを追え」という小説が昨年邦訳されて話題になった。著者は「評決のとき」「ペリカン文書」などのジョン・グリシャム。推理小説なのか、ミステリ作家なのか、そのあたりという程度の認識。著者の名前はさすがに知っているけれど、読んだことないし普段読まないタイプの本。

  • 「グレート・ギャツビーを追え」に惹かれた部分
  • 絵画のように売り買いされる生原稿
  • 希覯本(きこうぼん)というコレクションの世界
  • 感想
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「少女マンガのブサイク女子考」を読んで

まず第一に思ったのは、自分は容姿の美醜についてそんなに深刻に考えたことなかったなーということ。だからここで語られているように、容姿が人生を左右するかのような扱いは驚きだった。そして、それが女性にとってはあたかも常識であるかのように語られていることも。なんとなくは知っていたが、ここまでとは思わなかった。

というのも、ここで紹介されるマンガ内で、ブサイク女子は存在否定に近い虐げを受けている。ひどいものだと、親兄弟周りから生きる価値がないと罵られる。ただブサイクだというだけで。ブサイクというのはそこまで絶対的な指標なのだろうか。基準はコロコロ変わるもんだと思うんだけど。マンガによっては、特に近年描かれたものだとそこまでひどくはない。ただ一貫して、恋愛の対象外、論外、土俵に上がれない立場として描かれている。

とにかくまあ、ブサイク女子の生き様を中心に描かれた少女マンガばかり集めて解説しているのが、この「少女マンガのブサイク女子考」という本。ブサイクを侮辱したり虐げたりするのは、女性同士のほうが多く描かれている。男性はまあ、実際のところブサイク女子なんて眼中にないことが多いだろう。存在を意識しない。無視しているところがある。女性同士はなぜか、そうもいかないようだ。あとは親。ブサイク女子マンガには、よく親問題が出てくる。親はブサイク女子を人間と認めていない。そんなことって現実にあるのだろうか。

自分はどうだっただろう。思春期の頃は多少顔の造形も気にしていた。周りにはかっこいい人もそうでない人もいた。高校生ぐらいの頃は、だいたい同じレベルの人たちが固まっていたように思う。かっこいい人はかっこいい人同士、醜い人は醜い人同士。自分はどうだったか。真ん中だったんじゃないかな。

現代だとまだ、男性的な容姿の捉え方と女性的な容姿の捉え方には差があるかもしれない。それは社会的な扱いに根ざしたものなのかもしれない。女性の方が社会的権力、財力、立場が上だったら、それでも美容を頑張っていただろうか。男性が選ばれ、養われる立場だったら、男性が美容を頑張っていたこともあるかもしれない。昆虫のように。

男性だって、もちろん選ばれている。基準は容姿、財力、性格といったところか。この基準だと、明らかに財力は女性の基準と異なる。女性が選ばれる場合にあたって、財力はむしろマイナスに作用することもある。男性にそれはないだろう。金持ちだから、という理由で嫌がる女性の話を聞いたことがない。容姿については、男性の方が女性の容姿を重視すると聞いたことがある。それはまあ、女性の財力がマイナスに働くことなどと相絡まって、複雑に作用している。

マンガにおけるブサイク女子は、ブサイク女子のままかっこいい男性に好かれる。現実においても可能性はなくはないだろう。そんなに多くはない。その場合容姿がどうとかっていうことを帳消しにする魅力が求められる。ありのままの自分のままで受け入れてもらえるのは、相性が良かったときだけ。このあたりは男性も同じだと思う。

少女マンガだから、ブサイク女子でも決まってめちゃくちゃかっこいい男性にアプローチする。美人よりむしろ、ブサイク女子のほうが男性の容姿に厳しいんじゃないだろうか。どうなんだろ、現実では違うのかな?容姿にコンプレックスを抱く人間が、結局容姿の良し悪しで相手を選んでいるのは本当に皮肉なことだ。ブサイクな女子でもかっこいい男性を射止めるという夢を描きたいだけなのだろうか。現実では顔で選ばないことも多々あるのに。

