綿棒を何に使うか

綿棒は何に使う物だろう?

オーストラリアにいた頃、綿棒が欠かせない男がいた。鈴木だ。

彼はオーストラリアに来ても、薬局で綿棒を購入していた。日本の百均で買うような小分けの販売がなく、膨大な量を買わされていた。

彼が綿棒を何に使うか。それは、風呂上がりの耳掃除だ。厳密に言うとオーストラリアには風呂なんかないからシャワー後に、耳の中に溜まった水を吸わせて出す作業をしていた。彼はこのシャワー後の耳掃除を、まるで儀式かのように毎回決まったやりかたで行っていた。目を閉じ、口を開け、なんなら鼻も開き、今にも声が漏れそうな顔で儀式を行う。すごく嫌だった。

彼は儀式を、世界中のみんなが当たり前にやっていることだと思っていた。ある日、同じシェアハウスに住んでいた同居人が、鈴木くんに向かって「お風呂入りましたか?」と聞いた。彼はこう答えた。「見ればわかるだろ!綿棒使ってんだから」彼の中では「綿棒を使っている=風呂上がり」という等式が成り立っていた。

僕は風呂上がりに欠かさず綿棒で耳掃除をする習慣なんてない。ましてやオーストラリアに来てまで綿棒を買うようなことはなかった。彼はプールへ行ったときや、海に行ったときも綿棒で耳掃除をするのだろうか。

しかし最近になって、風呂上がりの耳に違和感を覚えるようになった。水が残っている…。指で掻き出そうとするが、なかなかうまくいかない。そしてその様子も、つまり、耳に指を突っ込んで掻き出す姿も、あまりきれいなものじゃない。しかたない、負けた、鈴木よ。綿棒を使うようになった。

綿棒でそんなにしっかり水が取れるわけでないんだけど、気になったら使うようになった。外出先にまで持っていったりはしない。それにしても、なぜ耳はこんな簡単に水が溜まる構造になっているのか。

僕の場合は、それ以外にも綿棒の使い道がある。僕はときどき綿棒を使って、鼻の粘膜にワセリンを塗っている。これは鼻バリアと言うらしい。僕はアレルギー体質で、とりわけ花粉症の季節はひどい。そういうとき、鼻の粘膜に綿棒でワセリンを塗ってガードする。これは確か、ためしてガッテンでやっていた。イギリス人はそうするらしい。僕は花粉症シーズン以外にも、ときどき鼻バリアを行っている。そのために綿棒を使う。

他に、通常の耳掃除にもときどき綿棒を使う。耳垢を取るには、耳かきよりも綿棒のほうが有効だ。耳垢が湿性の人は、綿棒を突っ込んでかき回すだけで耳垢がへばりついて取れることだろう。溜まる場所は決まっているから、コツを掴めば取りこぼしがない。さて、問題は乾性の人だが、実は耳垢が乾性の人にも綿棒が有効だ。そのまま使用するとあまり取れないから、耳に突っ込む間に、綿棒の方を適度に濡らす。これで湿性の人が綿棒を使うのと同様の効果を発揮する。なお、耳垢を残しておくと虫よけになるそうだ。

耳垢 - Wikipedia

久しぶりに

おとつい、久しぶりに郵便局へ行った。郵便局へは日常的に通っているが、その郵便局へ行くのはかれこれ夏以来だった。最近通っている郵便局は、去年の夏までずっと改装中だった。その間は久しぶりに行った郵便局へ通っていた。1年ぐらい。

郵便居の局員から「久しぶりですね」と言われた。「遠くなったから」と言った。改装が終わったから、今通っている郵便局によく行ってると。この郵便局は夏頃に移転しており、そのせいで遠くなったため、僕が通わなくなったと思われたようだ。訂正しなかった。説明する意味がない。

昨日、久しぶりに図書館へ行って本を借りた。ネットで予約しておいたやつ。

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スーザン・ソンタグ著『他者の苦痛へのまなざし』

閉館時間が変わっていた。30分だけ。30分だけ変えることで、何が変わるのだろう?