自分が読みたいと思ったのは、「終電車」「宇宙を駆けるよだか」「薔薇のために」あたり。

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「愛のかたち」は恐ろしい本だった

いったいこれはどういうことだろうか。自殺した直後の妻を撮ることに、どのような意味があるのだろうか。そもそもこんな状況を撮ることが許されるのだろうか。自殺した妻を写真に撮ることは当然ながら、犯罪ではない。しかし精神が病んだ妻の姿を執拗に撮り続け、死の直後までカメラを向けること、さらにそれを作品として発表することは、並大抵の精神ではできない。はたして、古屋という男は何者なのだろうか。 P21-22

気になって、二日で読み終えてしまった。好奇心に駆られたと言っていい。自殺した直後の妻の写真を掲載した写真展を行い、その後も死んだ妻の写真集を、同じ「メモワール」というタイトルで何度も出版し続ける写真家、古屋誠一。著者は古屋が「なぜそんな写真を撮ったのか」そして「なぜそれを作品として発表したのか」ということが気になり、取材を申し込む。

著者は古屋に手紙を送り、取材の約束を取り付け、古屋の住むオーストリア第二の都市グラーツを訪ねる。この古屋という写真家は大変難しい人物らしく、ぶしつけな質問はできない。聞いたところでまともな答えは返ってこないだろう。慎重に、12年にも渡る取材を行っていく。その間も古屋は「メモワール」シリーズを出版し続ける。

「この家は…間借りしているという感じ。 たえず、人の家って感じ。だけど、作品があって、それに満足したら、作品が家になる。特に写真集だよね、自分としては。自分の写真に取り囲まれているような状況にしたい。孤独だからね」 P58

古屋という人物を訪ねるたびに、新たな情報がもたらされ、今までになかった印象を受ける。妻クリスティーネとの生活、息子との関係、クリスティーネの母親、古屋の生い立ち、両親、弟の存在。古屋という人物が今の行動に行き着くきっかけ、要素を全て線で結びつけ、古屋という人物を体系化しようとする中で、著者はどんどん古屋にのめり込んでいってしまう。

「アパートでは、一枚も写真を撮りませんでしたね」
「写真を撮る気にならないというか、別にここで撮ってどうするっていう感じだった」
「では、どうして十六年前、飛び降りた直後の写真を撮ったのでしょうか?」
唐突な私の質問に、古屋は少し驚いたようだった。
「なんだか知らないけど、撮った」
短い答えだった。 P136

この話のオチそのものは、実にあっけない話だった。古屋にのめり込みすぎてまとまらなくなった著者は、古屋と親しい荒木経惟に意見を求める(アラーキーをヨーロッパに紹介し、世界に広めたのは古屋その人だった)。アラーキーは簡単にその答えを言う。言われてみれば、初めからわかりきっていたような答えだった。ただそれは、棺に眠る死んだ妻の顔を写真集に収めたアラーキーだからこそ、言っていい言葉、言える答えだったようにも思える。言葉の重み、実感を得る。

この本では、取材していた時期に9.11テロ、東日本大震災が重なる。著者はテロの現場、被災地において撮るべき写真、撮っていい写真について考える。凄惨な現場の写真を撮るとはどういうことか。それは、精神の病に苦しむクリスティーネを撮る古屋、自殺したクリスティーネの死体を撮る古屋に共通する部分があるのか。興味、好奇心、美しいもの、惹かれるもの。それら見られる者と、見る者という関係が、

クリスティーネ(被写体)←古屋誠一(撮影者)←小林紀晴(著者)←読者 と続いて我々も当事者になる。

芸術とは、表現とはなんなのか。どこまでが許されるのか。どこまで突き詰めるべきなのか。倫理観とは?美しさとは?受け取り手は、どう見ればいいのか。それぞれによって違う。では、あなたはどう考えるか?あなた古屋をどう見るか?そう問われているような本だった。とても苦しい。

今年読んだ本(2020)