久しぶりに、インドのレコードを買った。

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ウスター・アブドゥル・ワーヒド・カーン

聞いていても退屈なやつで、聞かない用の音楽。

近所の薬局で、久しぶりに買い物をした。豆乳とマヨネーズ。成分無調整豆乳には慣れてきたけれど、いまだおいしいとは思わない。豆腐の味。ここの薬局はQUICPayが使えるため、Apple Watchで決済ができて楽だ。コンビニもQUICPayに対応している。無印も使えた。スーパーはなかなか使えないところが多い。

今日、久しぶりに雨が降った気がする。暖かい日。

久しぶりに行きたい本屋がある。けれど読み終えていない本がたまっており、まだ行かない。

「生まれてこなければよかったのか」という問いについて

反出生主義についてWikipediaを読んだり軽く記事を読んだ程度で、本は読んでいない段階。

まず、「生まれてこないほうが良かったのか?」という問いがあるらしい。自分はどうか。傷つきやすかった頃なら「生まれてこないほうが良かった」と答えた。もしくは、逃げ場がなかったり逃げる手段がなかったら「生まれてこないほうが良かった」と答えただろう。

今の自分の答えは、「どちらでもいい」になる。「生まれてこようがこまいが、大差ない」「どちらも大して変わりない」というのが、今の自分の答え。それなりに嫌なことはあったが、死ぬほどではなかった。今の今までなんとかのらりくらりと生きてこれた。かといって、「生まれてきてよかった」などとは思ったことがない。生きてきて一度もいいことがないわけではないけれど、それが「生まれてきてよかった」などと思えるほどのことではなかった。出生が、ないならないでいい。どちらでもいい。

生まれてこないほうが良かったのか? 哲学者・森岡正博さんと「反出生主義」を考える|じんぶん堂

「生まれたせいで人に迷惑かけた」とか「生まれたおかげで人と出会えた」とか、人のことは僕は割とどうでもいい。自分が人に影響を与えようと与えまいと、それは本人の問題だ。人がどうなろうが、僕は知ったこっちゃない。同時に、誰かと知り合えた程度で、自分の出生を肯定できたりはしない。自分の人生は自分だけのものだ。人との出会いで左右されることはあっても、他人に人生を明け渡したりしない。

だから反出生主義における「地球に害をなすから」とか割とどうでもいい。害であるかどうかは地球が勝手に判断すればいい。俺には関係ない。「だから子供を産まないべき」と思う人は、そうすればいい。自分はどうでもいいと思ってしまう。「生むことが暴力」だと思うんだったらやめたらいいだろう。その人の自由だ。僕自身はやはり、それは子供本人が決めることだと思う。子供が「暴力の被害を受けた」と訴えるなら「エゴでお前を作ってスマンかった」と言うぐらいのことはできるんじゃないか。それぐらいの責任は親にはあるだろう。

私たちは「生まれてこないほうが良かったのか?」哲学者・森岡正博氏が「反出生主義」を新著で扱う理由 | Business Insider Japan

出生の肯定はどうすればできるか。自分の場合「〜があるから生まれてきて良かった」などとは言えないが、生まれてきてよかったことが一つもないわけではない。経験できてよかったこともある。それも出生の肯定と言える。ただし、同時に生まれてきたせいで負った苦痛もある。それが反出生主義における出生否定の要素になるのだろうけど、僕の場合はそこまでではない。「生まれてこなければよかった」という程の苦しみ方はしていない。そもそも出生を肯定する必要なんてあるのだろうか?

「死にたい」と思うことと「生まれてこなければよかった」と思うことはまた別物らしい。「死にたい」と考えるのではなく「そもそも生まれてきたのが間違いだった」「子は残さないべき」と考えるのが反出生主義だそうだ。結果を求めるのではなく、原因を求める思想か。

僕はやっぱり、「生まれてこなければよかったのか」という問いに対して、「どっちでもよくね?」と答えてしまうなー。人に迷惑かけるとか本当にどうでもいい。

素晴らしきこの世界、と言える人は、幸福の総量が多いか感度が高い人

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入れ忘れている物はあるのか。気になって、一度全部出して確認すると、また一つ入れ忘れる。指折り数えるが、そのうちもう足りないものではなくなる。背負うのをやめ、表へ出る。すぐまた引き返す。その繰り返し。行ったり来たりウロウロしていた。そこに歩むべき道はなし、足はなし、踏み込む地面なし、摩擦の抵抗なし、すかすかと足踏み。イメージだけで空を飛ぶあひるのように、真剣に考えたことがあるのか。

出会う者はみな笑顔を向けてくれる。目が合わない。背中の形が違う。お互いに納得する。「いい日でしたね」それを僕らは正しき伝統だと言える。やさしさだと。石の形をしたら埋まってしまうから、なるべく早く通り過ぎる。わきまえている。

1/9

部屋の奥でなびいていた。窓の向こう側だった。肌に当たる感覚を再現する。髪が当たり、水分を奪って亀裂が走る。ついたてが必要だ。でもそのまま進むことはできないから、仕方なく全身を覆うことにする。もしくは、ショートカットする。隠してしまってなるべく視界に入らないようにする。すると空間は隔絶され、中身は4つだけになる。ミニチュアと4つ。足もとは乾いている。この乾きが、耐えられるのか心配する。猫は何事もないように寝ている。このままではいけない、このままでいる、二者択一をする。何度も行う。そのうち日が過ぎる。何日も過ぎる。空間はそのまま、そのままの空間を保とうとする。景色も変わらず。意思疎通がとれない。数字の実感が得られなくなった。なるべく意識を逸し、別のことを考える。光量が足りない。そのときのために準備をしておかなければいけない。でも、何が必要なのか、今の段階ではわからない。記して、順番に積み上げていく。項目は増えたり減ったり変わったりする。僕のせいではない。誰のせいでもない。

明日は心配ないだろうか。心配はするものであって、あるものではない。しないためには、全貌を把握しておくのがいい。明日までに時間をかけて、洗いざらい、もしくは、そのままにしておくか。とにかく、でも、一言、ひとことずつ積み上げ、形にならずとも。人の話は参考にならない。気分は、自分次第。ひっくり返してしまうと、広がり流れていってしまう。あふれてこぼれだしても、倒さないように留める。栓をしめる。そのために、距離をおいたほうがいいのだろう。少なくとも関わりの中で暮らしていない。通り過ぎていってしまうから、一人ひとり残しておくようにしたい。何もないなら、使っていきたい。

刺激的な刺激とは

知り合いが東京で、ポーカーができるバーをオープンするらしい。そういうのが流行ってるそうだ。もちろん日本ではお金を賭けられないけれど、知り合いは競技ポーカーのプレイヤーであり、ここ数年はいろんな大会に出ていた。ポーカーをやるためにオランダへ行ったりしていた。コロナ前には他にも並行して準備していた事業があったんだけど、渡航制限がかかり一気にポシャってしまった。再開するのはいつになるかわからない。

新しくバーの経営を始めるにしても、ポーカーにだけ関わっているとだんだん仕事になってしまい、うんざりしてきそうと言っていた。彼は他に何か、新しいこと、楽しいことがしたいと言う。曰く、刺激を求めているそうだ。

彼は元ゲーマーで、最近元ゲーム仲間と会ったらしい。その写真をInstagramで見て、僕はある動画のことを思い出した。この番組がなんなのかわからないけれど、フルバージョンが上がっている。1時間半近くある長い映像だ。

これはバーチャファイター10周年のドキュメンタリー番組のようだ。まだeスポーツなんて言葉がない頃に全国大会が開かれ、プレーヤーがテレビに出るぐらいの盛り上がりを見せた、バーチャファイター。映像に映る人たちは、バーチャはゲームの枠を超えた、コミュニティだと言っている。僕はこの映像を1時間半ずっと見ていた。

元ゲーマーの彼はこの映像に出てこないけれど、まさしくこの渦中にいた人だった。アテナ杯、その延長のビートライブカップ、これを超える刺激なんて、今後彼には訪れないんじゃないか。

「またゲームでも始めようかな」とも言っていた。普段からPS4などのゲームで遊んでいる彼だけど、バーチャぐらい本気でのめり込むゲームがあるのだろうか。当時の彼は、ゲームにのめり込むと同時に、シーンを作っている側の一人だった。現在の、既に出来上がったゲームシーンに、後からただ参戦して、プレイヤーとして遊ぶのではきっと物足りないだろう。

刺激って何なのかと思う。黎明期の刺激、ゼロから始める楽しさ、何もないところから人々を巻き込んでいく喜びというのがある。自分はそんなの経験したことないけれど、まだ名を知られていないものが、これから飛び出そうとしているエネルギーを感じたことは何度かあった。これから流行りそうなものを、立ち上げている側ではなく早期のユーザーとして、一緒になって盛り上がっていた。

はてなの近藤さんは創業以来webのシーンを作っていたけれど、オフラインに足を伸ばしたくなって物件ファンを始め、それから宿とレストランとコワーキングの複合するUNKNOWNを立ち上げた。同時に趣味の登山、マラソンの延長でトレイルランニングを始め、滋賀一周ラウンドトレイルという山の中を400キロ走る大会を開催した。