去年はあまりにも読んだ本の数が少なくて、まとめなかった。数えてみたら10冊だった。今年も決して多くなかったんだけど、いくつか感想も書いたからまとめておこう。

計22冊

未来学会議はずっと前に買った本で、やっと読み終えることができた。スタニスワフ・レムは邦訳されている本が少ない。完全なる真空が文庫になっていた。国境なき医師団も竹内浩三も、ラジオ番組アトロクで紹介されていた。去年からけっこうラジオ経由で本を読んでいる。プレゼンが上手い。本屋になりたいは一番やさしい古本屋開業本。忘れられた巨人もやっと読んだ。なかなか大変だった。アジアンジャパニーズは初めて読んだ本ではないけれど、感想を書いたから入れた。宮田珠己本は今年たくさん買い集めたが、まだ全然読んでいない。村上春樹はエッセイばかり読み捨てるように読んだ。夏葉社本をたくさん買って、たくさん読んだ。まだ読み終えていないのもある。愛のかたちは後から追加。写真がテーマ。

今年の一冊を選ぶとしたら、「90年代のこと」だろうか。今年出た本ではないけれど。Mid90'sなんて映画が上映されたり、ファッションや音楽など90年代が見直されている昨今、リアル90年代はどんなだったか書かれている。僕は当時子供だった。読んでいるといろんなことを思い出す。結構昔のことなんだけど、こんなにいろいろなことをよく覚えているなー。僕は今のことも昔のことも結構忘れてしまっている。こうやって提示されたら思い出すことはできるけれど、自分一人だったら引き出しの取っ手を掴めない。記録しておくことが大事だなー。そういう内容の本ではない。とにかく、よくも悪くもリアル90年代を思い出す。

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今年買った本は多かった。まだ読んでいない本も多い。ちゃんと読みたい。

今年読んだ本(2018) - Letter from Kyoto

今年読んだ本(2017) - Letter from Kyoto

今年読んだ本(2016) - Letter from Kyoto

「都会なんて夢ばかり」を読んだ

まず最初に、フォークなんて今の時代に歌っている人がいるんだーと驚いた。全然知らなかった。だから最初にCDを聞いた。聞いてみて、確かにフォークってこんな感じだった気がする。でもフォークがなんたるかは全然知らない。さだまさしも南こうせつもモノマネやコントで見たことがあるぐらい。僕の世代の人は「LOVELOVEあいしてる」で吉田拓郎を知ったと思う。馴染みがない。長渕剛もフォークなのか?

湿度の高い歌だった。日本的だと思う。日常生活の機微を歌っているという感じがした。言われてみれば私小説っぽいところはある。他のジャンルに比べて、共感を呼びやすいかもしれない。本の内容は、歌を補完するようなものだった。本と歌をいったりきたりすると、その空気であったり世界観がよりクリアに見渡せる。

本の中身は、世田谷ピンポンズの東京での暮らしを綴った日記、記録といった感じ。上京組の心理とか心情ってこういうところあるのかもなーと思う。大学進学で上京した人より、ミュージシャンとか芸人とか目指して上京している人だったら、自分の仲間が書いた本のように読めるんじゃないか。初期ブログ的でもあると思う。

実に庶民的で、ちっぽけだと思う。世田谷ピンポンズの歌っていることや、書いていること、体験したこと、生活、どれも特別なことはない。ただその、歌を作って歌っているということは特別だと思う。中身はそうじゃない。普通。この本に書かれていることも極めて普通の日記。だからこそ、誰でも読めるし、誰でもその情景を思い浮かべることができる。

すごくダサくて、かっこいいことをやろうとしていないところがいい。特に、この本の序盤のダメな空気が、かっこわるくて非常によかった。大学へ入ったけれど友達がいなくて、彼女もいなくて、自意識が強くて、世間に対する羨みと憧れだけがあって。ネットだけが唯一、二次的に人と関わる手段だった大学生の頃。世田谷ピンポンズには、ぜひずっとそのままでいてほしかった。そのままの状態で歌を歌い続けてほしかった。

後半になり、彼女ができてバンド仲間ができて、バイト仲間ができて、もうこんなのは全然読みたくない。歌が評価されたり、CDが出る下り。ライブが受け入れられるところなんか、僕の観点からは全く面白くない。世田谷ピンポンズが人と関わるようになり、世に出て少しずつ認められていく過程は喜ばしいことなのだろう。それはわかる。いい話だということも。