知人も多分、そういう人を巻き込む何かを一から始めたいんじゃないか、新しいシーンを切り開く側で何かやりたいんじゃないかと思った。でも今のところその何かは見つからないそうだ。

ついでに僕自身はそんな大それたことは考えたことがない。手近なところで、一人、もしくは数人で細々とやるのが性に合う。人を巻き込むほどの何かをやろうとしたことはなく、誘われる魅力も実力も持ち合わせていない。だから自分にとってこの手の話は、縁遠い話だ。特に今は、何かおもしろことを始めたいっていう気持ちがない。このまま何も起こることなく、今の生活が死ぬまで続けばそれが理想、とさえ思っている。

地方在住者だけど、ようやく知り合いに感染者が出た

「やっとここまで迫ってきたか」という印象。コロナで騒いだ2020年は、マスクをしたり消毒したり外出・外食を減らしたりしつつも、意識としてはやや傍観者的だった。なぜなら知り合いで感染した人が一人もいなかったから。コロナ禍が自分の身の回りで起こっている出来事というより、東京、大阪、もしくはロンドン、ニューヨークでのできごとであるような体感があった。

東京大阪にも知り合いはいるが、やはり感染した人はいない。知り合いの知り合い程度になると、さすがに何人もいる。直接の知り合いが感染したという話は、今回が初めてだった。それが同じ市内の人であり、「自分が感染する」という状況がかなりリアリティを持って近づいてきた印象を受ける。それでも基本的な感染対策はこれまでと変わらない。Go Toはなくなるだろうし、旅行したり外食することは減るかな。

感染のその後について、既にたくさんの事例がある。無症状のまま復帰する人、症状が出て元に戻った人、重症化して治った人、今も後遺症が残っている人、亡くなった人。日本ではこれまでに24万8576人感染し、そのうち3472人が亡くなっている。世界全体では8560万人が感染し、185万人が死亡している(1/5時点)。基礎疾患なしで死亡する例もある。若年者や30代、40代で重篤化した人、亡くなった人もいる。

自分がいつかかるか、どこでかかるか、かかったとして、誰に伝染すか、症状がどの程度になるかは全くわからない。予防はしているが、予測はできない。統計的には、基礎疾患がない若者・中年は重症化しにくい。でも重症化した事例もあり、その一人にならないとは限らない。

言い方を変えれば、運が悪ければ感染する。運が悪ければ重篤化する。運が悪ければ死ぬ。いつ誰がどうなるかはわかったもんじゃない。

唯一できることは、感染機会を減らすことだけ。コロナは人を媒介して感染しているから、人との接触、二次的な接触を減らし、感染のきっかけそのものを少なくする。それで確率は下がる。極端な話、誰とも接触しなければ絶対に感染しない。山奥で一人で生活していたら、まずコロナとは無縁の生活を送れる。現実にそういう生活ができる人は稀で、僕自身も無理だ。かろうじてできること、かつ有効な手段は、無闇矢鱈な接触を避けること。後は運次第。今までと変わらない。

これまでのコロナについての感想

フィジカルを買う

昨年から確実に、本や音楽をフィジカルで買うことが増えた。映画はまだ今のところ、あまりDVDを買っていない。でもサブスク配信全盛の今だからこそ、DVDで映像作品を買う意味は大きい。これは #29tizu でも言及されていたけれど、特典映像や特典ディスク、その他初回特典なんかはサブスクでは配信されない。吹き替えの俳優も違ったりするから、DVDでしか見られないバージョンもある。映像作品はDVDからブルーレイになったり、今後も規格が変わる可能性があるため永久不滅のソフトとはならないけれど、配信はもっと簡単に終了する。あらゆる点において、フィジカルで買う意味は大きい。片っ端から買っているとお金も置き場所もなくなるのが難点ではあるため、数は買えない。見るためというより、所有するために買う。

あれほど推していた電子書籍も、去年はセールで少し買ったぐらい。それ以上に紙の本ばかり買っていた。それらの多くは電子化されておらず、今後もされないだろう。紙の本のいいところは、何より売れるところ。売れると思うと気軽に買ってしまう。実際に売っているかというと、あんまりだった本はすぐに売った。それ以外は読み終えても棚に残したまま。本にも特典がつくことがある。去年はCDが付いている本を買った。

音楽ソフトをフィジカルで買うとなると、なんと言っても、これまでに何度も書いてきたレコードになる。去年は手元にあるレコードを再生するだけでなく、自分が聴きたいものをいくつか購入した。良いか悪いかは別として、配信で聞く音とレコードの音は明らかに違う。そういう意味でも、フィジカルを所有して最もうれしいのはレコードかもしれない。CDだと少し弱いと感じるのは、CD世代だからだろうか。それともアナログメディアが持つ物体としての魅力だろうか。

最近欲しいレコードはこのあたりです。物を買うとかさばるため、そんなには買ってません。

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「愛のかたち」は恐ろしい本だった

いったいこれはどういうことだろうか。自殺した直後の妻を撮ることに、どのような意味があるのだろうか。そもそもこんな状況を撮ることが許されるのだろうか。自殺した妻を写真に撮ることは当然ながら、犯罪ではない。しかし精神が病んだ妻の姿を執拗に撮り続け、死の直後までカメラを向けること、さらにそれを作品として発表することは、並大抵の精神ではできない。はたして、古屋という男は何者なのだろうか。 P21-22

気になって、二日で読み終えてしまった。好奇心に駆られたと言っていい。自殺した直後の妻の写真を掲載した写真展を行い、その後も死んだ妻の写真集を、同じ「メモワール」というタイトルで何度も出版し続ける写真家、古屋誠一。著者は古屋が「なぜそんな写真を撮ったのか」そして「なぜそれを作品として発表したのか」ということが気になり、取材を申し込む。

著者は古屋に手紙を送り、取材の約束を取り付け、古屋の住むオーストリア第二の都市グラーツを訪ねる。この古屋という写真家は大変難しい人物らしく、ぶしつけな質問はできない。聞いたところでまともな答えは返ってこないだろう。慎重に、12年にも渡る取材を行っていく。その間も古屋は「メモワール」シリーズを出版し続ける。

「この家は…間借りしているという感じ。 たえず、人の家って感じ。だけど、作品があって、それに満足したら、作品が家になる。特に写真集だよね、自分としては。自分の写真に取り囲まれているような状況にしたい。孤独だからね」 P58

古屋という人物を訪ねるたびに、新たな情報がもたらされ、今までになかった印象を受ける。妻クリスティーネとの生活、息子との関係、クリスティーネの母親、古屋の生い立ち、両親、弟の存在。古屋という人物が今の行動に行き着くきっかけ、要素を全て線で結びつけ、古屋という人物を体系化しようとする中で、著者はどんどん古屋にのめり込んでいってしまう。

「アパートでは、一枚も写真を撮りませんでしたね」
「写真を撮る気にならないというか、別にここで撮ってどうするっていう感じだった」
「では、どうして十六年前、飛び降りた直後の写真を撮ったのでしょうか?」
唐突な私の質問に、古屋は少し驚いたようだった。
「なんだか知らないけど、撮った」
短い答えだった。 P136

この話のオチそのものは、実にあっけない話だった。古屋にのめり込みすぎてまとまらなくなった著者は、古屋と親しい荒木経惟に意見を求める(アラーキーをヨーロッパに紹介し、世界に広めたのは古屋その人だった)。アラーキーは簡単にその答えを言う。言われてみれば、初めからわかりきっていたような答えだった。ただそれは、棺に眠る死んだ妻の顔を写真集に収めたアラーキーだからこそ、言っていい言葉、言える答えだったようにも思える。言葉の重み、実感を得る。

この本では、取材していた時期に9.11テロ、東日本大震災が重なる。著者はテロの現場、被災地において撮るべき写真、撮っていい写真について考える。凄惨な現場の写真を撮るとはどういうことか。それは、精神の病に苦しむクリスティーネを撮る古屋、自殺したクリスティーネの死体を撮る古屋に共通する部分があるのか。興味、好奇心、美しいもの、惹かれるもの。それら見られる者と、見る者という関係が、

クリスティーネ(被写体)←古屋誠一(撮影者)←小林紀晴(著者)←読者 と続いて我々も当事者になる。

芸術とは、表現とはなんなのか。どこまでが許されるのか。どこまで突き詰めるべきなのか。倫理観とは?美しさとは?受け取り手は、どう見ればいいのか。それぞれによって違う。では、あなたはどう考えるか?あなた古屋をどう見るか?そう問われているような本だった。とても苦しい。