でも序盤のどうしようもなくダメで、鬱屈としていて、かっこわるい世田谷ピンポンズこそが輝いていた。そのときのことを、うまくいってる今となってもこれだけ克明に綴っているのだから、大切にされているんだなと思う。僕は何もできない、何をやってもうまくいかない世田谷ピンポンズこそを、もっともっと見たかったです。

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最近読んでいる本

最近「インドで考えたこと」を読んでいる。この本は著者がインドに行って、簡単に言えば文化の違いに圧倒されたということがつらつらと書いてある。そして我が日本を振り返ってみてどう思うか、まさに外から日本と、日本人と、客観視した本だと思う。それもアメリカやヨーロッパではなく、インドという客体のそばから、なるべくその目線を借りて、そこと比較して。

著者がインドで圧倒されたのは、人種の多様さ、気候の厳しさ、街の不整然さ、そこから生まれ、成り立ってきた人間たちと、生活。単に「文化の違い」では片付けられない壮大なものだった。これは本当に、日本に住む人は全員体感して日本に持ち帰って欲しいと思うやつだ。そして日本社会の秩序をぶち壊してほしい。

それは僕が伝統とか秩序をそんなに好ましく思っていない人間だから、そう思うのだろう。保守的な人はインドにいても日本人であり、同じ人間の営みとしてではなく、飽くまで外のこととしてインドを見る。そして日本に帰るとまた元の生活に戻る。むしろ日本の秩序をより守ろうとする。結局は経験、体感ではなく、思想の違いに落ち着く。そこはインドだからそうなのであって、インドの必然を日本に適用できない。そう考えるのが保守的な人。リベラルだったら、インドでできることは日本でもできる、ととらえるんじゃないか。

この本は1957年に発行されたものだけど、独立という言葉一つとっても日本とインドでは全然違うと書かれている。多言語、多人種、多宗教のインドにとって、独立とはindependeceではなくintegrationだと。日本で言うところの天下統一に近いが、インドには日本のような統一言語がない。言語形態も母語も全然違う人達が入り混じっている点において、日本の天下統一とは違った難しさがあるだろう。

どちらがいいというわけではないが、我々日本人は実際のところはインドで暮らすほうが大変だろうな。お金が有り余っていたとしても、日本で暮らすほうが楽に決まっている。インドはたまに行くぐらいが丁度いい。逆にお金が全然なかったらどうだろう。もしかするとインドのほうが暮らしやすい?すぐに死ぬだろうな。健康問題等で。シャンタラムを読んだ人なら誰でもインド生活に憧れる。

バンコクぐらいだったら住みたい。インドは、ずっと住むにはちょっと苛烈すぎる。1ヶ月ぐらいなら住みたい。やっぱり旅行が一番いい。バンコクは、イメージとしてはもうすっかり刺激がなくなってきたんじゃないか。僕らが求めているアジアの魔窟は、やはり統一前のサイゴンなのだ。ぜんぜん違う話になった。

そういう場所って今でもあるのだろうか?マニラあたりは、まだまだ結構そんな感じかもしれない。発展と無秩序の入り混じったような都市。香港もかつてそのイメージだった。やはり小さい街のほうがそれっぽいのか、ムンバイとなるとどっしり構えた大都会をイメージしてしまう。深センは全然違って、整った街だった。

「あしたから出版社」を読んだ

ひとり出版社である夏葉社を作った島田潤一郎さんの、「あしたから出版社」を読み終えた。こう言うと不謹慎かもしれないけれど、とても羨ましい話だと思った。恵まれている人だな、と。著者の島田さんは、兄弟のように仲が良かったいとこを亡くした悲しみ、なにより息子を亡くした叔父叔母の悲しみの支えとなるような本を作りたいと思い、出版社を立ち上げた。きっかけになったいとこの死や、後輩の死など、つらく悲しいできごとがあった。それを軽んじるつもりはまったくない。それでも著者はいろいろ恵まれていると感じた。それはこの本を読んでいてすごく印象的な部分だった。