買った物、だけでなく2020

いつも思うんだけど、この買ったものなんとかってだいたいソフトではなくハード、それもAmazonで紹介できる家電ばかり。僕も例外ではなく、今年はやはりどうしてもAirPods ProとApple Watchが挙がってくる。(Apple Watchは買ったものではなく貰い物)。そしてもう一つはやはりカメラ、RX100M3。これも貰い物。もらってばかりだ。

AirPods Pro

AirPods Proは、iPhoneだけでなくiPadやMacも使っているなら非常に便利。今年は今まで使ってきたワイヤレスイヤフォンも含めた総論をまとめました。

Apple Watch

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Apple Watchについて、語り尽くされていることだと思うけれど、電車通勤だったりQUICPayやiDを日常的に使える環境なら便利だと思う。右利きで普段左手に時計を付ける人でも、Apple Watchは右手に付けたほうが便利そう。通知も便利ではある。他は運動計測だったり、健康・おもちゃ的要素が強い。Apple Watchを選ぶときは、セルラー使わなくてもセルラーがよさそうです。理由はガラスが傷つきにくいから。アルミ以外を選びましょう。

カメラ

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RX100M3はいわゆる高級コンパクトにあたる。持ち運びが簡単で、手軽に撮れる。めちゃくちゃ久しぶりにオートフォーカスを使っている。楽だけどなかなかうまくピントを合わせられないところもあり、一長一短。ポケットサイズだから気負いせずいつでもどこにでも持っていけるのは嬉しい。

それ以外

そういうのを書くと、あとは何が残るだろう。一つ変わり種を。

評判が良くて購入した、Face to Faceという写真集。それを撮った写真家、古屋誠一を、同じく写真家でもあり作家の小林紀晴が、12年間に渡って取材したノンフィクション本。合わせて読みたい。

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そろそろ「今年買ってよかったもの」系エントリー2019 - Letter from Kyoto

2018年に買ったもの(新時代の定番) - Letter from Kyoto

今週のお題「今年買ってよかったもの」(2017) - Letter from Kyoto

2014年に買った物が全然無い - Letter from Kyoto

お題「#買って良かった2020

酒をやめる風潮

最近けっこう感じる。まず最近の若者は酒を飲まなくなったと言うし、僕らのような中年以降にも酒をやめる風潮があるように思う。というか実際やめているという話をちらほら聞く。昔は酒も健康にいいとか、酒は万薬の長とか言ったけれど、現代では普通に体に悪いという結論で落ち着いている。

僕は15年ぐらい吸っていたタバコを昨年からやっと控えているところで、酒をやめるなんて到底無理な感じだ。ほぼ毎日飲んでいるから。しかしうちの奥さんは全然飲まなくなった。元々家では飲まない人でもあったが、こうやって周りで酒飲まない習慣に固められていくと、そのうち飲まなくなる可能性もある。タバコはまさにそうなった。

だったら酒の代替物はあるのか。タバコに関しては結局なかった。なくて苦しんでいる。もしくは食べる方向に走っている。酒を飲まなくなって、より食べる量が増えたりしたら太って健康を害して本末転倒だ。そうやってドカ食いしてドーパミンを分泌させていたら、酒であろうが食事であろうが一緒なんじゃないか。世の中には依存性の高い油、塩、糖などを控える風潮もあるようだ。それも健康のためなのか?

僕はべつに健康志向ではないから、タバコをやめたのだって健康を考えてではない。人はなぜ酒をやめるのだろう。酒での失敗をなくすため、という話も聞いたことがある。僕はだいたい自宅で飲むから、最近はあまりそういうことはない。酒をやめる必要はあるのだろうか?なんのために…

代わりに筋トレとかジョギングとかやっている人がいる。僕はそういうのやるのが嫌だから代わりにならない。

今年見た映画(2020)

去年は今年の倍ぐらい映画を見ていたが、感想は全然書いておらず、まとめてもいなかった。今年は映画全然見ていない。でも本と同じでいくつか感想を書いていたため、まとめておこうと思う。

計22本

今年は3回しか映画館に行っておらず、それ以外は全てNetflixかAmazon Prime。もともとよく映画館に行く方でもなかったが、いつもに増して少なかった。見たい映画はいくつかあったが、配信に流れてくるのを待っておこう。アイリッシュマンは去年の宇多丸さんのベスト1、アリースター誕生はレディーガガの映画だと途中で気づいた。アイトーニャのなんとかハウザーよく見かけるようになった。ケン・ローチ映画今年初めて見た。1917はゲームっぽかった。ビフォアシリーズ続き見たい。サイコマジックはvimeoの配信。初めて利用した。パターソン良かった。マティアス&マキシムはめっちゃ好きな映画。グザヴィエ・ドランをもっと見たい。

今年の映画を選ぶとしたら、とりあえず「家族を想うとき」が一番感情を揺さぶられた。去年の映画です。めちゃくちゃつらい映画。泣ける映画とか見て感動している人にぜひおすすめ。夫婦で映画館で見て二人ともボロ泣きだった。これが本当に泣ける映画です。ふさぎ込んでください。

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今年はずっと、気持ち的に映画見るハードルが上がっていた。来年はどうだろうか。もっと気軽に何も考えず見たいもんだ。

今年見た映画(2018) - Letter from Kyoto

今年見た映画(2017) - Letter from Kyoto

今年読んだ本(2020)

去年はあまりにも読んだ本の数が少なくて、まとめなかった。数えてみたら10冊だった。今年も決して多くなかったんだけど、いくつか感想も書いたからまとめておこう。

計22冊

未来学会議はずっと前に買った本で、やっと読み終えることができた。スタニスワフ・レムは邦訳されている本が少ない。完全なる真空が文庫になっていた。国境なき医師団も竹内浩三も、ラジオ番組アトロクで紹介されていた。去年からけっこうラジオ経由で本を読んでいる。プレゼンが上手い。本屋になりたいは一番やさしい古本屋開業本。忘れられた巨人もやっと読んだ。なかなか大変だった。アジアンジャパニーズは初めて読んだ本ではないけれど、感想を書いたから入れた。宮田珠己本は今年たくさん買い集めたが、まだ全然読んでいない。村上春樹はエッセイばかり読み捨てるように読んだ。夏葉社本をたくさん買って、たくさん読んだ。まだ読み終えていないのもある。愛のかたちは後から追加。写真がテーマ。

今年の一冊を選ぶとしたら、「90年代のこと」だろうか。今年出た本ではないけれど。Mid90'sなんて映画が上映されたり、ファッションや音楽など90年代が見直されている昨今、リアル90年代はどんなだったか書かれている。僕は当時子供だった。読んでいるといろんなことを思い出す。結構昔のことなんだけど、こんなにいろいろなことをよく覚えているなー。僕は今のことも昔のことも結構忘れてしまっている。こうやって提示されたら思い出すことはできるけれど、自分一人だったら引き出しの取っ手を掴めない。記録しておくことが大事だなー。そういう内容の本ではない。とにかく、よくも悪くもリアル90年代を思い出す。

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今年買った本は多かった。まだ読んでいない本も多い。ちゃんと読みたい。

今年読んだ本(2018) - Letter from Kyoto

今年読んだ本(2017) - Letter from Kyoto

今年読んだ本(2016) - Letter from Kyoto

けっこう前、僕は割と熱心にブログに取り組んでいた。僕の生き写しはブログと言わんばかりに、自らをそこに反映させていた。その頃の自分が書いた文は、もう今は書けなくなっている。そして今はもう、ブログへそこまで自らを費やしていない。

そういうものは他にもある。あれだけ熱心に撮っていた写真も、今はたまに撮るぐらい。当時の僕を知る人は、常に写真ばかり撮っていたイメージを持っていると思う。今は全然そんなんじゃない。熱意がなくなったとか、写真に飽きたとかではない。今でも撮るときは撮る。ただ、そんなに撮らなくなった。

旅行も全くしなくなった。コロナだからという理由もあれば、結婚したからという理由もある。ただ、前々から行きたかったところはあらかた行き尽くした。今後アフリカより遠くへ行くことは、まずないだろう。アイスランドとかロシアとか行きたいとは言ってるが、なんとなくというだけで一生いかないかもしれない。昔ほどの旅行熱はない。

本や映画は相変わらず消費している。数が減ってはいるけれど、心情的に変わらない。英語はどんどん落ちている。もともと趣味ではなかった。今、ここ1年ぐらいの間にブログや旅行、写真に取って代わったのはなんだろう?