島田さんは31歳のとき、出版社を立ち上げるために父親から200万円借りた。後に母親から200万円借りている。うちの家ではありえない。実家が太いということがまず恵まれている。東京在住で、出版社を立ち上げてからも実家暮らしが続く。それを咎める親でもない。むしろ応援してくれている。そして出版社を立ち上げたばかりの島田さんに、編集者の先輩が仕事を回してくれる。初心者の島田さんに、一から仕事を教えてくれる。こんなにいい先輩がいるのだろうか。島田さんの周りには、すごく良くしてくる人たちがいる。両親や叔父叔母、いとこや先輩後輩と、こんなにも良い関係を築けている。それはただ羨むことではなく、島田さんの人徳なのだと思う。

文章からも島田さんの人柄がよくわかる。多分、ちょっと不器用なんだろうな、とか、真っ直ぐな人なんだろうな、とか、ひたむきなんだろうな、周りのことを見るのは苦手だろうなという、島田さんその人の人物像が文章によく現れている。この人が本屋の店員さんや、先輩や、いろんな人に好かれ、助けてもらえるというのもよくわかる。それだけのことを周りに与え、人との縁を引っ張ってくる、掴む力があるように思う。この本では「自分だとこうはならない」と思うようなことがたくさん起こる。それはただ島田さんの運が良かっただけではなく、本人の魅力だということが伝わってくる。やはり羨ましい。

島田さんは出版社を始めるにあたり、「ぼくには、つまり、本しかなかったのだ」と書いている。これも実に羨ましい話だ。島田さんは幼少期から文学漬けだったわけではないが、名前の潤一郎は谷崎潤一郎にちなんで名付けられ、子供の頃から本屋通いが日課になっており、挫折はしたが大学生の頃から27歳まで作家を志していた。「ぼくには本しかない」と言えるほどまでに熱を入れ、本と関わってきた。取り組めることがあった。それだけでも十分に羨ましい。情熱を傾けてきたこと、自信を持って「これしかない」と言えるもの、僕にはそんなもの何一つない。何もかも、気持ちでさえ中途半端だ。

島田さんがそれだけ情熱を捧げて作った本は、ぜひ読みたくなる。所有したいと思う。このために人生をかけ、出版社まで立ち上げた「さよならのあとで」を買った。挿絵一つ一つと、言葉の一つ一つを大切にしたいと思う。この「あしたから出版社」は「さよならのあとで」ができるまでを書いた本だと言っていいぐらい、第一章では重きを置かれていた。第二章は、急に失速した感じがした。時系列に話が進んでいく第一章とは違い、第二章は別々のエピソードを集めたエッセイ集のような作りだった。熱く流れるように進む第一章をおもしろく読んでいたから、第二章には最初面食らった。読んでいくうちに、これはこれでいいのだろうと思えてきた。そして最後に、「さよならのあとで」の話を回収してくれたからよかった。

「あしたから出版社」は生き方指南書ではない。誰もが島田さんのような恵まれた環境は得られないし、島田さんのような悲しい経験もしていなければ、島田さんのように頑張ることもできず、島田さんのような人徳もない。島田さんの人生は、島田さんだけのものだ。だから、サラリーマンが合わない人にどういう生き方があるのか、といった話の参考には全然ならない。ただ島田さんという人物の話を面白く読めた。ここに出てきた京都の古本屋「善行堂」で、ここに出てきた本を何冊か買ってしまった。古本屋はまた訪ねたい。買った本はこれから読みたいと思う。

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猿岩石日記を読んだ

深夜特急をはじめ、いくつかの旅行記を読んできた。しかしなぜか、猿岩石日記はこれまでに通らなかった。理由の一つとして、あまり見かけなかったというのがある。猿岩石日記は250万部売れたベストセラーであるにもかかわらず、今ブックオフなどで売られている姿をほとんど見かけることがない。それこそ僕が中学生、高校生の頃には必ずあったような気がする。しかし当時は旅行本なんて読まなかった。

猿岩石日記は「ブックオフ大学ぶらぶら学部」でその名前を見かけ、そういえば読んでいないなーと思いメルカリで購入するに至った。まちなかの本屋、ブックオフには並んでいないけれど、メルカリやブックオフオンラインには在庫があり、購入することができる。Amazon等でも中古なら手に入る。1996年だから、25年近く前の本か。もちろん絶版。

  • 猿岩石って誰?
  • ユーラシア大陸横断ヒッチハイク
  • 猿岩石日記
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