一つはレコードだと思う。集めて聴いているだけ。これもいつまで続くかはわからない。ただ僕にとっては久しぶりの新世界だった。聴いているだけにしても、今まで全く接点のなかった音楽に触れるようになった。シティポップもそうだし、AORとかアンビエントとかが未知の世界だった。プレーヤーを買ったのが大きかった。もう一つ取って代わったのは今の仕事絡み。

自分がやっていることはそのときどきで移り変わる。それに伴っても、伴わなくとも、関わる人は時間の流れに従って大きく変わる。人付き合いがあまり続かないほうだ。ただ僕の場合は、今でも旅行が好きだし、写真も好きで、撮ったり買ったりする。ブログだってこうやって書いている。僕はころころ本流が変わる方だけど、かつて熱中していたものが、自分の中からまるごと消えてなくなったりしない。「なんであんなことに真剣になっていたんだろう?」って思うようなことには、初めから手を出さないです。それは人も同じ。

宝くじが当たらなくても仕事をやめた

宝くじが当たっても仕事はやめない - 意味をあたえる

これを読んで。

やめたところで一体どうやって生きていくのか。食うに困らなくなって、何をする必要のない人生が私には怖い。もう「仕事が忙しくて○○できない」という言い訳ができないのである。仕事が好きだと言うつもりはない。

この人は嫁も子供もいるからこういう発想なのか?それだけではないと思う。僕は食うに困らない人生が怖いなんていう発想はない。食うに困らなければ、どれだけ良かっただろう。ずっとそう思っていた。仕事が忙しいとき、僕の神経は常に衰弱していた。「仕事が忙しくて○○できない」という言い訳は可能な限りしたくなかった。仕事以外にやりたかったことがあったわけではない。

僕は宝くじも当たっていないし、配当金だけで暮らしているわけでもない。仕事をやめたとき、一番現実的だと思えた最後はホームレスになって死ぬことだった。飢え死に、行き倒れは、生物として一般的な死に方だと思った。どんな死に方がいいとか、若い頃はあったかもしれない。でも結構前からどうでもよくなった。最近身近で病死した人を見て、死の間際にまで立ち会い、どんな死も等しく苦しいのではないかと思った。だったら形にこだわるのは無意味ではないかと。

ただそれまでに、やれること、やり残したこと、興味を持ったことに手を出そうとしていろいろしてきたのが、仕事をやめてからの5年間だった。今のところまだ間近に自分の死は迫っていない。宝くじが当たっても、焦らないだろうな。「資産を守ることに注力せねば、とか考えると憂鬱」はちょっとありえない。普通に手堅く運用すると思う。今年はコロナのタイミングで一時的に下がったけれど、そのとき買増した分が順調に上がって、コロナ以前より増えているという人は多いんじゃないか。

さらに元の文章

こんな世の中だからこそ、「本当のお金持ち」の話をしよう。 - いつか電池がきれるまで

こちらも読んだ。こちらは税金や資産形成の話。労働の対価で蓄財することと、投資によって資産を増やすことを対比している。ここに書かれていることは極端で、必要十分な小金持ちの例が抜けている。自分の知り合いの投資家は、仕事もしながらIPOも当たらず、10年ぐらいかけてコツコツと5千万から1億程度の資産を投資で築いた。目標とするなら、選ばれた立場にいるスーパー金持ちよりも、スタート地点が大して変わらないこちらじゃないのかな。持たざる者が、元々持っている人に追いつく必要なんてあるか?追いつきたいと思わない。年収1億なんていらないでしょ。

僕がそう考えるのは、お金を全然使わないからかもしれない。ギャンブル依存症ではないし、旅行はするけど贅沢な旅行はしない。お酒は飲むけれど高いのをあえて飲んだりしない。店で飲むよりボトルを買って家で飲むことのほうが多い。タバコは1年半吸っていない。ソシャゲには課金しない。10年ぐらい同じ服を着ている。本はブックオフの100円コーナー、新刊は図書館で借りる。グルメでもない。というか食べるの苦手。今まで何度も「そんな人生楽しい?」と言われてきたが、僕は浪費することの喜びはあまり感じない方。虚しさが勝る。

今はレコードを買ったりしている。1ヶ月で3,000円とか?子供の小遣い程度。生活できる前提にはなるけれど、お金を使わない生活をしていれば、お金のことであれこれ悩むことはあまりないんじゃないかなーと思う。資産がどうとか、取り組むのはいいと思う。けれど極端に恵まれた人たちと自分を比べたって、あまり意味がない。それが格差なら、昔からそうだったと思うし。